1966年 6月20日
きみもヤクザになれる 2
彼女は
今は彼女は、三つ目の名前だった。
「お疲れさま」
「ありがと」
「ドクターって、指長いよね」
山県は五本の指をすべて使ってカップとタバコを持つ彼女を手を眺める。
「あ、そう?」
「小さい頃、ピアノやってた?」
「んーん」
ピアノやると指伸びるの?
コーヒーを啜る。ビルの地下にある喫茶店に、ジャズが響き渡る。
「ドクターってさ」
「うん」
「あたしの未来って、どのくらいわかる?」
山県は腰を若干浮かせて、椅子に座り直す。
「私にできるのは、記憶を見たり書き換えたりすることだけ」
「でも、頭の中を覗けるんでしょ」
ドクターには、これから山県が発しようとする言葉のすべてを事前に知ることができる。しかし、彼女はそれをしない。組織の
「占い師じゃないんだから」
小さく笑い、半分になったコーヒーに角砂糖を入れ、スプーンで混ぜる。
「いや、なんか、さ。このままでいいのかなって。最近思うんだ」
「つまり?」
山県は歯切れ悪く笑う。
「言われるがまま父さんに従ってさ。いくら正しいことのためとはいえ……人を傷つけたり」
「らしくないね」
彼女は積極的に直接【鉄風】の内部に入り込む、いわゆる戦闘役を買って出たし、むしろ今までその超能力を思う存分解き放つ機会を求めてうずうずしているきらいがあった。
「正直、映画みたいで舞い上がってたんだ。……でもさ結局、暴力なんだよね。こういうの」
山県は自嘲気味に微笑み、テーブルの上にあった砂糖の入ったビンを軽く手で弄ぶ。
「【鉄風】の刺客を一人倒したんでしょ。
金城和という女。たまたまドクターたちが最初のターゲットとした超能力者だが、たまたま彼女は私たちと目的を同じくしていた。そうして、山県と金城は手を組むことになったのだ。
二回の『たまたま』。
人生とは偶然の連続だ。それはわかっているのだけれど、いくらなんでもあまりに出来すぎてはいないか。ドクターは怪訝に思ったが、どうやら山県は金城と共闘関係を結んだというよりも、純粋に友達として仲良くなってしまったようだった。
それならしょうがないよね、という心持ちだった。ドクターは、組織よりも彼女の心境を優先する。だから、この件は二人だけの機密情報だ。『秘密』を共有することにおいて、彼女の能力はうってつけだ。
「ドクター」
「ん?」
「なんか、このままこの戦い……? を続けてたら自分が兵隊みたいになっちゃって……しまいには、人を殺しちゃいそうで、それをなんの気にも止めないようになっちゃいそうで……」
「怖い?」
山県は小さく頷いた。
「そしたら、私が記憶を消してあげるよ」
言葉を聞き、数回瞬きをした彼女を一瞥しつつ、ドクターは続ける。
「もし何かの間違いで理真さんが人を殺しちゃったら、それに関する記憶をなかったことにしてあげる」
「それは……」
それは駄目だ。山県は頑なな意志を表情に出す。
「どんなトラウマも思い出も消しちゃえるからね。初めから存在しなかった! そう割り切るのが一番楽っしょ」
ドクターはあえて露悪的に歯を見せて笑い、山県の顔をのぞき込む。かつて弟だったジュングンのことを思い出す。
あれから、父親はジュングンのことをきれいさっぱり忘れた。イム・テヒにはきょうだいはいないことになった。猿田鳥枝、ないしドクターとしての彼女だけが彼のことを覚えている。
ジュングンはヤクザになれるのだろうか。正直、彼は暴力団員には向いていないと彼女は思う。不良ぶっているわりに、優等生的な性質を捨てきれない。反逆よりもむしろ、服従に喜びを見出すようなところが見え隠れする。
ヤクザはただケンカして相手を倒せばいいものではない。善良で無害な人々に笑顔で近づいて、一切の躊躇なく幸せを根こそぎ奪う。そういうことをしなくてはならない。
サディストというよりはマゾヒストな彼に耐えられるだろうか。たぶん、無理だと思う。
ジュングンは組に入り、理想と現実のギャップに辟易とするだろう。
暴力と搾取で成り立つシステムの虚無性にあるとき感づき、サルトルの小説の主人公みたいに嘔吐するだろう。
超能力者であろうと、人間は人間だ。
とくにジュングンは。
ふとドクターは、無意識のうちしばらくの間一人で物思いに耽っていたことに気づく。山県の存在を一瞬忘却していた。彼女は無言だった。
「……もしかして」
部屋の鍵を落としたことを知ったときのように、山県は急に顔を青ざめさせた。
「これまでも、こういうことって、あった?」
「こういうことって?」
山県は軽く咳払いをする。唇が小さく震えているのが見えた。
「あたしがなにか、取り返しのつかない失敗とかをして……ドクターにそれの記憶を消してもらったこと。もしかして、前にもあったり……」
明らかに恐怖の感情を孕んだ声だった。山県を慰めるように、ゆっくりと、確固たる意志を含み、ドクターはかぶりを振る。
「ない。ないよ。断言する」
「……本当?」
そしてもう一つは、この能力の性質それ自体が、疑心暗鬼を生んでしまうものであるということ。こういうふうに。
「うん」
ドクターは、テーブルの上にそっと礼儀よく置かれた山県の手にそっと指を這わせる。かすかに残った産毛を撫でるようになぞったあと、体温を共有するかのように、手の甲と平を密着させた。
「だよね。……ごめん」
山県はすっと手を引き、落ち着いた微笑みを見せた。
「能力が能力だからさ。便利だけど、使い方が難しいんだよね。……その点彼には感謝してるよ。私を重要なポストで雇ってくれてさ」
ドクターは形容に迷った。彼というのは山県の父親のことで、この組織のトップのことだ。言いようによっては、教祖ともいう。
「すごい能力だよね……」
「なんでよりにもよって、こんなのが私に身についたのか……ほんとにわかんない。時々怖くなるんだ」
やろうと思えば、どんなことだってできる。例えばこれと同じ能力を、一つの国を動かす権限を持つ者が有していたとしたら。
記憶の改変ひとつで、戦争をはじめることも、虐殺を起こすこともできるかもしれない。それはあまりに恐ろしい。
だから彼女はこの組織に協力することにした。超能力者の殲滅を掲げるこの組織に。もっとも、この組織が宗教団体の皮を被って秘密裏に活動しているのは、あくまで利己的な理由によるものなのだ。超能力者の殲滅、という目標の頭には、「自分たち以外の」というエクスキューズがつく。早い話が優生思想だ。いち早く超能力の存在を知った自分たちだけがいい思いをするために、他の超能力者を潰していき、この組織だけを残す。超能力の存在を公にすることを避け、唯一それを知っている自分たちだけがずっと甘い汁を吸い続ける。
自分の出自から考えても、非常に胸糞の悪くなる連中だ。それでもドクターは、この組織に属し続ける必要があった。
一つはイム・テヒのため。
二つは猿田鳥枝のため。
そして、ジュングンと母のため。
「あたしなんて、物を引き寄せるだけだし。せっかく超能力者なんていうのに、笑っちゃうよね」
「そういうのが一番いいんだよ」
火を操ったりとかさぁ。テレポートとかさぁ。SFに出てくるようなそういうのがいいんだよ。
「そうかなぁ」
ジュングンはこれから、どんな能力に目覚めるのだろう。できるだけシンプルで、殺傷能力に長けてなくて、弱点が明確なものがいい。
日常生活が普通よりちょっとだけ便利になるような、そういうのがいいんだ。
今日はなんだか、黙っていると次から次へと頭の中に言葉が浮かぶ。無駄に思考が溢れている感覚だ。きっと今日は、調子がよくない。
コーヒーも空になった。
「あ、そうだ」
会話が一段落ついたあとのわずかな沈黙ののち、山県が口を開く。
「ドクターさぁ、カフェ・ロワイヤルって知ってる?」
「あー、うん。知ってる」
あれでしょ、角砂糖に火をつけて……
それのイメージを思い浮かべる。脳内に氾濫するあらゆる言葉が、角砂糖のように溶けていった。
「なんで急に」
「いや、なんとなく。飲みたいな」
「ここにはないと思うよ……」
「じゃあさ、ちょっと店移らない? いいところ知ってるんだ」
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