ビルの境界

※墓標の海 の作家視点。


 今年が始まってから、もう3ヶ月も経つらしい。年始に立てかけたまま、久しく捲っていないカレンダーは、まだ1月を指している。しかし手元のスマートフォンは、無情にも、今日が3月1日である真実を示していた。

 そうか、もうそろそろか。気怠さと共に身体を起こす。前々から、この日にしようと決めていた。ようやく開放される。私の中の過去が囁く。時計の針が、心臓の鼓動のように、やけに煩かった。


 理由を聞かれると、どう答えたら良いのかわからない。けれど、それはあらかじめ決められたことであったような気もするし、それが私の似合いの末路であるような気もする。数多の可能性はまだ用意されているが、気持ちは本能すらも通り越してそちらへ向かっている。時折揺れる電車のように、銀河を渡る鉄道のように。


「愚かですね、貴方は」


 誰かが私に囁いた。これは私の幻影だ。いいや、私の、というより、彼の、と言った方が正しいのだろうか。髪を梳いた。大昔に、祖母から貰ったつげの櫛。硬い木の感触は、引っ掛かりのある私の髪には若干、不釣合な気すらしたが、それはそれで私にお似合いだと思った。

 散り際は、せめて綺麗に。なんて、おかしいほどに理想を詰め込んだ幻想だ。数時間後にはどうせこの身体は、肉片になって消える。地面に叩きつけられて、周囲の人間に微かな綻びを与えて、私は忘却の海へと還る。今まで何度も、その境界は越えようとしたが、いつも彼が私を引き戻していた。けれど、今回はもう、彼は来ないだろう。なんとなくそんな気がしていた。


「貴方が肉片になるのを、誰が見たいと思いますか?」


 私の中の彼が問うてくる。さあ、誰だろう。しかし命を繋ぐようにして綴ってきた文章だって、これ以上誰が求めるだろう。メディアか、それとも数少ない稀有な私のファンか。どちらにしても、その空白はいつか、別の空白に埋められるだろう。すべて経験してきたからこそ、語れる真実だった。追いかけてほしいとは、誰も思わない。

 手入れすらしていなかった黒髪が、本来の輝きを取り戻す。呑気なものだ。これから毛髪の宿主は肉片と成り果てるのに。今日着ていく服を探す。呑気なものだ。こんなもの、全てこの醜い体内の色に染まるのに。吐き気がするほど世界は平穏だった。


「何が欠落したら、貴方はそんな風に無へと向かえるのですか?」


 今日はやけによく喋るな。欠落したからではない、欠落していなかったから、無へと向かうのだと思うよ。これで満足か、幻影。

 私は笑った。パソコンの電源を落とす。これを起動することはもうないだろう。

 好奇心は人を殺す、とはよく言ったものだ。私はいずれ来る安寧の眠りを知りたかった。誰かに首を絞められてでも、誰かに銃で撃ち抜かれても、なんでも良い。こんなことを言えば勝手にそこへ向かえば良い、と世間は笑うだろう。実際、何度も言われてきた。生きることを放棄するならば、迷わずそうすれば良い。ただし人に迷惑はかけるなよ、と。

 誰が聞いてやるものか。欠落した世間の絵空事など。残りの人生を他人に譲る技術があれば、それも選べただろう。しかし此処にはそれがない。静かに眠らせてくれる場所すらない。綺麗な選択を選ぶ権利など、どこにも見当たらない。それどころか、無に還ったものは問答無用に神格化され、墓まで建てて祀られる。私もそういう意味では神になるのだろうか。中傷され、嘲笑われ、そうしていつか、境界を超えたものとして神格化され、あの電子の海を泳ぐことになるのだろうか。


「貴方は神にはなれません。私がさせません、この先もずっと」


 面白いな、君は。いや、私の中の君か。

 それならば、私の中の君に免じて、私を騙る権利を僅かながらに遺しておこう。私はボールペンを手に取った。適当な紙に、パソコンのパスワードを記しておく。きっと最初に目に留めるのは、君だろう。私は天涯孤独だ。何度も私を掬いあげた君くらいしか、託せる者はいない。僅かな血の繋がりがある人々は、受け取ろうとすらしないだろう。

 本当は財産とかも君に渡しておきたいんだけど、騙るとなったらどうなるのだろう。そこまで考えて、難しいことは考えまいと筆を置いた。なんとも往生際の悪い生だ。


「私に救う事を許さない気ですか?」

「許しているよ。ずっと。君が気付くか気付かないか、それだけの話だ」

「ここまでついてきたのに?」

「これからもついてきて良いんだよ。何もこれが終わりじゃないさ。形が変わるだけとも取れる」

「私はーー」

「私は?」

「……」


 私の中の君は、それ以上言葉を紡ごうとはしなかった。私がそれ以上、彼を理解していないからだと思った。私は、その次に君が吐くのは、どんな言葉だろう。無性に泣き出したくなった。狂いだしたくなった。世界はどこまでも平穏で、そして綺麗だった。


「……私もね、死ぬのはとても怖いわ」


 最期に彼に遺した言葉を反芻する。人には痛覚がある。感覚がある。意識がある。生命活動を止めた時、そういった肉体に宿ったものはどうなるのか。場数だけは踏んでいるが、実際、境界を越えたらどうなるのか、今の私には未知数だった。

 首を吊った安寧は今でも覚えている。感覚が徐々になくなっていく。意識が塗り潰される。覚えばあの時が一番、私の人生で輝いた瞬間だっただろう。蝕んでいく無から問答無用に開放された瞬間、まだ私を求めてくる人間がいたことが、たまらなく優しく思えた。


「貴方はきっと、来ないだろうな」


 世話になった自室に別れを告げて、外へ出た。まだ空気は冷たい。3月に入った空を見た。空は青い。どこまでもずっと。忘却の海を具現化したように、どこまでも青い海が広がっている。次はあそこへ向かおう。この手は天に届かなくとも。重力が私の身体を引き戻しても。彼が来ないのなら、私の意識はあそこへ行けるだろう。

 まるで駅で切符を買って、何処かへ向かうみたいだった。駅など通らない。場所は何処でもいい。空はどこにでも流れている。私はこの周囲で一番高いビルを目指した。堂々と入れば、案外人はイレギュラーを見逃すものだ。この時だけ、彼らが欠落している事に感謝した。世界の全てが、私を空へと導いているように見えた。


 屋上へのドアは、硬く閉ざされていた。しかしどうでもよかった。閉ざされているのなら、開ければ良いだけの話だ。どうせ彼は来ない。時間はたっぷりとある。

 持っていた針金で鍵穴を殺した。時間がかかったが、空の青さは一層強くなっていた。それでいい。私が目指したのはこの色だ。すべて吸い込んで、包んでくれそうな、強い青。


 先程選んだ白いワンピースが、ビル風に揺れた。金網をよじ登る。網目の隙間から、下に人通りが少ないこと、私を隔てる障害がないことを確かめた。どこかで引っかかったらたまったものではない。目に見える限り、この場所はその全てをクリアしていた。


「ごめんなさい、今から飛ぶの。下に来ないでね」


 申し訳程度に叫んでみせた。道を歩いていた人が立ち止まる。私の下には誰もいない。真っ直ぐに落ちれば、巻き込むことはないだろう。そう判断して、足元を蹴った。身体がふわりと宙に浮く。次に来たのは、私と空を隔てる重力の重みだった。


 結局彼は来なかった。なんだかんだと、夜から朝へと待ってみたけれど。流れていく景色を眺めて、私は死を悟った。誰の手も煩わせないように目を瞑った。ばらばらになれば関係ないかもしれないな、とも思った。

 最後に思い浮かべたのは彼だった。彼が私に手を伸ばす幻影を見た。世界はどこまでも、平穏で、綺麗だった。

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「墓標の海」 「ビルの境界」 クソザコナメクジ @4ujotuyoi

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