息もできない 2

 ジュングンはいよいよ立ち上がった。後藤ごとうの顔面に向けて拳を突き出す。ポルノ映画の喘ぎ声に混じって、後藤は呻きを上げた。


 ふざけるのも大概にしろよ。お前のような人間には心底反吐が出る。ホープや僕に対し露骨な悪意をむき出しにしていた、いぬい友康ともやすのような人間のほうがよっぽどマシだった。

 こいつは、まさか本気で僕を懐柔できると思ったのか? 行き場のないみじめな僕に、手を差し伸べたつもりなのか? そもそも僕を警察に突き出すための口実なのか?


 どちらにせよ、殺意に酷似した嫌悪感がジュングンに拳を握らせた。後藤が何か言葉を発するより先に、二発目を食らわせる。後藤の鼻柱を打った時、鈍く重い振動を右腕に感じた。




 後藤ごとうしゅんは翻弄された。


 教師である彼はまるで生徒みたいに校長室に呼び出されて、革製の椅子に座らされている。

「後藤先生、ちょっとこれはさすがに看過できませんよ」

校長は彼を睨みつけ、喉の奥から絞り出したような声を漏らす。テーブルの上の灰皿にタバコの火を押し付け、足を組み替える。

「はい。この事態、大変重く受け止めております」

後藤は深々と頭を下げた。

「言うだけなら誰だってできるんですよ。先生のクラスから……二人ですか? それもどちらも外国人の、ねぇ」

「いや、それは」

「関係ないのはわかってますよ。それでもねぇ、先生。周りから見たら、いろいろ考えられちゃうのは分かるでしょ」

後藤は言葉に詰まる。暖房をきかせた部屋がやけに暑い。額に汗が滲む。

「いえ、私はたしかに政治運動家でもありますが……教員としての仕事に思想を持ち込むことは、断じてございません」

 業務をほっぽり出してデモに参列するような連中とは違う。後藤は断言した。虚勢ではなく、それは事実だった。アメリカ人のホープ・アンダーソンや、在日朝鮮人のイム重根ジュングンに対し、差別的な感情を抱いたことは断じてない。むしろ、他の生徒たちから露骨な区別を受けた彼らに対しては、親身になって同情を感じていた。俺が行っているのは報国であり、それには差別は必要ない。

「ともかく。ひとりは生徒間のリンチで死亡事故。もうひとりは警官に暴行事件を起こして失踪。これは紛れもなく、監督不行き届きなんですよ。後藤先生、あなたは生徒の命を預かる立場なんですよ。彼らの親御さんの顔を見られますか」

「本当に……申し訳ございません!」

風が起きるような勢いで後藤は頭を下げる。



 後藤はジュングンに一つだけ嘘をついていた。彼が言い渡されたのは一年間の停職に過ぎず、退職を切り出したのは彼自身だった。ここにはもういられない、そう確信したのだ。

「なぁ、はやし……」

「僕はイム。僕の名前はイム重根ジュングンだ」

打撃の範囲内から逃れようとうずくまった後藤の首根っこを掴み、持ち上げる。後藤は顔をしかめる。

「ああ。……イム、あのな。俺はただ、仲間が欲しいだけなんだ。それだけなんだ。お前に恩を売りたいわけじゃないんだよ」


 ポルノ映画の上映が終わった。

二本目の上映が始まるまで、十分間の休憩がある。沈黙が訪れる。

 もう一発殴ろうとしたとき、唐突に背後から強い力で羽交い締めにされた。映画館のスタッフと思わしき男が、ジュングンを後藤から引き離した。その拘束を振りほどこうと、彼はもがく。

「やめてくれ。いいんだ。悪いのは俺なんだ」

後藤はスタッフの男にそっと言い、首を横に振った。一瞬力が緩んだところで、ジュングンは男を突き飛ばして拘束から抜け出した。スタッフの男はそのまま、うつむきながらスクリーンの奥の方へ消えていった。

「はや……イム。俺が悪かった。本当にすまなかった。俺はお前を侮辱してしまったようだ」

ジュングンは劇場の外へと踵を返した。その背中に、後藤は駆け寄ってくる。

「腹は減ってるだろ。飯を奢らせてくれないか」


 差し出された右手を払い除け、最後の一撃をその脇腹へ埋め込んだ。振り上げた右脚の爪先が肋骨を狙う。後藤はうっ、と声を漏らした。

「イム、俺は殴り返さないぞ」

 顔にも、口調にも、後藤には怒りというものが一切感じられなかった。

「俺も一人だった。今まで耐えようがないくらい一人だったんだよ。そんな俺にも居場所ができた。教師と生徒の間柄なんてもう関係ないんだ。俺はお前と、友達になりたい」


 ジュングンはようやく劇場を後にした。扉を乱雑に開け、夜の街へ逃げ出した。

「組織の名は鉄風、鉄の風と書いて【鉄風】だ! 俺はここには毎週通ってるから、気が変わったらいつでも来てくれよ!」

最後まで、後藤はこの有様だった。【鉄風】という組織とは一体何なのか。政治的結社というより、新興宗教的な不気味さを感じた。むろんそんなものに迎合するくらいなら死んだ方がマシだ。

 

 天皇陛下万歳。

 金日成しょうぐんさまに敬礼。


 クソ野郎がシバラマ



 僕はどこへ行けばいいんだ。後藤は警察が追っていると言っていた。拳銃を盗んだことも明らかになっているらしい。

 劇場を出て南へ真っ直ぐ歩くと、交差点の角に交番が見えた。真夜中の路上で、そこだけが照明の光を放っている。

 ジュングンはふらふらと、その方向へ向かっていった。俺を逮捕しろ。ボコボコにして、刑務所へぶち込め。

 ジュングンは交番を横切り、横断歩道を渡った。交番は灯りが点いているだけで、誰もいなかった。


 やがて彼は、パチンコ屋のシャッターに寄りかかっていた。今は何時だ。ここはどこだ。百貨店の外装が見える。浮浪者みたいにここで眠りに落ちてしまおうかと、そっと瞳を閉じようとする。


 そんな中、ジュングンは叫びを聞いた。

男の、というより、成熟しきっていない若者の声だった。そっと彼は立ち上がり、声のした方へ視線を向けた。

 そこは路地裏だった。三人のヤクザ風の男が、一人の青年を囲み、足蹴にしている。子供がボールで遊ぶみたいに、三法から腹を、顔を、脛を蹴り回す。凄惨たるリンチが行われていた。


 ジュングンは吸い寄せられるように、路地裏へ足を向けた。一歩、一歩と前進していく。彼に気づいた男のうちの一人が声を上げる。

「なんだお前」

 挑発的でも、怒りを含んでもいなかった。男の口調は、明らかに侮蔑だけをを含んでいた。ジュングンは走った。助走をつけ、男に近づく。そして、跳躍した。曲げていた膝を、男の顎へ向けて伸ばす。爪先が喉元に命中した。不意打ちを食らった男は仰け反り、そのまま膝を地についた。

 追撃を加えようとしたジュングンの視界が遮られた。顔面に激痛が走る。三人のうちのもう一人に、後頭部を鉄パイプで殴られた。


 頭から地面に倒れ込んだ。

 リンチの対象はその青年からジュングンに変わった。そこから立ち上がろうと力を込めた手のひらを、靴の底で踏みにじられる。


「ビックリさせんなよ、誰だよ、このガキ」

「こいつの仲間じゃねぇの」



 御厨みくりやひらくはそこから動けなかった。わけが分からない。この少年は誰だ? 俺を助けようとしてくれたのか……? それとも、酔っ払って突っ込んできただけなのか……?

 

 なんにせよ、今のうちに逃げなければ。御厨はひどく痛む足を動かし、その場から離れようとした。しかし、その経路を連中の一人に塞がれる。

「てめぇ、調子乗りすぎと違うか。なんだこのガキ」

「違う、俺は、こんなやつ知らない!」


 このザマだ。誰だか知らないが、ほっといてくれれば良かったのに。

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