-第2話-
-第2話-
2004年、リクとあおいは中学3年生だった。鳥インフルエンザが大流行したり、アテネ五輪が開催されたり、新潟中越地震が発生して、新潟の人にとってこの年の後半はひどく心細い日々を送った1年となる。
そしてなにひとつ変わっていないように感じるこの島でも、それなりに衝撃はあった。
さすがに地震が発生したあの日は動揺に襲われたし、不安に苛まれた。しかしそれから間もない11月の佐渡島は、すっかり平穏そのものだった。今まで通りの生活がそこにはあった。ふたりは地震のことは心から消えきらぬまま、高校入試に向けて受験勉強に明け暮れていた。
「もう、外、暗くなってきちゃったねー…」
あおいとリクは町が営む公立図書館にいた。秋の匂いが漂う日。16時ともなればそろそろ外の景色も紅く染まっていく頃だろう。リクの目の前には、夕日の紅に染め上げられたあおいが、自分の方を向いて笑いかけている。
いつからだろう。見慣れたはずの幼馴染みの顔立ちから、彼の持ち合わせる語彙力では表し切れないような、一種の女性らしさを感じるようになったのは。誰もがふいに感じるようになるであろう、胸がずきん、と痛むあの感覚がリクの胸にも押し寄せた。本当に、いつの間にこんなことを思うほどに成長したのだろう…。
「そろそろ暗くなっちゃうし、かえろっか、あおい。」
リクはそっと唾を呑み込むことで我に返り、図書館の前にある自転車置き場に向かった。
「ねえリク!ちょっと海寄って帰ろうよー!」
リクが自転車を漕ぐ少し後ろの方から、あおいの声が聞こえてくる。
「でももうすぐ暗くなっちゃうし、危ないぞー?」
後ろを振り向くことなく、車が行き交う細い路地を進みながら大きな声でリクが答える。
「大丈夫だよー、久しぶりにあのベンチのところに行こうー?」
「…まぁ、あそこなら家も近いし、、わかったよー」
「やったー!じゃああたしが先に行くー!」
あおいがそう言うと、シャーッと爽やかな自転車のチェーンの音とともに、リクを追い越していく。追い越される時にあおいの長い髪がリクの顔面をくすぐる。
「あのー…髪の毛めちゃくちゃ当たったんですけど…?」
「あ、ごめーーーん、だって髪の毛ずーっと結んでたから疲れちゃったんだもんー」
「はいはい…」
「あー!最近リクそうやってあたしの言葉流すの、クセになってるよー、感じわる~い!」
「はいはい、ごめんなさいー」
あおいがリクを追い越す時のことをリクは悟られまいと、つれない態度でその場をやり過ごした。
いったいどんなことかといえば、胸まであるあおいの長い髪の毛から漂うシャンプーの甘い香りにどきどきしたり、リクを追い越す時のあおいの凛とした横顔にひどく見惚れてしまったり、薄い桃色をした頬を滴るひと筋の汗を目にして、図書館にいた時と同じあの胸のざわめきが起きたりと、本当に恥ずかしくてあおいには気付かれたくないことばかりがリクの頭の中を占めていた。もう、今日だけでなくここ最近ずっとこうなのである。これが思春期というやつなのだろうか。リクには心臓がいくつあっても足りないほど、あおいが彼にとっての脅威となっている。
なぜだろう、と不思議に思うほどキラキラした笑顔で自転車を漕ぐあおいの背中を目で捉えながら、ずっと頭の中をぐるぐると恥じらいが巡っている。
ここまでが中学3年生になったリクの”日常”である。
あおいは変わらない。きっと僕の気持ちには気付いていない。別に”答え合わせ”なんてしなくてもいいけど、この行き場のない感情を活かしてやる手段が見つからない、そうリクは感じていた。
そんなことを考えているうちに、海が見えてきた。小学生の頃は毎日のように自転車で通った砂浜へ続くガタガタな道も、中学生になってからは2人でこの道を越えることはなかった。
「2人で来るのめちゃくちゃ久しぶりじゃない?」
あおいの言葉に頷きながら、海岸が眼前に現れたのを確認して、大きく息を吸うリク。なぜかわからないけど、舗装されていない細い道を通っている時、リクは息を止めてしまうのだ。いつの間にか身体に染みついたひとつのクセ。彼がもっと幼い頃に、あまりにも家を飛び出して海に行くものだから、親やまわりの大人たちが彼に吹き込んだ意地の悪いウソなのだろう。心のどこかで、そんなおまじないなど信用していないのだが、リクはやめられないのだ。
そして、いつも一緒にいたあおいもリクから聞かされ、怯えてはじめてしまった同様のクセ。これもまた、ふたりが過ごしてきた月日を象徴する些細な出来事のひとつなのかもしれない。
「うん、あおいは最後に海に来たのっていつ?」
「うーん…今年は受験あるし、って感じで、最後に来たのは去年の夏だったかなぁ」
「小学生の頃は一緒にたくさん遊びに来てたのにね。」
「うん、このベンチにも良く座ったし、ごろんって横になったりしてたよね」
「そうだね、秘密基地もあったけど、飽きたり疲れたら必ずここに来てたね」
「リクは最後に海を見に来たのっていつ?」
「うーん…実は昨日来てたんだ。」
「えっ、そうなの?リクはほんとにここから見える景色が好きなんだね」
「うん…あおいとここに来るとできないから、大きい声で歌ったりしてる」
「えーーー!ふたりで来る時あたしが歌うとバカにするくせにー」
「へへ、あおいがあまりにも楽しそうに歌うから、僕もやってみたくなっちゃって」
「今ここで歌って!」
「えっ、やだよー」
「だめ!!」
あおいは悪人のようなニタつきを見せ、じっと黙り込んでしまった。
こうなるとリクは従うしかない。あおいに背を向けて、あおいがいつも歌っていた曲を歌う。
その直後、あおいは胸を強く突き動かされる。スッと水を掬うように、優しく、それでも確かにリクの歌声はあおいの心を掬い取る。
「ど、どうしてその曲の歌詞、覚えられたの?」
「はは、何言ってんだよ、あおいのお兄ちゃんが教えてくれたじゃん。」
「でも、英語の曲だし…お兄ちゃん、あたしに教えてたのに。リクは聞いてただけでしょ?」
「実はね、あおいがお兄ちゃんに教えてもらった曲だって知ってたし、いつか喜んでもらいたくて、別の日にお兄ちゃんに教えてもらったんだ。」
「うん…とっても嬉しい。」
copelandというバンドのpricelessという曲に込められた歌詞をふたりでそっと紐解きながら、陽が暮れゆく海を見つめていつものベンチで過ごす。15歳のふたりの想い出が塗りかわる瞬間だった。紅く染まって夜の入り口に踏み入るその数分間、ふたりとも、鼻をすすりながら、大粒の涙を互いに悟られないように零しながら歌った。
本当に数日前の出来事だった。
高校を卒業してすぐに島を出て就職したあおいの兄は20歳を迎え、束の間の帰省をしたのちに、勤務先で帰らぬ人となった。
命日は、中越地震の日だった。
リクとあおいは涙などとうに枯れていたと思っていた。
「リク…ありがとう。…ねえ、リクの歌声で、あたしは救われたよ。」
どうにも修正できないほど震えてしまった声のまま、あおいはリクに伝えた。
リクは黙って頷いて、自転車を押して歩き始める。
「忘れちゃダメだから、お兄ちゃんが好きな曲も覚えていよう、って思って。」
あおいはリクの制服の袖をぎゅっと強く握り、声を上げて泣いてしまった。
そして、あおいの兄から借りたCDプレーヤーでcopelandのCDを流し、お互い片方ずつイヤホンをつけて大音量で聞きながら家路に向かう。
今まで何度繰り返したことだろうか。
それでも、同じことをしても、今日はどうしても特別な体験となり、昇華される。
「ねえ、リク。あたしは、この島を出ていくのがどうしようもなく、怖くなっちゃったよ。」
「うん…そっか…。」
何も返せるはずがない。そっと相槌のように返事をして、リクはあおいを送り届け、家路に着く。
まだ15年しか生きてないけど、それにしても悲しいことばかりあるよ、この島には。
ねえ、この島を出たら、悲しいことは少なくなるの?
窮屈だからこんなに悲しみも濃いの?
もっと薄めてよ、お願いだよ。
リクはひとり、部屋でCDプレーヤーを再生したまま、布団に潜る。
ときどき、音飛びしながらもいつも通り流れる曲たちに、こんな今だからこそ、演奏してくれてありがとう、と心の中で呟きながら、ふて寝をした。
-第2話(終)-
-第2話 あとがき-
日常を非日常が襲ってきた時、僕らには何も為す術はありません。
さまざまな想いも虚しく、空を切ってしまいます。
やるせない気持ちに襲われた時、僕はどうしたらいいかわかりません。大人になった今でも術は見つからないままです。ですが、時にはごまかすことも必要なのではないでしょうか。
苦しいことばかり続いてるけど、今こそ楽しもうよ、笑えるように生きようよ。って、思うのです。
もちろん、止まることはしません。絶望の先に希望を再び見出せた時こそ、その人はいよいよ強いと思うのです。だからリクとあおいにもそうであってほしいのです。
第3話も、楽しみにしていていただけたらとてもうれしいです。
僕は海を忘れてしまったのだろうか ミウラリョウスケ @ryosu0102
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