-第1話-
リクには常に不思議な感情がつきまとった。
9才の少年は、元号が平成になってまだ間もない1990年の年明けに、新潟県の佐渡島という所謂離島でサラリーマンの父と保険会社の営業をしていた母の間に産まれた。
(離島といえど、比較的利便性の高い中心街にある父方の実家で暮らしていた)
寡黙で真面目で仕事人間だった父とは違い、母は仕事もそこそこに遊び呆けることに全精力を注ぐような根っからの遊び人気質だったわけだが、その話はまた後ほどするとしよう。
家から歩いて15分の道程を小さな歩幅で元気いっぱいにガシガシと歩いて登下校するのがお気に入りなリク。
ちなみに離島にある小学校というのは、いくら島の中心街にある小学校といえど、学区に分けてしまえば4つほどに小学校も分かれてしまうし、各学年に1つずつしかクラスもないし、学年ごとの人数もまちまちで30人ほどいる学年もあれば、5人ほどしかいない学年もあった。リクの通う小学校の同級生は彼を含めて13人しか居なかった。それでも彼にとってはかけがえのない友達であることに変わりはないし、ちいさなコミュニティで生活する”世界”ならではの言いようのないファミリー感がそこにはあった。
ここまでお付き合いいただいた中で感じていただけたかもしれないが、傍から見ればリクは何の不自由もなさそうな健全な子どもである。
しかし、冒頭でお伝えしたように、リクには常に不思議な感情がつきまとっていた。
もちろん目に見える代物ではないし、どんなにこの世に数えきれないほど言葉が存在している現状でも、容易く、そして明瞭に説明することなど出来ないのである。
それほどに、彼の環境は限りなく”普通”に見えて、”異質”なのである。
暦は1999年。あなたの心には1999年はどのようなイメージがあるだろうか。
2000年問題が囁かれたり、石原慎太郎が都知事に就任したり、GLAYが幕張メッセで20万人の動員数を記録したりと、華やかな出来事のそばにどうしても隠し切れない闇を抱えていた世間だったはずだ。
少年にとっての1999年は、迫り来る闇の気配に小さくもどす黒い感情を抱いていた時期であった。それはやがて恐怖としてジリジリと彼自身を覆い尽くしてしまうのだが、あなたなりの1999年をひとまず傍らに置いていただいて、リク少年の隣に自らを投影してほしい。
物語はこの離島ではじまる。
「おはようって言葉が聞こえないなーーー?」
ランドセルが後頭部に当たる鈍い音が脳内に響いた。リアクションが派手なことで同級生に面白がられていたリクは、みんなが毎日待ちわびている、期待通りのうめき声を上げて通学路に突っ伏した。
「ははは、やっぱりリクはリアクションが最高だね!」
ませた小学生ならではの、バラエティ番組を観て覚えた言葉を得意げに使って大笑いしている少女。
「やめてよー、あおいーー」
不意打ちで後頭部をド突かれていることもあって視界が少しチカチカしているリクは、やっとの思いで振り絞った声をもって毎朝の”あいさつ”を受け止める。
家から10分程歩くと同級生のあおいの家に差し掛かるのだが、いつも家の前で待ってあげても彼女は姿を現さない。さすがに遅刻する!と思って焦ったリクは彼女の家を通り過ぎて学校へ向かうのだが、少し歩いて気を緩めた絶妙のタイミングで赤いランドセルが宙を舞い、リクの脳みそが揺れる。これがリクとあおいの”日常”である。いつからはじまったのか定かではない、それでもルーティーンなのである。そして、お互い改めて丁寧におはよう、と声を交わす。確かな淡い時間が流れて、校舎へと入っていくのだ。
全校生徒が100人もいない小学校だから、全生徒が兄弟姉妹のような、居心地の良い学び舎であった。リクは一切の疑問も持たずに離島での生活を過ごしていた。
「リクは夏休みなにするのー?」
「お盆休みにねー、ぼくの大好きないとこたちが来るんだー!」
「あー、今年も来るんだ!今年こそあおいもいっしょにあそびたーい!」
「だめっ、みんな恥ずかしがり屋さんだから、だめだよー」
「えー、1年生の時も、2年生の時もそう言ってだめだったよー?」
「ごめんねー、お盆休みが終わったらまたあそぼー!ひみつきちつくろうよ!」
「わー!ひみつきちー!」
周りも一目置くほどの2人の仲の良さからすると明らかに異質な、どこか不自然な距離感を突如生み出すリクの返しに、あおいはさすがに首を傾げ、疑問を抱くようになってきていた。
それから、蝉の鳴き声も激しくなり4月に校庭で咲き誇っていた桜も青々とした葉をつけ、すっかり夏真っ只中といった頃、リクとあおいの3回目の夏休みが始まった。
終業式が終わってから、約束していた通り、ふたりだけのひみつきちを作る計画がスタートした。リクの家で構想を練って、5つ年上のあおいのお兄さんの監修の下、ひみつきちの設計図を描き上げた。
(ふたりだけで練るとあまりにも非現実的な代物が出来上がるので無理しない程度の簡素なひみつきちに設計してくれているのだ)
それでもふたりにとっては大きな一歩だし、小学校低学年だった去年まででは到底成し得なかったであろうチャレンジへと挑めることに胸が躍らざるを得なかった。
翌日、
「リク、ちゃんと持ってきてくれたー?」
「あおいこそ、わすれものないよねー?」
ひみつきちを建てる予定地に、愛車である自転車で乗り付けた2人は、息を切らしながらお互いの用意した材料を荒れ地に広げた。
彼らにとっては大きな布きれ、懐中電灯、サンリオのキャラクターが散りばめられたビニールシート、電池で動くラジオ、リクのお父さんが貸してくれた手のひらより少し大きい持ち運べるテレビ、そしてたくさんのおやつ。
初日はこんなもんかな、と大人が見ていたら言うであろうほどの微笑ましい内容の持参物だった。そして2人は鼻息も荒くなってしまうほど自慢げにふんぞり返っていた。
「わっはっはっはー!!僕たちのひみつきちができたぞぉー!」
「あたしたち天才だね!もう無人島に行っても大丈夫だ!なんか前パパとママが夜に見てたテレビをかくれてみたとき、たくさんの女の人が無人島ですんでたのみた!なんかそれみたーい!」
「それしってる!でんぱしょーねんでしょ!」
「ねえねえ、おやつ食べながらテレビみようよー!」
「それいいね!ないすあいでぃーあ!」
…もう、家でできることなのではないか?と思うようなことしかしていないのだが、彼らにとっては家じゃないどこかで、しかも外でできたことに計り知れない喜びを感じているみたいだ。
あおいが何か思いついたように勢いよく立ち上がる。
「あっ!リク、なんかポーズしよ!かっこいいポーズしよ!ひみつきちつくった記念!」
「えっ、あおいカメラもってるのー?」
「ないよ!」
「ええ、ないのにポーズするの?」
「いいじゃん、なんか撮られてるごっこしよ!」
「うん、いいよ!」
ませた女の子であるあおいは、リクの手を取りその場で立たせると、細かく指示を出して渾身のかっこいいポーズをふたりでキメて、
「はい、カシャーッ!」
もう、よくわからないけれど、彼女たちは満足げに写真を撮られるモデルのようだった。いや、”ひみつきちマスター”と彼らなら名付けるだろう。
とにかく、道具などがなくても、理由なんてなくても、そこに大好きな友達と居られたらなんでも出来る、どこまでも行ける、と心から純粋に思っていたことの表れなんだと思う。リクとあおいは正真正銘の幼馴染みで、大親友であった。
こんな感じのひみつきち遊びはふたりとも一切飽きることなく、数日続けられた。初日とはまるで違うほどに、ひみつきちは立派に建設が進んでいた。それでいてしっかり夕方にはお互い家に帰るので、それぞれの家族も全く心配することはなかった。
そうして、あの日がやってきた。そう、お盆休みだ。
あおいは、前の日の夕方にリクから、『明日から3日間一緒に遊べない』と改めて告げられていた。あおいは心の底から寂しい気持ちに覆われて、いつもでは有り得ないほど寝起きが不機嫌で、でも気が付いたらギコギコと音を立てて自転車を漕ぎいつもの荒れ地に来ていた。たった数日でも、すっかりふたりの大切な場所になってしまった。きっとこの先の人生でも何度も思い返すことになる場所になるのだろう、と、あおいはぼーっとひみつきちを眺めながらも、無意識にそう感じていた。本当にませている。
しかし、ここ数日リクとどんなに楽しく過ごした場所だとしても、やっぱりひとりぼっちでは寂しさも募るばかりだしつまらないので、ひみつきちに散らばる葉っぱを拾い集めて、家路についた。
「お盆休み、早く終わらないかなぁ~…。」
自転車を漕ぐあおいの足取りは、どう見ても重たかった。
一方のリクは、不思議な感情に襲われていた。
毎年この日は心臓がもたない。それほどに緊張で心臓を握り潰されそうになる。しかし、リクにはこれがいったいなんなのかわからない。どんな感情が押し寄せてきているのだろう?そんな思いで、家でそわそわしていた。
やがて、車のエンジン音でリクの緊張はピークに達する。子どもながらに聞き分けられるほどの、我が家の車の音とは明らかに違う”別の乗り物”の音。ワイルドで猛々しい四駆の馬力感溢れるエンジン音。音圧に心臓が押し潰されそうになるのだ。やがてそのエンジン音がゆるやかに静まり、ドアを開けてバンと閉める音が1つ、2つ…4つ鳴る。そして家のチャイムがぴんぽーん、と鳴る。緊張しながらも悟られまい、と、タッタッタッと玄関まで駆けて豪快に転んだフリをする。9才の思いつく限りの照れ隠しと、笑ってもらおうというサービス精神からくる行動だった。彼より少しだけ年下のいとこたちが一瞬目を点にさせて、沈黙が染み渡ってからの大爆笑が起こる。これがリクといとこたちの”日常”である。
リクより1つだけ年下のいとこ。”けいと”と”さくら”は8歳の双子。年が近いこともあってか、とても仲良し。しかし、3人とも1年おきに会う度にファーストコンタクトはなぜかド緊張&ド人見知りを発揮してぎこちなくなる。しかし1時間も経てばあっという間に緊張も解ける、それがリクといとこの不思議な関係性だった。
リクから見れば、『埼玉から来た都会の子たち』。双子から見れば、『ママの生まれ育った島にいる田舎の子』。そして、リクはこの子たちが何故か誇らしかった。こんな田舎の離島に暮らしてるだけでは到底知り合えない都会の子たち。それがリクにとっての自慢であり、誰にも知られたくない存在であった。そう、独り占めしたかったのである。
大好きな親友のあおいにさえ会わせたくなかったし、自分だけがこの双子を楽しませてやりたい、と思っていた…。なかなか離島育ちの一人っ子の思考回路はわからない。
「リクお兄ちゃん!こわいのみようよー!」
これが彼らとグンと仲良くなるツールだった。レンタルビデオ店へ伯父さんに連れて行ってもらってみんなで選ぶホラーモノのレンタルビデオ。ジャパニーズホラー黎明期にレンタルするホラーVHSはさすがに怖すぎるものがある。
それでも3人は怖いもの見たさな感情の方が遥かに勝り、子どもたちだけでホラー作品を見終えてしまうのだ。
新潟県の夏だってしっかり暑い。むしろ寝苦しいほどだが、客間の照明をオレンジのか細いライトに切り替えてから横になり、うんと話してケラケラ笑って、笑い疲れたのちに眠る。リクなんて自分の部屋がちゃんとあるのに、いとこたちと伯父さん伯母さんと一緒に川の字になって寝る。それがリクの大好きな親戚との3日間限定で”家族の仲間入り”をさせてもらえるひとときなのだ。
すべて呑み込まれてしまうような気持ちになるほどに深々とした海で海水浴を楽しんだり、地元の人間はかえって行かないような観光スポットに行ったり、夕方からは庭で七輪を囲んで魚や貝を焼いてそのまま外で食べて、さらにそのまま花火をして大騒ぎして。
子どもたちは賑やかに、大人たちはしっぽり花火の火を見ながらのんびり酒と海の幸をつまみにして味わう。それぞれがマイペースに楽しむ姿が、リクにはとても心地良い居場所だった。現実からかけ離れているような感覚を覚え、ここが自分の地元だというのに、そのままスッと離れていってしまいたい…と思った。
それでも時は残酷に過ぎ去ってしまう。3日間はさすがにあっという間である。自分が普段いる家ではないのではないか、と錯覚するほど賑やかな日々。そして兄弟のいないリクの目には、彼ら親戚一家はとても魅力に溢れて映るのだった。
「去年まではバイバイって言ってたけど、なんかやだから今年からまたねって言うね、またね!」
リクの精一杯寂しさを堪えて振り絞った言葉だった。
「リクお兄ちゃん、またねっ!」
けいととさくらのふたりも、うっすら涙を目に溜めながら手を振りかえしてくれた。これがリクにとってはとてもうれしくて、さらに大きく手を振る。伯父さんの四駆が見えなくなって、あの豪快なエンジン音が耳に届かなくなった頃、自分の部屋に入ったリクはぼそっと、
「ぼくのこと、忘れないでいてくれるかな…」
と本気で心配する。その直後、胸を何かが物凄い力を放って抉ってくる。虚無感に包まれて、リクは口をぽかーんと開けてしまう。もうそうなってしまったらその日のうちはずっと寂しさで胸と頭の中がいっぱいになってしまう。大好きな唐揚げを小さな口いっぱいに頬張っても、味なんてしない。部屋で密かにシクシク泣いていたから。大好きな人とバイバイすると、こんな気持ちになるんだ、と毎年思うのがお盆休みの終わりの風物詩となった。
そして、お盆休みが明けてすぐにリクの家を訪ねるのは、やはり決まってあおいである。
「リクーー!お盆休み終わったよー!あーそーぼーっ!」
「あおいー!今行くねー!!」
リクはあおいの声を4日ぶりに聴けて心が躍った。あおいもリクが家から出てきてくれたことに心が躍った。そうして、彼らの夏が、また動き出す。
そう、子どもの心は、いつだって前を向いているものだ。
リクもあおいも、こんな調子でお互いがそれぞれ少しずつ心を成長させながらお盆休みを乗り越え、また顔を合わせ、仲良く毎日を過ごし夏休みを終える。
時間を少し早送りするが、あれから1年。彼らが4年生の夏。リクに苦しい出来事が降りかかる。
少し前から、リクの両親の様子はおかしかった。リクは物心がついたときからそんなに積極的な性格の子ではなく、はっきり言って内気な少年だった。快活で無邪気でおてんばなあおいがそばにいてくれるおかげで、いつも元気に過ごせていた。しかし、近頃あまりにも自分の親の喧嘩の頻度が多く、過激になっていた。前は別の部屋から声だけが聞こえていたくらいで、(それでも怒鳴り声にはビクッとしていたけど)ついには目の前で取っ組み合いの喧嘩にまで発展していた。
ある日の夕方、リクは母親に連れられて、母親の勤める会社についていく。そこには自分の知らない大人がたくさんいる。もう、そのあとは記憶が曖昧だけど、会社から少し離れたところで、母親は知らない大人の男と仲睦まじく会話をする。そうしてリクを家に送り、こう告げる。
「ママね、もうリクとパパと一緒に暮らせないの。」
そういってハグをする。全く力が込もっていない。子どもでも分かる。何も思っていない、と。
「パパとリク、仲良しじゃなくなったから、ママ、出て行かなくちゃいけないの。」
「よくわからないけど、仲直りしてよ」
「ううん、リクはママとパパ、どっちがすき?どっちと暮らしたい?」
「えっ?どっちも好きだよ…なに言ってるの?」
「それはだめなんだよ?どっちか選んで?」
リクは数分間、黙り込んでしまった。
「ママ、もう行かなくちゃいけないから」
そう呟いて、抱き締めてくれていた手を解き、少しだけリクを押し退けた。暗闇の車の中、リクは静かに涙を流しながら、家に戻った。母の車が走り去ってから、『一体どこに行くの?』と小さく呟いた。そして、父親にも一切バレないように、リクなりに気丈に振る舞って早々に眠りに就いた。
翌日から母は家に帰ってこなくなった。どこにいるのかはわからなかった。
母が帰ってこなくなったことと、リクの知らない大人の男が母と仲睦まじく話していた数日前の光景とが脳内で結びつくまでに、そんなに時間はかからなかった。
どうして帰ってこないの?どうしてパパとふたりぼっちなの?どうしてママはパパとぼくといっしょにいないの?
リクはひとりで考えた。
本当に心に深い傷を負った時は、ゆるやかに静けさを保ちながら闇へと堕ちていく。
リクの中で何かが深い深い水の底に沈んだ。もう、手を突っ込んでみても届かないくらい、深くまで沈んでしまったような感覚だった。母と見知らぬ男の光景は、今後リクの心を深く傷つけ続けることとなる。
それから、リクは塞ぎ込んでしまう。あおいからの誘いも断ることが多くなった。あおいは心配するも、誰も教えてくれない。リクの父親ですら。そんな時、あおいは1年ぶりにあの場所へ向かう。去年の夏休み最終日、ふたりにしか分からないサインを、あの荒れ地に施していたのを思い出して、あおいは急いで自転車を漕いだ。今までこんなに速く漕いだことはない、というくらいにスピードを出して進むあおい。田舎の狭い道、途中何度も軽トラックとぶつかりそうになりながらも、あまりにも真剣な眼差しで通り過ぎるあおいの凄みに、注意するはずの運転手も圧倒されてしまうほどだった。そして、ようやく辿り着いたふたりの大切な場所。去年の8月31日のまま残る荒れ地に根を張る1つの小さな切り株。そこの側面に、ふたりにしかわからないサインがある。ぜえぜえと息を切らしながらそこを見つめるあおい。そこにはリクが座り込んでいた。
「リク…だめだよ、そこはあたしの特等席だよ?」
「…」
その切り株のすぐ横にある、同じくらいの背丈のキャンプチェアにあおいは座る。きっとリクが持ってきたのだろう。
「…あおい、お盆休みのこと、ごめんね。」
「いいよっ、すぐ遊んでくれたもん、」
「…ひとりっこって、さみしいんだ。」
「…うん。」
「…ぼくも喧嘩とかしたいよ、おにいちゃんとかおねえちゃんがいたら。」
「…うん。」
「…でも、パパとママは毎日喧嘩しても、仲直りしないんだって。」
「あおいとお兄ちゃんとはちがうね。」
「…うん、どうしてちがうのかな?」
「…あおいにもわからないよ。」
「…ママね、いなくなっちゃった…」
そういって、リクは声を上げて泣いた。
あおいは、静かに、そしてどきどきしながら、そっとリクの指を握った。
「…ねえリク、去年ここで約束したこと、覚えてる?」
「…うん…、覚えてるよ。」
「これ、見て?」
あおいはふたりだけのサインを指差す。
「あおいはリクのことすきだから、あおいがお嫁さんね!」
「うん…」
少しだけ、きゅっと握り返してくれたリクの手は、少しだけ冷たくなっていた。
ふたりの4回目の夏は、もう終わっていた。
それから、2人で自転車に乗ってあおいの家に行くと、あおいのお母さんが料理を作って待ってくれていた。
「この子、リクくん連れてくる!って言って家を飛び出していっちゃったのよー?うふふ」
「もう!お母さんはずかしいこと言わないで!」
あおいのお母さんの手料理を食べながらリクはにこっと笑う。というより、ふたりの親子としての仲睦まじさに、軽い羨望と嫉妬が混じっていた。どうしてぼくのおうちはこうじゃないの?と心の中で密かに考え始めると、自然と涙が瞳に溜まってしまった。
あおいがトイレのために席を外すと、そっとあおいのお母さんが声を掛ける。
「リクくん、いつもあおいと遊んでくれてありがとうね。あの子、最近リクくんのこと守る、って言い出すようになったの。」
それを聞いて思わずハッとするリク。
「だめよ、今、心配させてごめん、って思ったでしょ?」
そういってリクを優しくハグする。その瞬間リクは我慢の限界を迎えて大きく泣いてしまう。
「おばさんとあおいがお話たくさん聞いてあげるから、ね?」
こくり、と弱々しく頷くリクを見て、唇を噛み締めながら服の裾をぎゅっと強く掴むあおい。しばらくリクをそのままにさせてあげよう、とリクに見えない場所でリクが泣き止むのをあおいは静かに待っていた。この日が、リクにとっての”日常が生まれ変わった日”となった。
-第1話(終)-
-第1話 あとがき-
正直言って、2000年前後の世の中に於いて、離婚だったり片親、というのはまったく珍しいことではなかった。しかし、それぞれの家庭でそれぞれのストーリーがあって、それぞれ異なる形の傷を負っているはずなので、いっしょくたにカテゴライズする、なんてことはできないし、絶対にしてはいけないことなのだと思っている。もちろん、リクのケースを特別視してほしいわけでもない。かわいそうだねー、とか、不憫だねー、とか、そういうお涙頂戴なストーリーなのねー、って感じの感想で終わってほしくないのである。
何不自由ないと思っていた日常が、子どもにとっては絶対的に安定し続けている存在であるはずの”家庭”が崩壊してしまった時、日常はとんでもなく異常なものに変わり果ててしまう。そこで周りに助けを求められる子どもも居れば、リクのように塞ぎ込んでしまって殻に閉じこもる子もいるだろう。そんな時、そっと傍に寄り添ってくれる友達がいてくれたらどんなに心が救われるだろうか。他力本願じゃねーか、みたいなことを思われる方もいるかもしれませんが、たとえばボクシングでダウンを取られた時、独りで立ち上がれない人もいる。きっと立ち上がるまでの間に、心の中で自分に自分が語りかけてきたりして、そちらでもめちゃくちゃ格闘してるのではないか、と思います。つまり、強い孤独感を感じる、ということです。孤独を感じて震え上がっている人が世の中にいる、ということと、そういう人は言葉に出せずとも助けを求めてることもあるんだ、ということが伝わればいいな、と思います。
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