36度のバスルーム

伊川

第1話




夏から秋への移行期間。いじましくジワジワと鳴き続ける蝉の声と、青い枝葉が夏の名残をこびりつかせている。


けれど涼しい風と空の薄らいだ色は秋のもの。また柔らかく白い陽光が、なによりそれを語っていた。


昼のバスルームはひどく明るい。

大きな磨りガラスから通る陽光は湯船に差し込みゆらゆらと揺れ、私の腿の上を踊っている。


視界には胸より下の自身の半身がうつる。光を受けた湯に浸った足は、ひどく青白く、そして柔らかく見えた。膝小僧だけがほんのり赤みを帯びているがそれ以外は作り物のように白く蒼い。昼風呂に入ったことのある人にならきっと伝わるだろう。


足の指、脛、腿、それから丸い腹と胸。普段こんなに自分の肢体をまじまじと見ることはそうない。

不思議な心地だ。


ざぶんと頭をつけてみる。一人きりの風呂だから、マナーも何もない。まだ洗ってもないごわごわした髪が、湯に梳かれてするすると踊る。


こぽこぽと自分の息をしている音だけが聞こえた。

三十秒数えたところで、苦しくはないが頭を上げた。肺に一気に空気がはいり、呼吸をしていたことを思い出す。びちゃびちゃになった髪が水滴を落とし、肩が冷えたので、また湯船に深く身を沈めた。口元まで湯に浸し、目を細める。


足をうんと伸ばせる浴槽に大きな窓、薄いクリーム色のタイル。自分の家では味わえない、ちょっとした贅沢だ。


他の人の気配はない。当然だ。

この家の主である母は先月の終わりに亡くなってしまった。

だから一人きり。独り占めだ。


浸して柔らかくなった指をこすりながら、湯船から上がり、髪を洗う。

母が残していった石鹸は一向に減る気配がない。当然だ。私がこの昼風呂を満喫するのは、まだ、あれから三度目なのだから。


据えてあったシャンプーを泡立てると、よく知った香りが鼻をついた。


母の髪と、枕の匂いだ。


安っぽい花の香りは、近所にあるスーパーで安く売られているもので、髪と肌に優しいアミノシャンプーだ。母はこれがお気に入りで、私が幼い頃からずうっと使い続けていた。

だから枕を並べるほど幼い時分から、慣れ親しんだ、母の匂いだ。


私がここに来ることを、姉と父は知らない。私たち家族は全員、別の家に住んでいるのだから、ここは母だけの家で、そして今は空き家だ。


喪があけて、母の家の処分は私に任された。姉は県外に家を構えているし、父は母にかけらも興味がなかったから、それはごく当然の流れだった。

夫は私が家の片付けに行っていると思っているので、「弔いだね」と優しく送り出してくれる。


人気の無い空き家だけれど、まだ、ガスも電気も水道も止めていない。シャンプーや石鹸だって残っているし、冷蔵庫は賞味期限の切れていないものが溢れている。


母が死んで、私が昼風呂に入りにくる以外は、何一つ変わってやいないのだ。


髪と体を洗い、また湯船に浸かる。入浴剤も何も入れていない、混じりっけのなかった湯は、私の体や髪についていた微細な埃をゆらゆらと浮かべていた。

ぬるい温度は自分の体温と溶けて混ざって、湯に浸かっていることを忘れてしまいそうだった。


空っぽの頭に遠くの蝉の音を通していたが、しばらくすると、休みなれない私の脳は、何も考えなければいいのに、湯から上がった後の飲み物を思い浮かべている。


来る途中、家の近所にあった輸入品スーパーで、ライムシロップを買った。今までそんな気取ったものを買ったことはない。安くもなく量もほどほどにあったが、なんとなく手にとってしまったそれを、炭酸水に注ごう。

湯船に浮かぶ、抜けた髪を掬いながらそんなことを思った。


明るいバスルームは、抜けた髪がよくよく目立つ。私はそれを一本ずつ掬って摘んで、風呂のふちに並べた。


昼風呂から上がった後、結局ライムシロップは開けず、暖かい紅茶を入れた。戸棚にあった黄色いティーバッグに湯を注ぐだけ。


髪にタオルを巻き、行きに来ていたワンピースを体に通す。

薄着過ぎるかと思ったが、怠惰に湯に浸していた体は十分に温まっており冷えは感じなかった。

あんなにぬるい温度でも長い時間浸かると温まる。


着替えてから、片付けをするでもなく二杯の紅茶を飲んだ。

手持ち無沙汰で、せっかくの時間に何もしないのは勿体無い。

けれど、窓の向こうのよい陽気に目を向けると、何かする方が勿体無いと感じてしまう。


私は三杯目の紅茶をいれた。


天気はいいが太陽が高いからだろうか、部屋の中はやや薄暗い。白い光が窓の形で四角く切り取られたように見える。

紅茶を飲み終えるとわずかな眠気を感じ、私はソファに身を沈めた。この体ではしょうがないのだろうが、ひどい眠気がもうずっと続いている。

うとうとと目を細めていると、電話の置いてあるチェストの上に懐かしい本を見つけた。


それは小学生の頃、私が読んでいた短編小説だった。なぜそれが出ているのだろう。母が生前読んだのだろうか。

有名なミステリー作家の作品で、しかしミステリー色の薄い、日常にすこしの謎と殺人を取り入れた作品集だ。

その中に私の一等お気に入りの話があった。本を手に取らずとも思い出せる。


海に来た女とその幼い娘を見て、男が初恋を思い出す、ただそれだけの話だ。女には娘がいて、話には出てこないが夫もいるのだろう。男にはともに店を持つ妻がいる。それでも初恋の思い出を大事に掬い、女と別れるーーそんな話だった。


私は大好きだったその話を、母は「おじさんが女々しい」と切り捨てた。

幼い私が「これほどの純粋が」と愛した作品は決して母にはそう見えなかったらしい。


今ならそれがよくわかる。


小学生だった私に「純粋」としか映らなかったその初恋。結婚し家を構え子を産み育てた母には「老い」としか映らなかったのだろう。


二十年越しの謎にぴかりと得心のいった私は、重たい身を起こして、また風呂へと向かった。

初潮を迎えた時ではなく、成人した日ではなく、結婚した年ではなく、妊娠を感じとった瞬間ではなく、


今になって、大人になった気がした。


バスルームに入り、濡れたタイルを裸足で踏む。忘れるところだったと、湯船の栓を抜いた。


羊水って何度なんだろう、と腹をさすりながら。

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