1966年 6月18日
インビジブル・ビジネス 1
「ごめん……ほんとごめん、和……」
「別にいいってば。道路で寝られるより、ずっとね……ふぅ」
帰路につく過程で、山県は睡魔に耐えきれず何度が歩きながら眠りに落ちた。根本的に夜遊びに慣れていないのだ。
初めはなすがままにしていた和も、三回目あたりで痺れを切らした。寝てていいから、と断って山県を背負って進むことにした。
「いや、いいよ、歩けるから……」
和が自身の背中におぶさることを促すと、今にも消え入りそうな声で山県は答えた。有無を言わさず、和は彼女を背負いあげる。
「重いでしょ、悪いよ……」
「滑っていけば楽だから。気にすんなって」
和の酔いはすっかり醒めていた。能力を発動し、スケートの要領で道路を滑走する。仕事で疲れ切ったあとの帰り道はいつもこうしている。歩くよりもずっと楽だし早い。
「あはは。速っ、楽しぃー……」
「正気保ってよ、山県」
山県は和の背中にしがみついたまま眠りに落ちた。やがて、和の住むマンションの目の前にまでたどり着く。それでも彼女は眠ったままだ。
「山県、起きて。階段はさすがに無理だから……」
和は山県を揺すった。それでも彼女は起きない。短く溜息を吐き、そのまま登ろうと階段に足をかける。落ちたら落ちたで、恨むなよ……
ゆっくりと、五段くらい登ったところで山県は目を覚ました。この状態で降りられても困るから、和はそのまま彼女を背負ったまま登り切った。自室のフロアは二階だから、そこまで苦ではなかった。
山県を降ろして、バッグから鍵を取り出す。それをドアノブにかけ、回す。
「汚いけど我慢してね」
「うん。我慢するよ……あー、そうだ。猫いるんだっけ」
「そう。平気?」
「いやもう大好き。撫でてもいい?」
「寝てるだろうけど……」
「名前はなんつーの?」
「カズ。金城和の和の読み方を変えてカズ」
「ふーん。センスいいね。どっちかっていうとナゴのほうが猫っぽいけど」
山県はクスリと笑った。
「あーそれ、よく言われる」
語感がね。
和たちは部屋に入った。
時間差で酔いが回るタイプなのか、明らかに山県は正気でなかった。靴を脱ぎ散らかすと勝手に部屋のベッドに飛び込むように寝転んで、そのまま意識を失った。
「あれ、カズ?」
山県を尻目に、和は声を上げる。いつもなら座布団の上で丸まっているカズがどこにも見当たらなかった。そのための座布団だけが床の上に投げ出されている。
「カズ? カズー?」
窓も開けていないはずだ。ベッドの下やテレビの裏、クローゼットとかタンスとか、冷蔵庫の中すら確認したが、飼い猫の姿はどこにも見つけられなかった。
「どこ行っちゃったの?」
相も変わらず山県は眠りについている。不安感に駆られ、和は部屋をせわしなく歩き回った。どこにもカズがいない。こんなときに。
やがて和は目を留めた。
キッチンの流し台の中、ダンボール箱が置かれている。そんなものに見覚えはない。怪訝に感じつつ、彼女はそれを持ち上げた。
嫌な重さ。
和は本能的にその箱に嫌悪感を覚えた。鼓動が加速する。震える手で、封をしているテープを剥がす。そして、中身を見る──
衝動的に箱を投げ飛ばし、壁に倒れるようにもたれかかる。
吐き気を堪えきれなかった。消化前の海鮮料理で、フローリングに敷かれたマットを汚した。首が焼け付くように熱い。
カズはそこにいた。首筋の傷から流れる血で毛を濡らして、骨を抜かれたように身体をだらりと広げたカズが、箱に詰め込まれていた。呼吸がままならない。和は再び、流し台に向かって嘔吐した。
どうして?
なんでこんな目に合わなくちゃいけないの?
後藤らの仕業であるのは間違いなかった。彼らは自分たちの裏切りを察知し、報復に出たのだ。
貧血を起こしたときのように、視界がぼやけ、足元がおぼつかなくなる。どうやって住居を特定したのか、そして痕跡も残さず侵入したのか。
冷静になってそんなことを考えられるはずもなかった。超能力者である以前に、和は一人の人間にすぎない。
これほど騒ぎ立てても、山県は起きてこないようだった。こんなときに。和は行き場のない絶望感を、ふつふつと湧き上がってくる悔恨と怒りを、衝動的に山県に向けた。
彼女を叩き起こそうと、ベッドの方へ振り向いた。そして、我に返る。
そこに寝ていたはずの山県の姿がなかった。脱ぎ捨てられた靴や、彼女が持っていたハンドバッグはまだそこにある。山県本人だけが、忽然といなくなっていた。
「山県?」
返事はない。
和は涙を拭った。さっきとは異なる目的で、部屋を見渡す。
そのとき、なにか動きがあった。かすかな空気の揺れを、和は察知する。部屋の中で何かが動いた。不安定な精神状態による思い違いかもしれない。それでも、その気配は明白だった。
直後、右腕に激しい痛みを感じた。何かで強く切りつけられたような、突発的な刺激痛。
その感覚の通り、右腕が斬られていた。得体のしれない刃物による攻撃を受けた。シャツの袖が切り裂かれ、深くえぐられた皮膚の傷口が見える。
「うっ……」
和はその場にしゃがみこむ。その体勢のまま傍にあったタンスを開け、中からパッケージに包まれた生理用のナプキンを取り出す。依然出血を続けている傷口にそれの吸水面をあてがい、ポケットの中にあったヘアバンドで固定する。
つかの間、和は再び攻撃を受けた。即席の止血処理のあと、その場から立ち上がろうとしたとき、また切られた。それは衣服の腹部を数センチ切っただけで、肉体には到達していなかった。
すかさず、目の前に視線を飛ばす。やはり、なにも見えない。どこから攻撃が来るのか、一切検討がつかない。
周囲を見渡していると、背中に衝撃があった。後ろから蹴飛ばされたような圧力を感じ、なすがままに和は前へ突き飛ばされた。キッチンの下の収納棚に身体がぶつかる。ふと思い立ち、彼女はうずくまったまま棚の扉を開けた。食器とか乾麺とか、中身を乱雑に外にぶちまけ、無理矢理その中へ入る。身体をよじらせると、どうにか扉を閉めることができた。
数回深く息を吸って吐く。
この中には攻撃は届かないようだった。曲げたまま動かせない膝の痺れに耐えつつ、思考する。
あの斬撃は……二発目は服を切られただけで、明らかに外していた。超能力者による襲撃であることは間違いないとして、その発生源はどこなのだろう。どんな能力で、どこから、どういう手段で攻撃を加えているのだろうか。一切の痕跡も残さず鍵のかかった部屋に入り込み、カズを殺した。山県を一瞬で消した。どこからともなく、目に見えない刃物の攻撃を繰り出してきた。
この部屋そのものが、能力の渦中に嵌っているのか?
音が聞こえた。耳を澄ます。
ガチャガチャと、床に散らばった食器が音を立てていた。やはり、何者かがこの部屋にいる。カズを殺し、山県を消した何かが。【鉄風】の雇った十人の超能力者のうちの一人か、あるいは組織の構成員なのか。
棚の扉を、外側から数回叩かれた。しだいにその力は強くなっていく。振動が身体に伝わり歯が震えるが、そこから動く訳にはいかなかった。
やがて音は止んだ。そして、和の目の前には部屋の風景が広がった。扉が開けられた……いや、違う。身体は依然狭い空間につめこんだままだ。手を伸ばす。扉の感覚がある。和はそれを押し上げた。目に見えない扉を開け、痺れたままの脚で彼女は床に立つ。さっきまで入っていた収納棚が消えていた。その上の、流し台とコンロもなくなって、それがあるべき位置にはただ薄汚れた壁があるだけだ。
収納棚がキッチンごと消された……
そういう能力か。和は身構えた。
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