インビジブル・ビジネス 3
後藤から手渡された地図を頼りに、
家畜を解体する人間がいちいち罪悪感を覚えるか? 僕はこの牛刀で、二羽のニワトリの首を絞めるっていうとても簡単な仕事をこなすにすぎない。そんなことなら、小学生のころやったことがある。それと同じだ。
やがて目的地にたどり着いた。
一つ深呼吸をして、能力を発動。ガラス戸を押し開け、マンションのエントランスへ入る。周囲をキョロキョロと伺い、『管理人室』と書かれたドアを見つける。ドアノブを回してそこへ侵入する。
中では管理人と思わしき初老の女が新聞を読んでいた。その前を何食わぬ顔で通り過ぎ、部屋を物色した。その中から各部屋の合鍵が収納されたロッカーを見つけ、金城和の住む部屋番号のキーを、物音を立てないようにそっと手に取る。
二階に上がった。合鍵を使い、金城和の部屋に入る。女性の部屋に上がるのなんて初めてだよ、生田目は自虐的に思った。
扉を閉めたとき、彼は激しく肩を震わせた。うわっ、と大きく声をあげてしまった。
マーオ!
実に荒れた猫の鳴き声に、生田目は心底魂を削られた。こいつ、俺の姿が見えているのか? 慌ててテーブルの上に置いてあった鏡を見た。それでもやはり、何も映らない。
ただ気配を察知しただけか。それでもその猫は、生田目のことを睨みつづけ、怒ったような鳴き声を上げ続けている。まるで、主人の城を荒らす不届き者を追い出したがっているように。これからしようとしている行動を咎めるように。
うるさいな。静かにしてくれ。生田目は辟易とした。猫がいるとは想定外だった。これから自分がすることといえば、ただ夜になって金城和が帰ってくるのを待つだけだ。
猫は威嚇を続けている。喉を痛めそうなほど痛ましく激しい声で、こちらに向かって声を飛ばし続けている。痺れを切らして、生田目は猫につかみかかった。すると猫はするりと、身体をよじらせ、その手をかわした。
僕の姿は見えないはずなのに。どうしてこいつは……
深く溜息を吐き、割り切ってそのままでいようと思った。喉が乾いた。
冷蔵庫を開け、ウイスキーの瓶を見つける。
金城さんごめんよ、勝手に飲ませてもらうからね……
グラスにウイスキーを少しだけ注ぎ、水道水で割った。大事な計画の前に酔ったら大変だから、水との割合は二体八くらい。
猫はまだ鳴き続けている。
そして、ベッドに座る彼の足首に、その爪を突き立てた。ざり、と皮膚がめくれる感覚があった。
「痛って」
生田目は顔をしかめた。押さえつけていた感情がふいに暴発した。緊張感と不安感で増幅された怒りを、目の前の小動物に向ける。
生田目はグラスを猫に叩きつけた。それでも猫には当たらず、破片だけが床に散った。彼は唸り、足を床に叩きつけた。そのとき破片を踏んでしまって、足の裏に鋭い痛みを感じる。
生田目は舌打ち混じりに、バッグから牛刀を取り出した。足を振り上げ、猫を蹴飛ばす。それはうまい具合に命中し、猫は痛ましい声をあげた。動きが鈍ったところで、頭部を思い切り踵で踏みにじる。一回、二回、三回。猫の動きがしだいに鈍くなって、やがてはピクピクと痙攣を始めた。生田目はそれの首根っこをつかみ、持ち上げた。
「馬鹿にしやがって」
右手につかんだ猫の首に向けて、左手で牛刀を突き刺そうとした。それが案外難儀で、生田目は苛立った。猫の身体がブラブラと揺れるせいで、力の入れにくい左手では包丁がなかなか刺さらない。
「クソが」
それらを投げ出したくなって、ふと思い出す。
逆だ。
ナイフは右、フォークは左……
そんなこともわからないのか。
生田目はにんまりした。
そうだった。そうでしたよね。
瀕死の猫と牛刀を持ち替えてから、ゆっくりと刃を突き刺した。たやすかった。
肉に刃が埋まっていく感覚を右手に感じつつ、引き抜いた。血が吹き出て、その手を汚す。
ガムテープをハサミで切るような、歯切れの悪い作業だった。刃先を三センチほど動かすと、もう猫は動かなくなった。ざまぁみやがれ、と思い、達成感に身を包む。
汚れちまったじゃねぇか。
猫の死体を床に捨て、キッチンの流し台で手を洗った。血が乾く前に洗わないと。手間をかけさせやがって。蛇口を捻る。
水の冷たさを両手に感じたとき、生田目はふと我に返った。こいつ、どうしようか。
手を洗い終わったあと、部屋の中を探し回った。やがてタンスの中に文庫本の詰まったダンボール箱を発見し、中身を外に出す。猫の死体をそれに詰め、テープで封をした。
結果オーライってやつだな。
生田目は満足げだった。こいつは金城和を脅すための材料になる。今日の僕は冴えてる。半笑いになりながら、それをどこに置こうか考えた。家に入って最初に目につくところ……キッチンだ。流し台の中に、その箱を置いた。
ことが済んだら後藤にこのことを話してやろう。あの人のことだから、この露悪的行為を褒めたたえてくれるだろう。
人の家に容易に入り込めて、こんなことだってできる。これまで自分に備わったこの力のことを不気味なだけの異常なものだと思っていた。
とんでもない! これさえあればなんでもできる、最高の特殊能力じゃないか! ビートルズを殺して莫大な資産を得たあとも、この能力を使って大儲けをしよう。甘い蜜を吸い続けよう。
僕にはどんな悪いことも、どんな良いこともできる。馬鹿だった。自分には何もできないと勝手に思い込んで家に閉じこもって。
後藤は俺に生きる価値をくれた。感謝してもしきれないじゃないか。
生田目は上機嫌に時間が過ぎるのを待った。部屋にあったレコードを聞いたり、ウイスキーを飲んだり、お菓子を食べたり。
時刻は十一時を回ったが、金城和はまだ帰ってこないようだった。それでもいい。いくらでも待ってあげる。
やがて、日付が変わった。
金城和のやつめ、こんな時間まで何をしてるんだ……?
それから約一時間後、いよいよ苛立ちを感じ始めたそのさなか、やっと足音が聞こえてきた。やっとか。生田目は武者震いする。
「名前はなんつーの?」
「カズ。金城和の和の読み方を変えてカズ」
「ふーん。センスいいね。どっちかっていうとナゴのほうが猫っぽいけど」
えっ。会話が聞こえる。金城和と、もう一人がいる? 生田目は眉をひそめた。そうか、そういうこともあるよな。そこまで考えが至らなかった。この場合はどうすればいい……? 今日の僕は聡明だ、この程度のイレギュラーに怯むわけにはいかない……
計画通りやれ! 自身に強く言い聞かせる。人数が増えたところで、俺の能力のパワーは変わらない。
しかもそのうちの一人は、部屋に入ってくるざまベッドに飛び込むように横たわり、そのまま眠りに落ちてしまったようだ。
後藤から見せてもらった写真を見る限り、もう一人のほうが金城和だ。今ベッドに飛び込んだほうの女の顔は見られなかった。
生田目はとっさに動き、ベッドに寝ている女の身体に手を触れる。一瞬にして、彼女の身体は透明になる。
「あれ、カズ?」
やはり、金城和は慌てた。目論見が上手く行き、笑いが漏れそうになる。カズ? カズー?
彼女は青ざめつつ猫を探す。そしてそののち、例の箱を見つける。
それはもう、性的興奮にも似た快楽だった。金城和が死んだ
生まれてはじめて、心の底から笑いたくなった。それでも、それは仕事を終えてからだ。
計画通り、無防備になった和に向かって生田目は走った。そして、その身体に牛刀を振り下ろす。
「あっ」
浮ついていて、少しだけ標準がずれてしまった。首を狙ったつもりの一撃だったはずなのに、切りつけられたのは右腕だけだった。少しだけ動揺する。
まぁいい。次だ。俺のすべきことはただ一つ。人生ではじめての大仕事。的確に成し遂げなくちゃ。
とにかく金城和にダメージを与えることはできた。
いいぞ、いいぞ、完璧だ。俺は今、完璧な立ち回りをしている。生田目は呼吸を整えた。
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