第10話 私は、あいつを知っています

 エレナはルクレツィアの要求に、すぐには従わなかった。

 当然だ。首輪をめてしまったら、エレナはルクレツィアの言いなりになってしまうのだ。

 奴隷にされてしまうよりも、もっとひどい。魔力が戻ったとしても、そのときにはもう、エレナの意志はなくなってしまうのだから。


「魔女よ、拒否するという選択肢は、あなたには無いのです」

 ルクレツィアは、そう言って僕のほうを指さした。


 瞬間、僕の足に絡みついていた水が、僕の顔に集まってくる。

 水が、僕の口と鼻をふさぐ。

 息ができない!

 僕を溺れさせるつもりだ!


「やめて!」

 エレナが叫ぶ。

 ルクレツィアが、エレナのそばにゆっくりと近づく。

「では、首輪を着けなさい。それで彼は助かります」


「なにもわたくしは一生奴隷になれと言っているわけではないのです。そうですね……せいぜい3年。おそらくは、それくらいの間、この世界の役に立っていただけば十分です」

 ルクレツィアは、ことさら穏やかな声で、エレナに語りかける。


「……私が従えば、本当にリョウを元の世界に戻してくれますか?」

 エレナが、そう言いながら、顔を上げた。

 エレナは泣いていた。

 ルクレツィアの声に、喜びとも安堵ともつかない色が帯びる。


「もちろんです。もちろんですよ、エレナ。わたくしとて、異世界の人を無闇に傷つけたくはないのです」

 エレナが、震える手で、首輪を掴む。


「……いいや、その必要はないよ、エレナ」

 僕は、ルクレツィアの後ろに立ち、そう言った。

 口と鼻を覆っていた水は、もう無い。


「なっ……!?」

 ルクレツィアが振り向いた瞬間、僕は彼女が胸に下げたブローチを奪い取る。


「アンタが水の魔術師だって聞いていたからね。こいつを買っておいたんだ。と言っても、アンタには何のことか、まるでわからないだろうけど」

 僕は、手にした薬剤の壜を見せて言う。

 ポリアクリル酸ナトリウム。いわゆる「高分子ポリマー」ってやつだ。


「水を凍らせたら動かなくなるなら、吸わせてしまっても動かせなくなるんじゃないかと思った。予想通りだったな」

 僕の勝利宣言に、ルクレツィアは忌々しそうに首を振る。


「リョウ……私、あなたを騙していたのに、どうして……」

 エレナが呆然とした顔で、僕に問う。

「どういう事情があるのか、僕にはわからない。でも、僕はここまでずっとエレナを見てきたんだ。エレナは、この世界の人たちを一人も傷つけちゃいない。もしエレナが本当に邪悪な魔女なら、ルクレツィアだって、僕を人質にして服従を迫ったりしないだろうしね」

 僕がそう答えると、エレナは涙で濡れた顔に、目いっぱいの笑顔を浮かべた。


「そんなことはこの際どうでもいいのです! その石を渡しなさい! 絶対に傷つけてはいけません!」

 ルクレツィアが怒りを発して叫ぶ。


「嫌だね。この石、触れた者の魔力を吸いつくすそうだけど、どうやら僕は触れても大丈夫みたいだ。元から魔力なんて持ってないからかな……エレナ、ここからは任せたよ」

 異世界の至宝、縮魔の石。

 僕は、その石を強く、床に叩きつけた。


 砕け散る魔石。

 同時に、強烈なエネルギーの奔流が、石から流れ出した。


「ダメ! その中には!」

 ルクレツィアが悲鳴にも似た声を上げる。


 魔力の光が、エレナに集まっていく。

 けれど、奇妙なことに、流れはそのひとつだけではなかった。

 エレナに集まる光よりも、もっと多くの光が、別の場所に集まっていく。


 光はやがて、どす黒いヘドロのようなものに変わり、異臭を放ち始める。

「お、おい、なんだあれ!?」

 僕の問いに答えるルクレツィアの言葉には、恐怖が色濃く感じられた。


「銀月の魔女がこの世界に来る数か月前……一人のプレインズウォーカーが、この世界を訪れました。彼は、『縮魔の石』を見ると、躊躇なく触れた。そうして、他の魔術師と同じように、残らず魔力を石に吸われたのですが……彼がほかの魔術師たちと違ったのは、魔力といっしょに、彼自身も石の中に入り込んでしまったことでした。私は恐ろしかった。彼は、必ずいつか石の中から出てくる。その日のために、強力なプレインズウォーカーを味方につけておく必要があったのです……」


 真っ黒なヘドロは、やがて巨大な蜘蛛のような姿をとり、妖しい鳴き声を発した。

 その鳴き声が、次第に音節を帯び、意味を帯びていく。

 耳をそぎ落としたくなるくらい、気味の悪い現象だった。


「き……き……きみたちは……ひどいことを……してくれたね。あと数日もあれば、石の魔力を残らず、私のものにできたのに……」


 蜘蛛に表情というものがあるのか、僕にはわからない。

 ただそのとき、目の前の巨大な化け物は、確かに笑ったのだ。


「みんな、伏せて!」

 エレナの声が響く。

 と同時に、蜘蛛の口から強烈な炎が放射された。


 弾ける衝撃波。

 気づくと、僕とルクレツィアを守るように、エレナが光の盾を構えて立っていた。


「私は、あいつを知っています」

 エレナは、蜘蛛をにらみながら言う。

「あいつは、私の世界を壊した魔術師。私のお父さんとお母さんのかたきです」

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