1966年 7月2日

息もできない 1

 イム重根ジュングンは新宿、歌舞伎町にいた。そして、因縁をつけられた若い男と対峙している。

 男はジュングンを足払いにかけると、バランスを崩した彼の身体に殴打を加え入れた。鳩尾に拳を埋め、仰け反った腹部に蹴りを飛ばす。ジュングンは呼吸ができなくなり、そのままアスファルトに転がった。

 彼がその場に蹲っているのをしばらく眺めたのち、男は唾を吐きつつその場から去っていった。


 鉄のような血の味を舌に感じる。


 ジュングンはふらつく足元に力をこめ、死にかけの老人のような足取りで立ち上がった。ズボンが破けて足が露出してしまっている。赤黒い傷跡が見える。


 この三戦目は最悪だった。一方的に殴られっぱなしだった。ジャケットについた泥を手で叩き落としつつ、溜息を吐いた。


 ジュングンはヤクザになろうとした。しかしその手のコネクションはないし、どうすればいいのかまるでわからなかった。だからこうして、わざとめぼしい相手にすれ違いざまにぶつかっていったりして──故意に喧嘩を売られていくことにした。

 もちろん誰にも勝てはしなかった。中学生同士の喧嘩とはわけが違う。キレた大人。戦争しか知らない子供たち。


 姉貴と別れたときに感じた、あののようなものは一体何だったのだろう。まるで胃の中を魚が泳いでいるかのような感覚が、あのときにあった。単なる高揚感とは明らかに一線を画した、何かのを告げるような予感。それは決して錯覚ではないとジュングンは確信していた。


 彼はふらふらと路地を歩み、ベンチのある公園へ入った。そこの水飲み場の蛇口を捻り、乾いて傷だらけになった口元を洗う。

 ベンチの下の砂を掘り返し、中に埋めておいた財布を取り出す。チンピラ一人倒せない自分の力量は弁えていた。ぶん殴られて路上で伸びているところで財布を盗まれたりしないように、ジュングンは何も持たずに戦闘に臨んでいた。財布についた砂を払い、それをジャケットのポケットにしまおうとした。

 そこで彼は舌打ちする。右手の甲にびっしりと砂が付着していたのが見えた。汗と血で貼り付いてしまったのかと、うんざりしながら左手で払う。

 されどそれはなかなか落ちない。みじめに感じて、ジュングンは深く溜息を吐きつつ強く手を擦った。


 そして、気づく。

 手に付着しているのは、この公園の薄黄土色の砂とは色が違っていた。黒々とした、錆のようなきめ細かい粉末。砂鉄だった。


 砂鉄だけが、彼の手に付着している。

ジュングンはそれを水道で洗い流し、シャツの袖で水気を拭いた。

 今日はこのまま映画館で夜を明かそうと思った。ズタボロの身体で新宿三丁目方面へ歩き出す。

 

 最初に目についた劇場に入った。上映作品を見ると、かかっているのはポルノ映画らしい。ただ寝る場所が欲しいだけだったから、別になんでも構わない。

 彼は窓口でチケットを買って上映室に入る。客席はまばらだった。

 ジュングンは年齢よりも大人びた容姿で、それゆえ酒やタバコを手に入れるのもほかの同級生たちに比べてたやすかった。それでもピンク映画になんて足を運んだことなど一度もない。興味がなかった。そんな自分が今、そこを宿がわりにして一夜を明かそうとしている。

 スクリーンに裸体を大映しにしている女優を見ていられなくて、ジュングンは目を閉じた。外は寒いが、過剰に暖房が効いているらしいこの部屋も快適ではなかった。死んだ目でスクリーンを見つめている男たちを全員ぶん殴ってやりたくなる。


 質の悪い硬い椅子に座っているのも窮屈だったせいで、なかなか寝付けなかった。スピーカー越しの嬌声と、周りの客のイビキがあまりにも耳障りだ。

 彼は隣の席に置きっぱなしになっていた灰皿を手に取った。ジャケットのポケットに手を突っ込んだところで、そこにホープの箱がないことに気づく。どこかに落としてきたのだろう。


 それでもどうにか眠りにつこうと目を閉じ続けていたところで、足に痛みを感じた。めぼしい席を探そうと歩き回っていた男に足を踏まれたらしかった。ジュングンは舌打ち混じりに瞼を開け、その男を睨みつけた。

 すみません、と男は小さく手を挙げて平謝りし、通り過ぎていこうとした。が、何かを思い出したように踵を返し、彼の近くへ舞い戻ってくる。じっとジュングンの顔を見つめたのち、小さく声を上げる。

はやし!」

 

 ジュングンはうんざりした。男の言葉を無視し、眠りに落ちたフリをする。するとその男は肩を数回強く叩いたのち、隣に座ってきた。

「こんなところにいたのか」


 そいつは後藤ごとうしゅん、ジュングンの担任教師だった。ポルノ劇場で担任とばったり出会う。これほど無様なことってあるか? 死にたい。誰か殺してくれ。

「……大丈夫だよ、何も言わないから。むしろ安心したよ、お前もこういうの見るんだなって」

 ジュングンは無視を続けた。ピンク映画を見に来た分際で、他の連中と一緒にホープを見殺しにした人間が、何様のつもりで話しかけてくるのか。


「林、俺は教師をクビになってしまったよ」

それでも後藤は話をやめなかった。スクリーンに映る女優の裸を眺めながら、周囲に配慮のない声量で語りかけてくる。

「アンダーソンのこともあったしな。それでお前が暴力事件を起こしたときた。まさか拳銃を盗むとはな。……まぁ、当然の報いってやつだな」

 後藤は笑っていた。

ジュングンは拳を握る準備をした。


「やっぱり家には戻らないのか? 警察がお前を探してる」

後藤がマッチを擦る音が聞こえた。煙が漂ってくる。あまりに不快で息もしたくなかった。

「なぁ、これから逃げるつもりなのか」

次こいつが何かを喋ったら、つかみかかる。コンクリートの床になぎ倒して、息の根が止まるまで踵で喉を踏み潰し続ける。ジュングンはそう決めた。


 後藤はふと、思い立ったように言った。

「もしそうなら、俺たちのところに来ないか。我々の仲間にならないか」

ジュングンは目を開けた。首を傾け、後藤を睨む。……?

「俺は学校の他にもう一つ居場所があるんだ。【鉄風】って組織がある。そこならお前を匿ってやれる。衣食住の保証もできる」

こいつは何を言っているんだ?

「一応政治的な組織だが、思想は不問だ。誰であっても、我々は深く受け入れる」

 後藤が右翼であることは周知の事実であり、ジュングンも彼が駅前で君が代を流しながら日の丸を振っているところを見たことがあった。


「先生。僕は警官を殴り倒し、ピストルを奪いました。そして今、僕はそれを持っています」

ジュングンは初めて口を開いた。嘘をついた。拳銃は結局、誰にも弾を当てずに捨ててしまった。

「なぁ、ジュングン。俺はたしかに教師で右翼だが、根本的にはお前のような人間と同じなんだ。……いや、正味な話、憧れすら抱いている」

後藤は教室で古文を教えるような口調になった。

「いわばアウトローってやつ。今の時代、どこにいっても叫ばれるのは平和、革命だろ? むしろアウトローは右翼の側にある」

 ジュングンは席をたった。ここにいるくらいなら、外で夜を明かすほうがマシだ。

「俺たちはお前のような人間の味方なんだ。正義は少数派のほうにある」


 お前のような人間……?

 朝鮮人。犯罪者。落伍者。

 そのどれを取って、お前はその言葉を使った?

 


「組織にはお前のような在日の人間もいる。ゲイの男や、らい病の女も。そこでは誰も区別されないんだ」

後藤は続けた。

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