怪物姉弟(グエムルナンメ) 4
リアカーは信じられないくらい軽かった。庭を出て、真っ暗な通りを進む。アスファルトを金属の車輪が踏みつけていく。ガラガラガラ、耳障りな音が断続的に夜道に響いていく。目的地まで、姉が先導してくれた。姉のくわえたタバコの火が闇の中でかすかに揺れている。ジュングンはそれについていった。
「ショッポって初めて吸ったよ」
どう?
「私は、ラッキーストライクのがいいな。タールがきつすぎる」
あっという間に着いてしまった。
この前の嵐、ビートルズが日本に降り立ったその日にちょうど上陸した台風の残滓か、橋の下を流れる川の流れは激しかった。暗闇に目が慣れたのもあって、水の流れが目に見えた。
「氾濫してる」
ちょうどよかった。
「いーい? 本当に、後悔はしない?」
ああ。
「よし。さっさとやるよ! 夜が明けないうち、巡査が通りかからないうち」
ジュングンはリアカーに結ばれていた紐を解き、ガラクタの山を崩す。一番上に積んであった、衣服の束を両腕に抱える。荒れる川の音が聞こえる。鼓動の速度が上がる。
なぁ、姉──
「大丈夫! ぶん投げちゃないなよ!」
橋の上から、川に向かって、それを放り投げる。着水の音はしなかった。
それから、次から次へと、ジュングンは荷物を川へ投げ捨てていった。感傷的な気分にはならなかった。投げては掴み、投げては掴み、繰り返しの作業に汗ばみながら。
そして、今だ、と思う。
「姉貴!」
叫んだ。先読みされるよりも早く、ジュングンは発生した。
「僕の、僕の『言葉』を聞いてくれ! 何言うか分かってても、そのまま!」
品物を川へ投げ捨てつつ、考えうる限り最大の声量で、彼は声を張り上げる。
「本当に、本当にごめんな!」
これで最後。最後に残ったのは、最初に積んだもの。家族全員が映った、八ミリフィルムだ。
テヒは何も言葉を返さなかった。
「他には!? なにかない?」
「協力してくれてありがとう! 生まれて初めて、姉貴のことを尊敬した!」
「月並みかよ。もっと気の利いたこと言えないの?」
フィルムをフリスビーみたいに投げる。
虚空に飛んで消えてった。
思い出を捨て、街に出よう。
空っぽになったリアカーを引き、帰路につく。
その途中で、ふいにテヒはジュングンの方を振り向いた。
「足、疲れた。乗せてよ。乗るね」
彼女はリアカーに飛び乗った。ゆっくりと、揺らさないように、ジュングンはそのままリアカーを進める。
「泣いてるの」
「いや、そんなわけねぇよ」
「そっか。ならいいよ」
テヒは笑った。嫌味では、ない。
会話はなかった。リアカーの車輪が転がる音だけが、断続的に聞こえる。家が近づいてきた。
「最後にひとつだけ」
「何?」
「こういう超能力を持った人間は、私のほかにもたくさんいる。それはもう、信じられないくらいに」
「ほんとかよ」
ジュングンは失笑する。
「みんな言ってないだけ。お前の学校にだって、きっと何人かはいる」
「全員が全員、人の心を読めたら大変だろうな」
「いや、そういうわけじゃない。能力は一人一つ、人それぞれ。私はたまたま『記憶』の能力だっただけで、当然、人によって得意なことは違う」
「ふぅん」
「それでね、これは最近、私も人から教えてもらって初めて知ったんだけど……」
「ああ」
「能力の素質は遺伝する。超能力者の子どもは、必ず超能力者なんだよ」
リアカーを止める。振り向く。
カゴの中で、姉は微笑んだ。
「じゃあ、親父も……」
「あいつは違う! あいつはただのどこにでもいる掃いて捨てるような小汚い
「じゃあ、母さんが」
「そう! そうだったんだよ!」
「そうかー……。どうりで、な」
家にたどり着いた。テヒはリアカーから飛び降りる。ジュングンはもとあった場所へそれを戻した。ずっと持ち手を握っていた拳が熱い。
「超能力が遺伝するなら、僕にも、姉貴みたいな能力が備わってるってことだよな」
そんなものがあるなら、とっくに使ってる。
「さっき言ったっしょ。能力は人それぞれ。目覚めるタイミングも、その特性も」
「そっか」
「月経といっしょ」
「ははは……」
そろそろ夜が明けそうだった。
もう七月とはいえ、夜明け前の風は鉄のようだ。
鉄のように冷たく、硬い。
「じゃあ、そろそろ行くよ。姉貴も仕事、がんばって」
生まれてこの方、姉に純粋な
「お前もね。あ、そっちの世界で大物になって金持ちになったらさ、わかるよね?」
「何が欲しい?」
「ハッセルブラッド」
最高級品質のカメラだ。
「暗室もスタジオも、写真館ごとやるよ」
「
「うん」
日本語でも、朝鮮語でも、その言葉の発音は同じだ。
「私たちは特別な力を持った
魔女の子か。ジュングンは笑う。
「そういう言い方したら、本当に
「
別れの言葉もとくになかった。家の中に戻っていった姉を一瞥したのち、ジュングンは庭を後にした。
睡眠を取っていないのに、眠気などまるでなかった。とにかく、使命のように歩き続ける。後ろを振り返ってはいけない。
やがて、ジュングンは右手の甲になにかが張り付いているのに気づく。
五円玉ほどのサイズの磁石だった。ガラクタの山の中にあった、小学校に入るまえに作ったのであろう工作の一つ。木の棒にタコ糸を括りつけ、その先端に磁石を貼り付けた、安っぽい釣竿の玩具。それの部品だ。
なぜか手の甲にくっついていたそれを、左手の指で弾く。
あれ?
しかしそれは、手に強く接着されたまま、外れなかった。怪訝に思い、力を込めて引っ張ってみると、ようやく外れた。
なんだよ、もう。
足元に磁石を捨てようとする。
しかし、それは不可解なことに、鉄に吸い寄せられるように、手の甲に戻ってきてしまう。そしてそのまま、再びそこに張り付いた。
──始まった。
ジュングンは渇いた喉にさらに追い討ちをかけるように、ホープをくわえて火をつけた。
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