インビジブル・ビジネス 4

 生田目なまためなごが逃げ込んだキッチン下の収納棚へゆっくりと近づいた。

 袋の鼠じゃないか。

笑いが漏れた。実際にこういう言葉を使う場面が訪れることなんてあるんだ。

 靴は履いたままだ。床に散らされた食器もかまわず踏み、棚の取っ手に手をかける。

 そこで思い直した。

 せっかくだから、ちょっと脅かしてやるか。生田目はそれの上の流し台に手を触れた。瞬時にそれはまるごと、流し台も隣のコンロもその下の収納棚もはじめからそこになかったかのごとく消え去る。棚の中でうずくまる和の姿だけが、取り残されたようにそこに見える。

 和の目が合った。もっとも、和には生田目の姿は見えないままだ。


 身を隠していた収納棚が、キッチンごと忽然と消えた。そして山県の姿も同じように。

 そして、斬撃。

 和は床にあった皿を拾いつつ立ちあがり、瞬時それを何もない目の前に振り下ろす。

 感触があった。何かを打撃する感覚が腕に伝わる。とっさに後ろに一歩下がる。かすかに風を切る音と同時に、服がなにかに引っかかった。

 どこか遠くから遠隔的に攻撃を加えられているわけではない。。ものを【透明にする】能力を以て、私を殺そうとしている。


 足音が聞こえた。和は皿を両手でつかみ、振り回した。また当たった。何もないところから、鈍い音が響く。

 生田目は頭部に感じた突発的な痛みに苛立ちつつ、牛刀を握り直す。すこし調子に乗りすぎてたみたいだ。こいつは僕の能力に勘づいてしまった。

 それでも、立場が逆転したわけではない。こちらの姿は奴には見えないし、なにより後藤から金城和の能力については教わっている。

 摩擦を操作する能力が作用する範囲は、こいつの視界内に限られる。つまり、姿の見えない僕に対しては、どうすることもできない。

 物音を立てないように、そっと彼女から離れる。和は手当り次第に皿を振り回すが、もうそれは当たらない。


 和は皿を捨てた。逃げられたか、と思う。どんなものでも透明にできる能力、それで自分の姿も不可視化して部屋に入り込んだわけだ。


 部屋を見渡す。気配だけで生田目の姿を探そうとしていると、テーブルやら、本棚やら、ありとあらゆる家具が消え去っていく。

 相手がどこにいるのか、ますます判断がつなかくなった。透明な遮蔽物に隠れた透明な相手。

 動き回ろうとしたとき、脚をなにかで強く打ってしまった。一瞬強い痛みを感じる。これは攻撃を受けたのではなくて、そこにあったはずの椅子にぶつかってしまっただけだ。

 和は手触りだけでそれをつかみ取り、攻撃に備える盾とした。透明な椅子を抱えつつ、構える。この状態ではもちろん視界をさえぎらない。

 しばらく硬直状態が続いた。いかに近づき、和に一撃を加えるか。今持っている牛刀のほかに、殺傷能力のあるものはこの部屋には見当たらなかった。能力で透明にしたものは生田目本人の目にも見えなくなる。透明になった冷蔵庫の陰に隠れて、襲撃の気を伺う。

 うかつに動けない。生田目は息をのむ。場の支配は確かにこちらが握っているが、下手な動きを見せるのはまずいだろう。やつが集中を切らした隙を狙って、牛刀の一撃を叩き込む。


 そのとき、なにかが動いた。生田目は背中になにかがぶつかる衝撃を受け、反射的に振り返った。

「和、そこだよ!」

声がした。和は即座にその場所までかけて行って、透明な椅子を振り下ろした。確かな感覚が生じる。矢継ぎ早に二発、三発、彼女は目の前を椅子で殴りつけた。

 生田目は呻きをあげた。椅子の脚で口元を殴られ、歯で唇を抉ってしまった。口内に血の味が広がる。

 とっさに彼はしゃがみ、後ずさった。それでも和は彼の目の前まで正確に移動し、再び椅子で殴る。椅子の脚に血が付着しているのが見えた。それは透明にならないらしい。

 

 枕が宙に浮いている。和にはそう見えた。その枕に向かって、和は攻撃を続ける。

「ごめん、和……今起きたよ」

 深い眠りに落ちてしまっていたようだった。山県やまがたはつい直前、和がキッチンの収納棚に逃げ込んだ時点で目を覚ましていた。みるみるうちに消えていく部屋のもの。そして、なにかの気配。

 夢を見ているのかと思ったが、違う。何よりきょっとしたのは、自分自身の身体も透明になっているということ。

 それなら、と思った。これは明らかに超能力によるものだし、その能力が仮に、ことによって作用するものだったとしたら。

 賭けにすぎなかった。とっさに山県はベッドの上にあった枕に触れた。予想が当たっていれば、自分が透明にされるとき、いるはずだった。

 目論見は正しかった。枕はひとりでに飛んでいき、なにもない空中で静止した。

 枕を、あの透明な相手に【引き合せる】ことに成功した。それで、和に居場所を知らせることができる。


 ばんっ、がんっ、とヒステリックな打撃音が響き渡る。和は椅子で生田目を殴り続けた。やがて彼は手元から牛刀を落としてしまった。もう攻撃を加える手段も、気力も残っていなかった。

 

 なんだよこれ……

突然背中に貼り付いてきたそれが枕ということはわかる。しかし、なんで今のタイミングで、そんなことが起こるのか……これも金城和の能力なのか? 違う系統の能力を二つ扱える人間なんて存在しない。つまり、もう一人のほうの……

 何もないところから、血がぽたぽたとこぼれ落ちる。逃げても逃げても、奴は攻撃をやめない。殴られ続けたせいか、視界もぼやけるし耳鳴りも酷い。

 耳まで真っ赤に染めて、頬を涙でめちゃくちゃにしながら、腕の疲れも知らずに和は椅子で殴りまくった。


 生田目は最後の力を振り絞り、目を開けた。

 彼は床を滑るように倒れ込み、和の攻撃をかわした。椅子の角がフローリングを傷つける。

 今まで生きてきた中で、最も必死に、全力で走った。玄関まで逃げて、ドアを蹴り開ける。外へ飛び出す。その間、背中に手を伸ばして張り付いた枕に触り、透明化する。

「逃げたよ!」

 山県はとっさに言う。和は返事もなしに、椅子を投げ捨ててそれを追った。靴下のまま外へ出る。山県も慌てて続く。


 階段をかけ下りる音が聞こえる。部屋から出た先は崖のように……階段が透明にされていた。その上に、生田目の進路を示すように、滴り落ちた血が宙に点在していた。

 

 和は手を触れ、そこに階段の鉄の手すりがあることを確かめる。そして、それに飛び乗った。足にかかる摩擦を調整し、傾斜に沿ってそのまま滑り降りる。

 階段を降りきる残り一段のところで、生田目は和に前を塞がれた。足の動きを止める。もうこちらの姿は見つけられないはずだ。隙をついて、逃げきるしかない。

 直後、背中を強く押された。背中に張り付いた透明な枕が心臓部に強く引き寄せられるようになる。

 山県の能力が時間経過で力を増した。後ろにひっくり返るように、生田目は倒れた。階段の縁に後頭部を強打し、鈍痛が響く。

 

 見つけた。

和は階段を見つめる。

「完全に追い詰めたね。うわ、階段も透明になってる」

上から山県の声が聞こえる。


 生田目は階段に仰向けになったまま動けなかった。なんだよ、こっちの方も超能力者だったのか。二人がかりじゃないか。卑怯じゃん、そんなの……


 もう、正体を隠すことを続けられなかった。

「や……やめてくれ、僕の、僕の負けだ」

ぼろぼろになった唇から、掠れた声を出す。和は何もしない。

 生田目は能力を解除し、その姿を晒す。それと同時に、透明化されていた階段も元に戻る。

 和は息を切らしつつ、目の前に倒れ込む生田目の姿を見る。その、やや肥満体の青年を睨みつける。目元は腫れ、歯も砕け、唇も血だらけ。顔面がぐちゃぐちゃだ。


 私、ここまでやっちゃったんだなぁ……

 少しだけゾッとする。

「和ー!」

容姿を取り戻した自分の身体を眺め回しつつ、山県が階段を駆け下りてきた。

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