1966年 7月3日
きみもヤクザになれる 1
運が回ってきたと、
この
まるで怪物でも、狂犬病に罹った犬でも前にしたかのような目で、開はジュングンを見る。
「……僕を、その三本松会に入れてください」
ジュングンはその目を見つめ返す。息切れはまだ治まっていない。途切れ途切れに言葉を吐く。
開は露骨にたじろいだ。何も言えない。
「お願いします。どうか」
「……部活じゃねぇんだよ」
開はここから逃げ出したかった。しかし、ジュングンの鋭い眼光がそれを許さない。
「僕は……並大抵の連中には負けない」
そこはかとない恐怖が開を硬直させる。この少年が、言語を介したコミュニケーションの通じる相手に思えなかった。
「僕は……」
「あ、あのな! さっきお前が半殺しにした連中は俺たちの敵とかじゃないんだよ。同じ組の奴らで、俺はただ下手をこいたから制裁を加えられてただけで……お前のせいで、俺の立場はめちゃくちゃなんだよ!」
開は吠えた。ジュングンは彼を仰ぎ見たまま、息を整える。
「どんな細工をしたか知らないけど、ガキが興味本位でヤクザの世界に首を突っ込んだらどうなるかぐらい想像したらわかるだろ」
「僕は負けません。死にません」
「何も知らないやつは、誰だってそう思ってるんだよ」
開自身がそうだった。ヤクザになれば、何も持っていない自分に居場所ができると思っていた。社会の搾取構造から外れることができると信じていた。しかしそれは幻想にすぎなかった。非合法の世界において、弱者は強者の餌でしかない。
「お前にだって家族とか、恋人とか、親友とか、いるだろ。そういう人たちだって……」
「いません」
「そもそも俺はただの下っ端なんだよ。わかるだろ?」
「連れて行ってください。あなたの事務所に」
「事務所なぁ……」
ジュングンは力づくでも開に従わせるつもりだった。
「さっきのそれ、何」
開はあたかも時間稼ぎするかのように、話題を逸らす。
ジュングンは息を止めた。
両腕が硬度を増し、夜光を反射する。前触れもなく、皮膚が鉄と化した。
「超能力です」
息を吐く。両腕が元へ戻る。
「超能力」
「姉が超能力者だったから、それが僕にも遺伝しているんです。鉄を操る能力」
「鉄を……?」
ジュングンはアスファルトの隙間から生える雑草に手を触れた。それは瞬時に鉄と化す。
「こんなふうに。触ったものを鉄に変えたり」
開は無言のまましゃがみ込み、鉄になった雑草に手を触れる。それは地面から生えたまま、鉄細工のような硬度を持っていた。
ジュングンは息を吐いた。金属となっていた雑草は元の姿を取り戻し、かすかに吹いていた風に先端をなびかせる。
「戻った」
やはり、なにかを鉄に変えている間には息ができない……能力を使うためには、呼吸を止める必要があるのだ。ジュングンは思った。これはこの能力において、明確な弱点だ。幼少期より超能力に開眼していた姉貴と比較して、目覚めたばかりの僕の能力に不足点があるのは当然のことかもしれない。
息ができない。つまり、会話ができない。
この能力を使っている間は、僕は人間性をひとつ失う。
「ほ、本物なんだな」
開は目の色を変えた。ジュングンの方を向き直り、その顔を見つめる。
ジュングンは小さく頷いた。
「な、なぁ、えーと……お前」
開はなにか言おうとして、言葉に詰まった。
「名前ですか」
「……あ、うん。そうだ、名前、なんて言うの」
「僕は、はや……」
「ん?」
「
開はジュングンの言葉を反芻するように、気まずそうにつま先をアスファルトに擦りつける。
「朝鮮人か」
「はい。
「そうか」
いちいち煮え切らない男だとジュングンは思う。軽蔑ではなく、ああそうか、こいつはこういう
「組では日本名を名乗るべきでしょうか」
「どうだろうな」
「わからないんですか」
「ああ。わからない……」
開は踵を返した。ゆっくりと、その場から立ち去ろうとする。
ジュングンはそれの後に続き、彼の横に位置だった。
しばらく横を歩いていると、沈黙に痺れを切らしたかのように、ジャケットのポケットからタバコのパッケージを取り出した。一本をくわえたあと、その箱をジュングンの元へ差し出す。
「ありがとうございます」
開の手元にピースのパッケージがあった。その中から一本を指で挟む。
「ピース吸うか」
彼はマッチの箱を投げた。ジュングンはかじかむ手でそれを掴み、中身を出して擦った。タバコに点火したあと、手首を振って火を消す。
「普段はショッポです。でもピースもいいな」
ショートホープより強い、二十一ミリグラムのタールを感じる。酷使した肺を、脳を、いたぶるような刺激と渋味。かすかな甘味。そして、全身の温度をやさしく冷やすような安らぎ。
「平和だからな。ピース」
「平和……」
「いいよなぁ、平和」
「はい。平和……」
傷だらけの男たちが横並びになって、ぶつぶつと平和、平和と連呼する。ひどく滑稽に思えて、ジュングンは失笑した。
「ヒッピーみたいだな。平和平和って」
「ヒッピー」
「……そうだよ。ヒッピーになりゃいいんだよ! 階級も身分もねぇんだから、ヤクザなんかより、ヒッピーのがよっぽどいいよ」
「たしかに」
ピースの煙を吐く。
「あーー。ヒッピーになりてぇ」
開はすでに一本を根元まで吸いきっていた。
足元に捨て、新たに箱から取り出した。ジュングンのタバコはまだ半分ほど残っている。
いままで吸ったことはなかったが、ジュングンは純粋にピースの風味を気に入った。タールはきついのに、どこか甘味を帯びているのがいい。変えようか、と思う。
僕はホープから決別し、ピースを求める。
開は足を止めた。親指をくいっと向け、静まった深夜の中、この周辺で唯一白熱灯の光を放っている屋台があった。
「おごってやるよ」
言われるがまま、ジュングンは暖簾をくぐった。開は店主となにかやりとりを交わすと、うどんの丼が二つ、即座に目の前に置かれる。
なんだ。
事務所に連れていかれるのかと思った。
椅子はない。ジュングンは立ったままうどんを啜った。自分が空腹であることを思い出した。
「お前、家は?」
「ありません」
「またそれか」
「僕にはなにもないんです」
開はやかましく音を立てて麺を啜る。ジュングンもそうした。
「
「丹内」
「俺は今、丹内さんのとこに厄介になってるんだ。明日、お前のこと、話してみるか……」
「ありがとうございます」
会話はそれきりだった。二人のヤクザが、無言でうどんを啜る音だけが響く。
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