勝手にしやがれ 2
電気の止められたアパートみたいな辛気臭い薄暗さの店内に、二つのぼんやりとした青い炎が揺れる。
コーヒーの注がれたカップのふちに、橋をかけるようにスプーンが置かれている。そしてそれには角砂糖が一つ乗っていて、幻想的な青白い炎を纏っている。その角砂糖にはブランデーが染み込ませてあり、火をつけるとこのように燃えるのだ。
その小さな青火のゆらめきを楽しんだあとは、溶けた砂糖をコーヒーに混ぜ、飲む。エンターテインメント性に富んだコーヒー・カクテルだ。
「ね? 綺麗でしょ」
カフェ・ロワイヤル特有のおぼろげな輝き。
「高校生のとき、修学旅行先の京都の喫茶店で初めて飲んでね……感激しちゃって」
それ以来、巡り合わせていなかった。あの日見たあの炎を、こんなところで再び拝めることになるとは。
「うん。綺麗だね」
「でしょ。……あれ、なんか微妙だった?」
一人で舞い上がっちゃって……思ったより山県の反応が芳しくなく、恋人からプレゼントを貰って、はやる気持ちを抑えながら包みを開けたら安物の化粧水だった、みたいな表情になりつつある彼女を見て、和はやや気まずくなる。
一瞬視線を泳がせてから、山県はこたえる。
「綺麗だから、何なのって」
「……いや、だから、綺麗でしょ、って」
「それだけ?」
名作とされる文学、絵画、音楽、映画、演劇、それは分かる。ビートルズだってそうだ。受け手の人生観を揺さぶるような創作物は好きだ。マルセル・デュシャン、マルキ・ド・サド、フェデリコ・フェリーニ。
そして政治集会や学生運動や市民活動にだって、目的がはっきりしているから興味はなくとも共感はする。
でもさ。
角砂糖が青く燃えてるから何なの?
カバンにスパンコールがついてるから何なの?
頭を北にして寝たら縁起が悪いって何なの?
それ、なんか意味ある?
服のブランドの違いとか分からないし、なんなら今も着てるスポーツ用品店で売ってるジャージでいい。腕時計なんて、時間が分かればプラスチック製のでなんの問題もない。それで文字が上手になるわけじゃないのに、わざわざ何千円もする万年筆を買う意味が理解できない。
なんてことをわざわざ他人に言い続けていたら、ただでさえ少ない友達がゼロになりかねない。だから彼女がいつも噛み殺している問いだ。
なぜかそれを、この時にだけ放ってしまった。金城和の仕事はカウンセラーらしい。患者の悩み事なんかを聞いて、精神的な苦痛を軽減してあげる仕事だ。でもそれとは関係ない。これから和とは同じ組織を相手に共闘するのだ。お互い、切っても切れない関係にならざるを得ない。いくら嫌われようと、はなればはれになることはできない。だから、安心だ。自由に振る舞える。彼女は友達じゃなくて、仕事仲間だから。
「そっか。そりゃ残念」
和はスプーンをカップへと突っ込んだ。炎を纏った角砂糖はコーヒーに消え、かき混ぜられてその中へ溶けていく。山県もそれと同じ動作を自分のカップでした。
「もちろん見た目だけじゃないんですよ。ブランデーが入ってるから、これはカクテルでもあるんです」
そっと一口啜る。コーヒーの苦味と香ばしさ、かすかな砂糖の甘さに加えて、たしかにアルコールの風味が感じられた。
「お酒は? 飲むほう?」
「うん」
酒は大好き。本当はこんな純喫茶なんかより、馬鹿みたいな大音量でレコードが流れてるジャズ喫茶のほうが好き。なんなら、場末っぽい飲み屋が一番好きだ。
「じゃあ今度、飲みに行きましょうね。こう見えてね、私も結構得意なんですよ……」
ざっと言いのけたが、和の語尾が若干しぼんだ。
「今から行こっか!」
そしてすぐさま、これは名案だ、とでも言わんばかりに声を上げる。
「え?」
「こんな辛気臭い店なんか出て、酒を飲みに行きましょう! 来るべき戦いに備えて。そのほうがいいでしょ?」
「……勝手にして」
テキパキと和は手荷物をまとめて、出る準備をする。
そうじゃないだろ山県理真。
もっと元気よく、病院での振る舞いみたいに、あっけらかんとしなくちゃ。阿呆っぽいけどどこか冴えた、つかみどころのない人物でいなきゃ。
「カツサンド、まだ来てないけど」
「大丈夫大丈夫。どうせまだ作ってすらいないですよ、きっと」
ガーゼで覆われた首に手を当てながら、和は席を立った。あわてて山県は、約束通り二人分の金を渡す。コーヒーもまともに飲まないまま店を出ていこうとする女二人を見て、店主は露骨に嫌な顔をした。それでも和はぜんぜん気にしていないようだった。
酔いが回ったら絶対言おう。
怪我させてごめんね。
これから、頑張ろうね。
あ、敬語使わなくていいからね。多分同い年くらいでしょ?
山県はドクターの言葉を思い出した。
医者のことではなくて、自分の所属する組織の、ドクターという名前の
「私ほどじゃないけど、人の心を読むのがうまいんだろうね。カウンセリングってそういう仕事だから。なんも考えてないように見えて、チェス選手みたいに先を見据えてる。だからこそ先手必勝。どんな能力かも分からないし、狭いところ……私が書店の中に誘導してあげる。理真ちゃんの能力にとってはホームグラウンドだから、先制攻撃を試みて」
ドクターは組織の参謀役だ。
その能力で【鉄風】が用意した十人の超能力者の情報を集め、それに従って山県たち実行班が動く。あの時も、和があの書店に行ったのは偶然ではなかった。彼女は自身の能力で、そうするように仕向けたのだ。ドクターは山県が戦力を最大限に発揮出来る場を用意してくれた。
しかし、
店を出て、和の背中に追いつく。
「どこ行く? どこか、いい店あります?」
「この近くだと、えーっとね……」
どうしようかな。和は肉を食べられないから、おでんとか、寿司とか……
しばらく歩き、目当ての店を見つけた。
「あそこ」
「いいですね。海鮮系かな。私は貝を食べたい」
少し笑う。
「私は貝を食べたい!」
ドクターの言葉が反芻する。
『人の心を読むのがうまいんだ』
『なんも考えてないように見えて、チェス選手みたいに先を見据えてる』
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