1966年 6月17日

勝手にしやがれ 1

 山県やまがた理真りまとの戦闘で負った傷の対処のために、金城かねしろなごは豊島区の総合病院にいた。待合室のソファーで、首に赤黒い血の滲んだ包帯を巻いたまま、傷の痛みに苛立ちつつ文庫本を読む。平日であるのだがそれなりに混雑しているようだ。周囲を伺ってみると、怪我を負った学生と思わしき若者たちが数人見受けられた。機動隊に殴られたのだろうか。


「面白いの、ソレ」

 隣から聞こえる声を無視し、和は文字を目で追う。物語はクライマックスに達し、ヴィクトル・ユーゴーによる大長編の最終巻のページもあとわずかだ。

なご、聞こえてる? 聞いてる? 聞こえてて無視してるの? それとも本気で読書に没頭してるの?」

「うるさいな! 百貨店に連れてきてもらった幼児かあんたは」

隣に座っているのは、この首の傷を負わせた張本人。山県理真だった。


 山県は和と同様に、【鉄風テップウ】のビートルズ暗殺計画を阻止するために組織に潜り込んだのだ。そして、計画が実行される当日までに雇われた超能力者を全員撃破することを目論んでいた。和を襲撃したのは、あくまでその過程に過ぎなかったという。

 もし本当に【鉄風】に反旗を翻すつもりなら、私たちは手を組むべきだ……彼女はそう提案した。

「まさか、それを信用しろって」

「ちょっと待って。あたしは何一つ嘘なんて言ってないんだよ。……これから一緒に病院行こうよ。もちろん治療費、払うから」


 めちゃくちゃ怪しいけど……

それでもまずは、この怪我を治療することが先決だろう。和は彼女の顔を怪訝に眺める。

「わかりました。仮にこれがあなたの張った罠だったとしても、まぁあなたにはまず負けないだろうし」

「言ってくれんじゃん」

山県は軽く息を吐きつつ微笑んだ。

そして、被害者と加害者が連れ合って、総合病院へと足を運ぶことになった。


 持ってきた文庫本――いい本だったなぁ、と和はのちにしみじみ思う――をちょうど読み終えた頃、名前が呼ばれた。

「呼ばれた」

「じゃあ、行ってらっしゃい」

本をハンドバッグにしまって、山県へ適当に会釈しつつ、診察室へ向かった。


 医師は怪訝な目で彼女の首にある傷を眺める。

「どうしたの? これ」

明らかに後ろから刃物で突き刺した痕だ。

何やってんの? 彼は顔をしかめる。

「あと数センチズレてたら即死だよ」

医師の言葉を受け、和は本心とは裏腹に、申し訳なさそうに肩をすぼめる。何やってんの、って言われてもなぁ。説明に困る。

「仕事で事故をね、起こしちゃって……」

「事故? 気をつけなよ、どんな仕事か分かんないけど。首の怪我はほんと、命に関わるんだからね」

山県はふざけた人間っぽいが、あの能力で的確に急所を狙って攻撃してきたところを見ると案外侮れないのかもしれない。

 医師は最後まで不信感を解かなかったが、それでも一応消毒とガーゼによる措置と処方箋を提供してくれた。

「かなりタフというか、身体が丈夫っていうか……入院してもおかしくない怪我なんだがなぁ。よくピンピンしてられるよなぁ……」

間延びした口調で、珍しい昆虫を観察する少年のような目で、彼はささやく。

「よく言われます」

互いに失笑を交わし合い、彼女は診察室を出た。


「どうだった?」

「叱られたんですけど。お前のせいで」

「なんて?」

「仕事で怪我したってことにしたんです。そしたら不注意だって」

和は軽く舌を鳴らした。

「正直に言えば良かったじゃん」

「なんだよ。それが後ろからハサミで人を刺したやつの口ぶりかよ」


 二人は病院を出て、そのまま付近の喫茶店へ入ることにした。和は成り行きで山県と打ち解けつつある自分自身に懐疑的になりつつも、何の躊躇いもなしに宣言通り治療費を全額払った彼女に対し、一目置くところがあった。コーヒーも奢ってくれるそうだ。へへ、悪いね……


 『Breathless』

店の入口付近の、おそらく看板代わりであろうチョークボードに店名と思わしき文字が記されている。

「ブ・レ・ス・レ・ス? 変な名前」

山県はかがんでチョークボードを見つめ、たどたどしくその英単語を読み上げた。

「新しい感じの店だね。活気はなさそうだけど」

確かに、心なしか窓ガラスや外装に古さを感じない。

とくに考えもなしに、二人は入口のドアを押し開けた。


 三つのテーブル席と4席のカウンターのみの小ぢんまりとした店内には、店主のほかには誰もいなかった。総合病院のそばの喫茶店というと集客に都合がよさそうだが、そう上手くいっているわけではないようだ。経営が潤っているようにはみえない。

 せっかく置かれたジュークボックスからは何も鳴っておらず、カウンターに置かれたラジオから流れる競馬中継だけが常に響いている。

「暗っ」

店内の陰気な雰囲気を感じ、山県は苦笑した。店変えよっか? 的な視線を和に投げかける。

「まあいいじゃないですか。せっかくだし、冒険するつもりで」

 

 中継の熱狂だけが薄暗い店に響いていた。実況が馬の名前らしき言葉をしきりに繰り返している。

 何かしらの馬が番狂わせを決めたらしい。それに苛立ったのか知らないが、店主がラジオを消した。


「カツサンド食べたいんだけどさぁ、これ結構デカいよね。あんま腹減ってないからさぁ、半分食べない?」

「いや、いいです。カツレツ食えないんですよ私。アレルギーで」

「嘘、豚肉アレルギーなの!? それともころも?」

「肉です。しかも豚肉どころか、とりぎゅうも……菜食主義ってわけでははないですが、体質的に」

「魚はどうなの? 刺身とかさ」

「幸いにもそれは大丈夫なんですよね。魚と大豆と卵。そういうのでタンパク質採らないと……」

「鯨は?」

「どうだろ。食べたことないんですよ。きっと駄目だろうな、哺乳類だし」

「もし肉食っちゃったらどうなるの?」

「そりゃもう全身湿疹まみれに。痛くて痒くて、思い出しただけでゾッと」

かつての気苦労を思い起こすと鳥肌が立つ。

 なんで私ばっかりこんな目に。幼少期の苦い記憶が呼び覚まされる。当時の憎しみは両親にさえ向いた。こんな身体に産みやがって。


「うわぁ大変そう……やっぱいろいろ苦労するよね」

「他人事みたいに言いやがって」

「だって他人事だもん」


 和はメニューをパラパラとめくる。

「ねぇ山県。カフェ・ロワイヤルだって」

「カフェ・ロワイヤル? って何?」

「この店はやけに薄暗い理由がわかりました。カフェ・ロワイヤルが売りなんですよ、この店は」

「だからカフェ・ロワイヤルって?」

「見れば分かります。それでいいでしょ?」


 和はすぐさま、なぜか興奮ぎみに、カフェ・ロワイヤルを二杯オーダーする。それにカツサンドも加えて。

山県は不服そうに溜息を吐く。

「もっと落ち着いたやつだと思ってたのに。以外とテンション高いんだね」




 

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