1965年 6月2日

雨と泥と汗と血と 1

 知念ちねん夢雨むうは、テーブルの上のバケットに詰め込まれていた果物のうち、一つの林檎を手に取った。

「見てて」

 ベッドに寝ている中舘なかだてひなは、枕に頭を乗せたまま、そっと首の向きを変える。

 知念はガラスのコップを左手に、林檎を右手に握っている。

「一瞬、目つぶって」

 雛は半笑いを浮かべつつ、言う通りにした。見てって言ったのに。どっちなの?


「まだだよ、まだ」

しばらくして、スリッパを履いた足音が聞こえてきた。こっちに歩み寄ってくるのがわかる。

 

 頬になにかが当たった。冷たい。コップだ。

「いいよ。開けて」

目の前に、知念の顔があった。幼さの残るいたいけな、猫のような目で、こっちをじっと見つめている。その手には、液体の入ったコップが握られていた。


 知念はそれを雛に差し出す。彼女はベッドから腰を上げて、それを受け取った。空だったはずのコップには、並々と淡い色合いの液体が注がれていた。

 知念は、飲んでみて、と自分の手首をくいくいと上下させる。怪訝に思いつつ、雛はコップに口をつけた。甘味と渋味の共存した、林檎の味がする。

「林檎ジュース……だね」

「凄ぇっしょ」

彼女は林檎を手に持っていた。そして今、一瞬のうちにそれがジュースに変わっている。

「手品?」

「そう」

雛は知念が『手品』で取り出したジュースを飲み干した。

「凄いよ、魔法みたい。なにか他には?」

「んー……思いついたらやるよ」

知念は空になったコップを雛から受け取り、流し台に置いた。トイレ行ってくるね、と呟き、廊下に消える。


 知念は扉を閉め、そのまま扉の内側にもたれかかった。手のひらを広げ、じっと見つめる。拳を握ったり開いたり、手相を睨んだり。

 さっきやった『手品』。トリックなんてなかった。ひとつの林檎を一瞬で、ジュースに──液体に変える。知念はただだけだった。

 雛の家のトイレには小窓があって、それの淵の部分に花瓶が置かれている。今はそこに花は刺さっていない。小さな青い花瓶だけがある。

 知念はそれを手に取った。

 花瓶は、音も立てず、みるみるうちに形が崩れていく。。ぽたぽたと垂れる青い液体が床に落ちて、水たまりを作った。

 呼吸が荒くなる。いつからだろう。気がついたら、こんなことができるようになっていた。

 非現実的な異常事態が、自分の身体に起こっているのだ。

 直前まで花瓶だったその青い液体を、トイレットペーパーで拭き取る。陶器性のそれは、まったく水と同じになっていた。ペーパーは水を吸い取って、青く、重くなっていく。

 知念は液体になった花瓶を拭き取ったそれを便器に捨てたあと、扉を開け、雛の元へと戻って行った。

 雛は知念の恋人だった。

 今は彼女は部屋から出られなくなってしまった。たった一人の男のために。

 だから知念は、彼女のためなら何だってする。料理も、掃除も、買い物も。


「おまたせ」

知念は雛の待つ居間へと戻った。そういえば、あの花瓶は彼女にとってどれくらい思い入れのあるものなのだろう。無断で壊してしまったのと同じで、正直にそれを告白しようか迷う。少し気まずい。

「お腹痛いの?」

「いや全然」

黙っていることにした。あとで問われたら、不注意で割ってしまったと謝ろう。この奇妙な──『手品』の実態について知られて、彼女に不気味がられたりしたら……知念は自身の弱さに嫌気が差す。

「腹減らない?」

知念は壁に掛けられている時計を一瞥した。時刻は午後一時過ぎ。昼食はまだだ。

「うん。減った」

子どものように雛は頷き、起き上がった。そのままベッドに腰かける。

「なんか食うか!」

知念はテーブルに置かれた紙袋の中を覗き込んだ。ニンジンと玉ねぎ、ピーマンと卵四つ。しばらく迷ってから、彼女は野菜を全部適当に刻んで、卵を溶いて、戸棚にあった麺つゆを入れて、古いフライパンで焼いた。

 雑な形の卵焼きを二つ作り、皿に盛る。バケットの中にあったグレープフルーツを包丁で二つに分ける。


 雛はゆっくりとした足取りでベッドから離れ、テーブルの隣の木製の椅子に座った。彼女の目の前に、卵焼きとグレープフルーツを置いてから、知念は反対側に座る。

 知念がまともに料理をするようになったのは先月からだった。ろくなものは作れない。今まで米だけ炊いて調味料をかけて食べるような生活を続けてきた彼女にとって、それは困難を極めるものだった。

 雛は米が嫌いで一切口にしないから、今までのような生活は続けられない。それは分かっているのだが、適当に油で炒めたり焼いたりすることしかできなかった。根本的に不器用なのだ。誰かの妻とか母親になるつもりなんて金輪際なかったから、それでいいと思っていた。

「うん。おいしいよ」

雛は知念の作った野菜入りの卵焼きをフォークで突き刺し、口に運ぶ。咀嚼しながら軽く微笑む。

「なら良かった。料理練習しなきゃなぁ……あとで夕飯買ってくる。何がいい?」

「なんでもいいよ」

「出た。そういうのって困るわー。具体的になんかねぇの、何系とかさぁ」

「じゃあ……麺かなぁ」

雛はグレープフルーツに視線を下ろしたまま答える。

「ラーメンとか?」

「ラーメンいいね。……出前取ろうよ」

「出前」

雛は子どもみたいに目を輝かせたあと、大人としての思考を働かせる。

「あ、お金大丈夫?」

「明後日給料出るから」

 正直、厳しかった。それでも雛の食べたいもののためには妥協できない。自分に出来るのはそのくらいだと、彼女は思う。

 雛はたかが一回の食事くらいで機嫌を損ねるほど気難しい人間では決してない。むしろ、どんなことも笑って受け入れてしまうような……暴力的なほどの優しさを、その小さな身体に有していた。

 だからこそ雛は、この世で一番の悪意に晒され、ズタズタにされてしまった。

 彼女には、ほんの一片の不幸さえ与えたくない。たとえどんな手を使ってでも。そのために知念は自分の人生をすべて捧げようと決めた。


 知念は自分の分の卵焼きを咀嚼した。かさを増すための野菜がアクセントになって、なかなか悪くない。適当に作った割には結構いい線言ってるじゃないか。

「あ、うめーじゃん、これ。結構才能あるかも」

「でしょ?」

「麺つゆ使っとけば、とりあえずなんとかなるもんだよなぁ」

「万能調味料だよね」

「この前スパゲティ作ろうと思ってパスタ茹でたんだけどさぁ、トマトソースあると思ったらなくて。しょーがねぇから麺つゆで食ったんだよね。わりとなんとかなったよ」

「へー。こんど作ってよ」

「あー、わざわざやるほどのうまさではない」

 他愛もない雑談が続く。

 知念はこの時間のために生きているのだ。肉体的な接触を超越するような温もりが、そこにある。とりとめのない、自分の人生が物語だとして、ストーリーの進行とは直接関係のないこういう部分にこそ、真髄がある。知念は思った。

「最近なんかあった?」

家の中でだけ生きる雛にとっては、外のことは知念の言葉を通じてしか知らない。

 彼女は想像力豊かだから、それで充分だと知念は思う。どうせ外は、この街は、わざわざ自分の目で見なければならないほど価値のあるものではない。

「昨日神保町で映画見たよ。七人の侍」

雛に頼まれて古本を買いに行ったついでに、時間つぶしのために名画座に入ったのだった。

「へー。私も昔見に行ったなぁ」

「はじめて見たけどやっぱすげーよ。興奮しちゃったね。長かったけど。やっぱ黒澤、半端ねぇわ」

「いいなぁ。私も久々に見たくなってきた」

もう雛は映画館にも行けない。玄関のドアを押し開けることを、身体が拒絶する。

 それを自覚した上で、彼女はそう言った。

「そういえばさぁ」

矢継ぎ早に言葉を続けたのは、知念に気を使わせないためだ。

「あれに出てくる雨、自然のじゃなくて人工的に降らせてるんだけど、その水には墨が混ぜてあるんだよ」

どこか誇らしげに、雛は語る。

「ほぉー。そう、土砂降りに打たれながら戦うのがグッと来るんだよなぁ。……やっぱり、どうりでクッキリとした黒がね……白黒映画ならではって感じだ」

 雛はなんでも知ってる。外にいる連中なんかより、ずっと世界を知っている。

 

 黒澤明は人工的に雨を降らせた。

 色のついた水を、『創った』……


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