1966年 6月20日
雨と泥と汗と血と 3
三百三だ、と
この数字が何を意味するかわかるか?
「ホテルやデパートも含めた高層ビルで十六人。地下鉄で十六人。高速道路で五十五人。モノレールで五人。新幹線で二百十一人。ぜんぶ合わせて、三百三人」
「はい?」
「死人の数だ。これだけの労働者が、工事の事故で死んだ」
「ふーん。そんなに……」
「すべて二年前の東京オリンピックのための都市開発によるものだ。その三百三人は、国の発展のために死んだ犠牲者なんだよ」
「うん」
「栄光の裏で、多くの命が失われている。そして、誰もそれを気にも留めない」
「まぁ、だろうね……」
「彼らはかつての特攻隊員たちと同じだ。国家の発展として利用されたんだよ。道具として、兵器として」
知念はグラスに口をつける。
「我々はそのような、名もなき者たちを救済せねばならない」
後藤はすべてを語りきった、と言わんばかりに深く息を吐き、タバコに火をつけた。
「で」
欠伸を噛み殺しつつ、知念は言葉を発した。
「それがビートルズを殺すことと、なんの関係があるの」
「本来口外は認められていないのだが、例外的に君には話そう」
「別にいいよ。興味ねー」
「君たちの持つ超能力。それを世間に……もとい世界に認知させるのが我々の目的だ」
「それだったら、テレビなりラジオで話せば。なんなら出てやってもいいけど」
「それじゃ駄目だ。誰も信じない。真実はある種の悲劇性……事件を伴っていなければならない」
「本末転倒じゃないの? 誰にもバレずに、確実に暗殺するために超能力者を使うんだろ、それならなにも暗殺じゃなくたっていいじゃん。目的がそれだったら、超能力でさ、武道館ごと爆破すりゃいいよ」
知念は無意識のうちに饒舌になっていると自覚した。せっかく来日したビートルズを殺して、なんのいい事があるのだと言うのか。
「俺には未来が見えるよ。どの道ジョン・レノンは、近いうちに殺される」
「誰に?」
「ジョン・レノンは君たちと同じだ」
「超能力者なの?」
「とも言える。奴には、世界を変える力がある」
「はは。ポエミーかよ。つーか、答えになってないから」
「連中より先に、我々が世界を変える」
「一人で喋んなよ……世界を? 戦争でも起こしたいの」
憲兵が国家反逆罪で民間人をしばき倒し、共産主義思想の本を燃やして暖を取るような世界に。
「逆だ逆だ逆だ。あらゆる加虐や搾取を滅ぼす。そのためにこの計画が必要なんだ」
「ふーん。意味わかんないけど、竹槍野郎のわりに左翼的な思考だよね。なんで右翼やってんの」
「右だ左だとやかましい。そんなものに意味などない。我々はスーパー右翼だ。超現実主義がリアリズムとは対極にあるように、
「はは……面白」
知念には、この男がどのくらい真剣なのかがわからなかった。本当に右翼なの? 格好だけじゃねぇか。
「天皇なんていらねぇ」
ジャブを放つつもりで、半笑いで彼女は呟いた。
「うん。天皇制の是非は今後も積極的に問うていくべきだ」
「君が代はダサい」
「それは感性の問題にすぎない。そもそも歌唱というのは強制的にさせるものではないという意見は理解できる」
「靖国はクソだ」
「ああ。特攻隊員を殺したのは米軍ではなく、国だ。残された我々が英霊などといって美化するのはちゃんちゃらおかしい」
「うーんと……」
さらに言葉を探そうとする知念を、後藤は溜息を吐きながら制する。
「あのな、お前は俺を怒らせたいのか? だったらやめておけよ、そういう類型的なのは……他の右翼はどうだか知らないけど、我々が愛しているのは大日本帝国でなく今の日本国なんだよ」
「ふーん。政治狂いの言ってることってよくわかんねぇや。まぁ百五十万だっけ。金さえもらえりゃ、それでいいよ」
その日はそれで終わった。後藤という男は、なぜか自分が超能力者であること──『触れたものを液体化する』能力を有していることをなぜか知っていた。そして、ビートルズの暗殺という……馬鹿みたいな突飛な計画に加担することを提示してきた。
完結したと思っていた物語には、まだ続きがあった。こんなことをして何になるんだろうと思った。後藤という右翼の男もまったく信用できない。それでも、百五十万円の報酬には臆面もなく魅力を感じた。
その金で、こんな街からは出ていこう。
雛と一緒に。どこかのどかな田舎町で暮らしたい。彼女がかつて、東京は疲れた、みたいなことを言っていたことを思い出す。
それはさておき。
どこから住所を割り出したのか、今日、後藤が家に尋ねてきた。今日雛は外出していて夜まで帰ってこないから良かったものの、そうでなかったら相当厄介な思いをしていたと思う。さすがにこの計画のことは雛には話せない。
「何なんだよ。何の用だよ、なんでこの家知ってんだよ……」
扉を半分だけ開けて、玄関に立つ後藤を睨む。
すっかり青ざめている。後藤は苦笑した。
「我々の手にかかれば、家を割り出すくらい容易いのだ」
「そういう問題じゃねぇよ、バーカ!」
このまま扉を閉めて追い返してやりたかったが、この男をここに放置しておくのも危険に思えた。もし今、雛が帰ってきたらとんでもない。
「中に入ってもいいか」
絶対に嫌だ。しかし……
「大丈夫だ。要件だけ伝えて、手短に済ます」
知念は舌打ち混じりに、扉を蹴り開ける。後藤はにやつきながら靴を脱ぎ、部屋に入った。
いざというときには、こんなただの男など……能力を使って、一撃で殺すことだってできる。
そして、さも当然のように椅子に腰掛けるのが腹立たしい。手に持っていた鞄から、資料のようなものをバラバラと取り出す。
「急で申し訳ないが……本来の計画の前に、一つだけ仕事を頼まれてもらいたい。まぁ、本番前の予行練習のようなものだと思ってもらって」
「はぁ?」
後藤はテーブルをトントンと叩いた。指の先に、二枚の写真が置かれているのが見える。
「
「命を?」
「そう。この暗殺計画に加担した超能力者たちを、一人ずつ襲っているんだ。すでに一人、こいつらに殺された」
「え?」
「
後藤は生田目の写真も取り出した。頬の大きな、気弱そうな青年が写っている。
「彼女たちは一体?」
どこまで後藤の話を信じていいのか、いまだ不明瞭だ。
「我々と対立している宗教団体の信者だ。超能力者を一人残らず殲滅するために活動している」
「でも、この人たちも超能力者なんじゃねぇの」
ところで、この力のことを超能力と呼称することに、知念はまだ慣れていない。彼女と雛は、この力のことを『魔法』と呼んでいたのだ。
「だからこそだ。自分たちだけが超能力者として秘密裏にのさばることを目論んでいる」
「ふーん。まぁその気持ちもわからんでもないけどね」
「つまりだよ。俺の言いたいことはもうわかるよな」
後藤は向き直り、知念の目をじっと見つめた。
「知らねぇよ」
だいたいわかる。嫌な予感がした。
「お前には、この二人の暗殺に向かってもらいたい」
「……やだよ」
「報酬はもちろん出る。百五十万に加えて、もう倍渡そう」
「そういう問題じゃないんだよ」
露骨に拒絶してみても、後藤の表情は依然として余裕を見せていた。悪寒を感じる。
「なぁ、知念」
とっさに構えた。
ただ、手で触れさえすればいい。そっと自分に言い聞かせる。
「お前は一年前、人を一人殺してるだろ」
彼女は舌打ちした。パチンと王手の駒を指してみせたかのような目付きの後藤が憎らしかった。
「ふざけんな」
「我々の情報収集力は凄いよ。お前のことは何だって知ってる。お前の恋人のこともな」
知念は目の色を変えた。
「やめろ! 雛に……」
「落ち着けよ。何もしないよ」
後藤は歯を見せて笑う。
「超能力を使った殺人を罪に問うことなど、不可能だって思うか?」
「……」
「確かに、今は行方不明ってことになっているのは知っている。なんせ、液体状態になって排水溝の中だもんな、
ハッタリではなかった。やはり、後藤はこのことを知っている。
「恋人を悲しませたくないんだったら……我々に協力すべきだろうな。まぁ、最終的な選択はお前に任せるがな」
そうか。これが、この男の本性だったんだ。都市の発展のために犠牲になった三百三人の労働者のことなど、こいつはまったく気にも停めない。自分はこの男の仕立てるゲームのコマでしかなかったのだ。
今、この男を殺せば。液体化の能力で消滅させれば。全部なかったことにできるか……?
「一応言っておくが、ここで俺を殺したとしても、事態は一つも良くならないぞ。お前の情報はすでに組織内で共有されているからな」
息が詰まる。
「……ああ、わかった。やるよ」
すべては雛のため。
「さすがだ! 心から感謝するよ!」
後藤は握手を求めてきた。最大限の力で、知念はそれを振り払う。
三度目のどんでん返しだ、と思う。
「安心しろな。組織全体で、できる限りのサポートをしてやるから」
ハッピーエンドを掴み取るのは、一体いつになるのだろう。もっとも、雛の受けた不幸に比べれば、こんなもの……
「明日正午に、あのレストランに来い。じゃなな」
後藤はさっさと出ていってしまった。知念は爪を噛み、深く息を吐く。
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