スローターハウス404 3

 遊剛ゆうごうはそれから試行錯誤を重ねた。玄関の扉を開けてみる。それだけではまだ【巻き戻り】は発動しない。そこで、自分は部屋の中にいたまま、外へ向かって何かしら適当なもの──写真立てを投げ込んでみた。写真立てが部屋の外に落ち、外のコンクリートに当たって音を立てた時点で、やはり遊剛は部屋の中央にいた。

 自分だけでなく、部屋の中のものを外に出そうとしても、やはり【巻き戻り】は起こることを知る。


 そして、部屋の中のものを何かしら『破壊』することも【巻き戻り】のトリガーらしい。窓を。写真立てを投げつけ、壁紙に

 その法則は、襖の中に敷き詰められた五百円札の一枚をヤケになって破いたときに気づいた。たった一枚の紙幣を破り捨てた直後、【巻き戻り】が起こったのだ。それから雑誌を破いてみたり、電気スタンドを叩き壊してみても同様だった。ちなみに、納戸の中に入っていた食パンを齧ることもその範疇らしい。


 それに加えて、その法則は遊剛自身にも適応される。彼が『破壊』を試すために台所から包丁を持ち出そうとした際、誤って指先を切ってしまった。その時も、一瞬痛みを感じた直後、やはり巻き戻って元の位置に移された。指の傷ももちろん消えている。シュリの能力の対象物、つまり『この部屋と、その中にあるもの』のうちには遊剛自身も含まれているようだった。徹底的に『閉じ込める』、ゆえに対象に自殺さえも許さない。


 この能力を破るには、何をするべきか。

 遊剛は思考する。彼女を超能力者と断じることで、だいぶ冷静になってきたと思う。ありがとう金城先生。

 そもそももともと俺は、ハナゾノを勇気づけるために先生が用意してきた存在だ。俺の使命はハナゾノを癒すことcure。それでも、先生は俺までをも救済した。さすがはカウンセラーと言う他ない。

 これまでシュリは、この超能力で俺以外の人間も葬ってきたのだろうか。入ったら最後、逃げ場のない牢獄を作る能力。屠殺場スローターハウス。俺はここから抜け出さなければならない。


 あの爆殺もシュリの能力なのだろうか。いや、おそらく、あれは彼女の仲間の、別の人間によるものだろう。能力の系統が明らかに違う。一人の人間が使える能力は原則として一つまでなのだと金城先生が語っていた気がする。どんな天才だろうと、脳みそが二個あったりしないでしょ、とのこと。となると、三億円事件の実行犯のうち、少なくとも二名は超能力者であるのだ。警察ごときに足取りがつかめるはずがないのも頷ける。


 ところで遊剛は、先ほどあることを思い出した。今の状況との直接的な関連性はないのだが、『破壊』の法則を試す過程で、包丁で自分の身につけている衣類を切り裂いたとき、たまたま気づいた。

 ジーンズの後ろのポケットに、ロザリオが入っている。路上で朽ち果てていた若い男が身につけていたものだ。そういえばあの時、なんとなく持ち去ったのだった。彼はそれを首にかけてみた。信仰のことはわからないが、なんとなく縁起がいい。なんかかわいいし。

 ロザリオはいわば数珠のようなものであり、ペンダントのように首からかけるものではないことを遊剛は知らない。


 彼は襖を開け、中に敷き詰められている五百円札を床に撒き散らす。一枚でも破いてしまうと問答無用で【巻き戻り】が起こる。注意を払いながら、そのすべてを外へ出した。襖の中はまだよく調べていなかった。なにか、能力を解除するための糸口が隠されているかもしれない。

 しかし、いくらくまなく調べてみても、めぼしいものは何も見つからなかった。埃を被った扇風機とか、もう聞かないのであろうレコードとか。それらが状況打破のきっかけになるとは思えず、深く息を吐きながら遊剛は五百円札の一枚を破いた。時間が巻き戻り、すべて元に戻る。


 あとどれくらい猶予が残されているのだろうか。腹も減ってきた。火をつけて消耗するのが『破壊』に値するから、タバコを吸うことさえもできないのだ。だんだん腹が立ってくる。……それがシュリの狙いか。蛇口を捻ることができるのが不幸中の幸いだ。冷たい水で顔を洗ったあと、喉を潤した。あのセールスマンは何だったんだろう。水道水を題材にしたビジネスか。ライフラインを人質にとった、脅迫的な商売。まったくよく考えるよ。


 時間がわからないのが心底もどかしい。この【巻き戻り】は、現実の時間にも干渉する能力なのだろうか。それとも、ただ物理的に状態を復元するだけなのだろうか。もし前者だった場合、いろいろと矛盾が生じるはずだ。そもそも隣の部屋に住んでいる人間はどうなっているんだろう。シュリの能力の効果が及ぶ範囲はあくまでこの部屋だけなのだろうか。

 先ほどからめちゃくちゃに物音を立てているのに、隣人から一切反応がない。とても静かだった。時計の針の音が聞こえるくらいに。


 わざと騒ぎ立てて誰かをこの部屋に呼び込めればとも考えたのだが(もっともその場合、あの爆殺死体をどう説明したものか分からないが……)、そううまくいかないようだった。防音設備の行き届いた建物なのか、あるいはみんな外出しているのか。

 ここは単身者向けのアパートらしい。平日の夕方である今、入居者がみな出払っていてもおかしくない。


 とにかく、さっさとどうにかしないと。今は一体何時なんだ? 腕時計は持っていない。遊剛は現在の時刻を確認しようと、時計を探した。

 時計はどこだ。机やベッドの上にはない。壁にもかけられたりはしていない。洗面台にも、キッチンにも、どこにも時計は見当たらなかった。


 あれ?

 遊剛はそこで、違和感に気づく。

 この部屋、のか? シュリは部屋に時計を置いていないのだろうか。いや、それはおかしい。何せ、『針の音』は確かに聞こえるのだ。カチカチカチと、機械仕掛けの秒針の音が、確かにこの部屋で鳴っている。静寂の中で、それだけが唯一、この耳に聞こえているのだ。


 なのに、時計の『本体』がどこにも見当たらない。この音は、急かすようなこの作動音は、いったいどこから鳴っているんだ。その強烈な違和感に、遊剛は息を飲んだ。

 もっともそれは、極限状態に置かれた自分が強迫観念に駆られるままに作り出した幻聴なのかもしれない。


 でも、もし、そうじゃないとしたら。

遊剛は目を閉じた。左右の耳に神経を集中させる。この音は、どこから鳴ってる?

 襖の奥じゃない。隣の部屋から音が漏れているということもない。たしかにこの秒針の音は、この空間の中で鳴っている。耳を澄ます。


 ものを破壊しないように気を払いつつ、遊剛は空き巣のように部屋を漁った。あの音の発生源はどこだ。無性に気がかりだった。

 戸棚の中とか、洗濯カゴの中までひっくり返した。それでも何も見つからなかった。存在しないはずの時計の音。それが今の彼には死へのカウントダウンに思えてならなかった。自身の中で肥大化していく焦燥感に殺されるような感覚。途方に暮れて、遊剛はその場に倒れるように壁際の本棚にもたれかかった。


 後頭部が本の背表紙に当たる。

 耳元から針の音が聞こえた。



 やがて遊剛は、いともたやすく謎を解いた。


 一瞬の出来事だった。その秒針の音は、本棚から聞こえていたのだ。その中から、一番分厚い辞書を抜き取る。鉄塊のような重さを片手に感じる。それを開く。彼は瞳孔を開いた。

 ページの中央に、四角い穴がくり抜かれていた。数百ページを貫通させて、深い窪みを作っているようだ。その穴の中に何かが、パズルみたいに埋め込まれている。古典的な手口だった。何かの映画で見たことある。

 遊剛はそれを取り外した。それの正体はもちろん、時計だ。野球ボールくらいの、小型の時計。


 そこからは当然のように、針の音が響いている。それなのに、針は五時半を指したまま、微動だにしていなかった。針は止まっているのに、作動音だけが響いている。


 遊剛はその時計を握りしめ、玄関のコンクリートへ思い切り叩きつけた。

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