「墓標の海」 「ビルの境界」

クソザコナメクジ

墓標の海

 かつて世間を騒がせた、女性作家が死んだ。

 その事実は、忘却に沈む彼女の名前を、再び世に蘇らせる事となった。


――わたしは、死ぬ間際の夢を描きたいの。


 それは彼女の口癖だった。そしてその言葉通りに、彼女は何度も死へと足を踏み入れた。世間を騒がせるニュースも、彼女に関わるものは、どちらかといえば作品よりも、死へと向かうその行動だったかもしれない。

 明日を生きられない人間もいる、と、何度メディアに批判され、世間に中傷されても、その奇異な思想を揺るがすことはできなかったらしい。夢から覚めない、棺の中で横たわる身体がそれを物語っている。


 入水、服毒、刃物、首つり、自死の経験において、その右に出るものはいなかっただろう。ありとあらゆる死の苦しみを、彼女は生きながら経験し、作品へと昇華させて見せた。皮肉にも、彼女の行動を批判するものは多くとも、作品自身を見つめる者は僅かだった。それでも当の本人は、人なんてそんなものだから、と笑っていた。だから私は死を知りたいのだ、とも。

 そんな死のエキスパートも、流石に重力には逆らえなかったらしい。ビルの屋上から飛び降りて、あっけなく砕け散ってしまった。死の瞬間に彼女が生み出した作品がなんだったのか、それを知る者はこの世にいない。


「一番身近に感じたのは首を吊った時よ。苦しいことって誰にでもあるじゃない。それを代弁されたような気持ちだったわ」


 最後の作品に手をかける前のこと、彼女が私に、そう語ったことがあった。入水自殺を図ったところを私が見つけ、すんでのところで助け上げた、その二週間後のことだった。


「それに比べて、入水は駄目ね。問答無用で侵されるような気持ち。身も心も苦しくて、寂しいの」


 病室の窓から見える空が、眩暈をおこすほど鮮やかだった。思えばあの時の空が、彼女をビルの屋上へと向かわせたのだろうか。


「優しい話が書けたのは、やっぱり、首を吊った時だけね。あなたがすごく慌ててたのを覚えてる」


 私は回想する。ああ確かに、初めに彼女を助けたのは、首に絡みついた縄からだった。連絡しても返事が来ないので、心配になって部屋に駆け付けたのが始まりだった。その次に胃に溜まった毒、その次が腹を裂いた傷、そうして今回の入水。そうか、私は彼女の命の恩人になっていたのか。その時に初めて、彼女にとっての私を意識した。


「……あまり、取り返しのつかないことはやめて下さい」


 いつか助けられない日が来るのではないかと、危惧していなかったわけではなかった。改めて思い返し、回想すると、未来への恐怖が付きまとった。抱きとめられる状況ならばいい。けれど、それさえも叶わない場所で行動を起こされたら。そんな恐怖は、慢性的に、私たちの間に流れていたのだ。


「あなたは私が死ぬのが怖い?」


 その日彼女は珍しく、私の真意を尋ねてきた。問答無用で、赴くまま、死へと向き合う彼女には珍しいことだった。


「怖くなければ、助けません」


 それは本心であり、しかしその裏に彼女の作品への渇望があることも事実だった。女性を大事に思う裏で欲望のままにしたいと願う本能のように、綺麗事の裏にはいつも現実が隠れている。でなければ、誰がわざわざ、放っておけば勝手に死ぬ人間を気に掛けるだろう。弱者を置いていけば良いはずの世間が、彼女を責め立てるだろう。――自分本位でなければ、彼女を責め苦の前に追いやったりはしない。


「……そう」


 当の本人も、それを知っているようだった。だからこそ私は、彼女が自分の手の届かないところへ散ってしまうのが怖かったのだ。


「やっぱり、優しかったのは首つりだけね」


 すべてを見透かすような、死に侵された瞳が、私を射抜く。

 微笑む彼女の、真っ黒な髪を、冬の終わりの風が揺らしていく。


「私もね、死ぬのはとても怖いわ」


 それが、その一言が、私が聞いた彼女の最後の弱音だった。



 そうしてその一か月後に、彼女の訃報が私の耳へ届いた。作品の執筆を始める前であり、制作段階も、まだ彼女が自殺未遂をする頃合いでなかったことが、油断の原因であった。

 もしかするとその油断を狙っていたのかもしれない、と思うほどに、絶妙な時期のことだった。次に会った彼女の姿は、儚げなその容姿も見る影もなく、ただの肉塊となり果てていた。美しかった黒髪はアスファルトにこびり付き、キーボードを叩いていた白い指先も、爪が割れ、針金のように曲がってしまっていた。

 たまに泣きそうに陰った瞳も、批判や中傷に懸命に耐えた耳も、バラバラになって彼女ではなくなっている。その事実は、彼女が存命であった頃以上に、メディアや世間を騒がせた。中傷から耳を塞ぐこともできず、再び戻る忘却の海にも逆らえない。

 ただのパーツになってしまったその人は、もう耳を塞くこともできず、作品を伝えることもできず、ただただ、風化の一途を辿るのみとなった。


 死ぬのが怖い。彼女にとっての死は、なんだったのだろう。もしもあの屋上から彼女を引き戻すことが出来たら、作品を通じてそれを知ることもあっただろうか。それとも、もう伝える気など、すでになかったのだろうか。


 灰になった彼女の眠る墓標の前に、私は立ち尽くす。

 緩やかに空気を抉る風は、彼女の声によく似ていた。


(即興小説にて執筆・一時間/お題:彼女が愛した小説の書き方)

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