雨と泥と汗と血と 2
欠点なんて何一つない。強いていえば、
知念は自虐的に思った。
これまで、自分はすべてが完成された世界に住んでいた。小津安二郎の映画みたいに、何もかも計算づくな理想の空間。
自分が雛と出会えたのは、彼女の働く製薬会社のそばにあるパン屋でアルバイトを始めたから。ある時昼にサンドイッチを買いに来た彼女の手と自分の手が、たまたま触れ合ったから。
そして、二人ともレズビアンだった。
なんという偶然の積み重ねか。雛が主演で自分は助演。この物語のシナリオを書いた脚本家は正直、才能ないと思う。あまりにも上手く行きすぎて、みんな白けちゃうだろう。雛と出会ってから、若干不安になるくらい幸せだった。
自分はあらゆる人々が葛藤する恋愛のプロセスを全部飛ばして、いきなりありったけの愛を手に入れてしまったのだ。舌を絡めあって。肌と肌を密着させて。それに関しては案外積極的だった雛は、なにも知らない自分をエスコートしてくれた。真っ白だった心を、雛の色に染め上げてくれた。どんな金持ちよりも、スターよりも、幸せだったに違いない。
しかし、ここでどんでん返しがあるとは思わなかった。いままでの過剰すぎるほどの幸福演出は、後編の悲劇を引き立てるための布石だった。
誰にも分け隔てなく、平等に献身する彼女は、あるとき考えうる限り最大限の侮辱をその身に受けた。
どういうやり取りがあったのか、知念には想像することしかできない。
雛は上司の男にレイプされたのだ。彼女は抵抗できなかった。その男はそれを知っていた。獣は自分より弱い相手だけを狩りの対象にする。
身も心もめちゃくちゃに破壊された彼女は、自分では何もできなくなった。仕事も家事も、家から出ることすら。
唯一、知念だけを心の拠り所として。
雛を侮辱した男は、彼女がそれを告発しないことなど百も承知だった。それをいいことに、今も悠々と寝て、起きて、飯を食って、電車に乗って、働いて、談笑して、風呂に入って、酒を飲んで、本を読んで、寝て、起きて、飯を食って……
善と悪の対立。そもそも正義とは何か。
優秀なフィクションはそういうことを問うていかなくてはならない。勧善懲悪のドラマは流行らない。そんなもの、文化の栄えた現代には誰も見向きもしない。
この、中舘雛と知念夢雨を主人公にしたシナリオの結末。見るものすべてを唸らせるような衝撃のエンディング。それが悲劇によるものなのだろうか。
幸せだった恋人が一瞬にして絶望の淵に立たされるのを垣間見て、観客たちはどう思うのだろう。この一遍の悲劇から、どんな作り手の意思を、メタファーを、作品に込められたメッセージを感じ取るのだろう。
そして。
腰をかがめて空になった出前の丼を玄関の前に置きつつ、知念は思う。
第一幕は幸福なラブストーリー。
第二幕は目を背けたくなるような悲劇。
つくづくトリッキーな脚本だと思う。
この物語は、三幕構成だったのだ。
最後の章は、復讐ものであり、SFだ。知念は足元にある石を拾って、強く握りしめる。指と指の隙間から、灰色の液体がこぼれ落ちていく。手の中の石はなくなった。
そして、ついさっき気づいたことがある。
知念は軽く、パンと手を叩いた。すると、一瞬のうちに、液体化した石が形を取り戻し、はじめからそこにあったかのように地面に鎮座する。
触れたものを液体化する。
そして、それを元に戻すこともできる。
この『手品』は、そういう力だった。
なぜ突然、自分にこのような荒唐無稽な、超現実的な能力が身についたのか。これまでのシナリオのどこに伏線があったのか、まるでわからない。
それでも脚本家の意図はわかる。この力を使って、雛を侮辱した男に逆襲する。
そのためのもの。
二回目のどんでん返し、復讐劇が生むカタルシス。頭のいい雛はきっと、あざとい構成だと顔をしかめるだろう。それでも自分は、それを実行しなければならない。
完全なる正義はフィクションの中にしか存在しない。しかし完全なる悪は明確に、この世の至る所に実在する。
やむを得ない盗みや殺人はわかる。そういう事情は現実にも存在する。しかし、やむを得ないレイプなんてものはない。
「ねぇ、雛」
家の中に戻り、電気の消えた部屋に入る。すでに床に入ってしまった彼女に声をかける。切実な口調だった。
「なに?」
雛の声は欠伸混じりだった。彼女は、午後八時には布団をかぶって眠ってしまう。そして、朝は六時には目覚める。早寝早起きだ。
「あの、一つだけ聞きたいんだけど……」
絶対にしてはいけない質問であることは分かっている。たったそれだけの言葉が、いかに彼女の首を絞めるか。わかっている。
それでも。それがハッピーエンドへ進むための条件なのだ。陰鬱な展開を打ち壊すために、一線を超えたアクションを起こす。
「雛を酷い目に合わせた奴の名前、教えてほしい」
電気がついていないのがせめてもの救いだった。雛の表情を見ずに済むから。
「……そんなこと、聞いてどうするの」
「明日、そいつを殺しに行く」
三十秒ほどの無言。音も光もなくなった。
「ふざけてるの」
「ふざけてない」
「突然なんなの、気味悪い」
布が擦れる音がした。雛が寝返りを打つように身体を反転させ、知念に顔を背けたのだとわかる。
知念の身体は震えていた。地雷を踏んでしまって、その場から身動き一歩取れない兵士のように。
それでも。
「見てて、雛」
紐を引っ張って電気を付けた。突然明るくなった部屋に一瞬顔をしかめつつ、声を上げる。
「こっちを見て、雛!」
彼女は振り向かない。じっと黙ったまま、反対側の壁だけを見ている。
「……」
知念はベッドの上の布団を強く、平手で叩いた。軽い音がしたあと、布団は氷が溶けるように、実体を失っていく。雛はびくっと肩を震わせて、弾かれたように起き上がった。全身がベージュ色の液体でびしょ濡れになった。
「何、何、何、何が起こってるの」
知念は雛の胸に飛び込んだ。木製のベッドもしだいに液体と化していき、部屋を水びたしにする。
「飲んじゃ駄目だよ。絶対に」
ぎゅっと雛の身体を抱きしめる。足がテーブルに当たった。テーブルも、その上にあった果物やカゴも、みるみるうちに形を失っていく。すべてが液体と化していく。
タンスも、台所も、冷蔵庫も……部屋の中にあるものをすべて、彼女は水に変えた。様々な色が混ざりあった濁流のような水が、部屋を侵食する。
知念は雛と一緒に立ち上がった。部屋に溜まった水は、足首までを水面に沈めている。
「今日、手品を見せたでしょ」
「うん。林檎をジュースに……」
「本当は手品なんかじゃない。これは……」
「魔法?」
雛は水びたしになった部屋を、瞳孔を見開いて眺めまわす。目の前で起こっている事実を、現実と認めるのに時間を要している。
「魔法! そう、魔法!」
知念は手を叩く。一瞬、雷雨のような轟音を聞いた。
液体化したものがそれぞれ元の形に戻っていく。圧倒的な非リアルの光景に、雛はめまいを生じた。後ろに倒れそうになるのを、知念は背中を押さえてカバーする。
びしょびしょになっていたはずの服も、髪も、はじめからそんなことなかったかのように乾いている。ぽかんと口を開けて、呆然とすることしかできない。
「……頭おかしくなっちゃう」
なぜか雛の目尻に、涙が浮かんでいた。
知念はそっと、雛の背中に腕を回す。雛は彼女の胸元に顔をうずめ、子どものように嗚咽した。
「ごめん。黙ってて……」
腕に力を込める。
「……あのね、夢雨」
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