怪物姉弟(グエムルナンメ) 3

「いい加減にしてくれ!」

 ジュングンは初めて狼狽した。暗闇に目が慣れて、ぼんやりとテヒの姿を目視できるようになる。面と向き合って姉と対話したのはいつ以来だろう。「かれこれ二年ぶりくらいじゃない?」長年同じ家に住み、遺伝子を共通する存在が、いまや得体の知れない怪物グエムルにしか思えない。「化け物扱いすんな!」これは夢か、「現実だよ」あるいは、精神的に異常をきたしてしまった「正常だっつの。お前も、私も」自分が見ている幻覚なのだろうか。「現実だよ!」


 めまいがした。

やけになっていっぺんにタバコを一箱分吸ったあとのような、クラっとする鈍重なめまいが。考えるな、何も考えるな。

「お前のことはなんでも知れる。たとえば、クラスはB組で、担任の名前は後藤。親友が死んでから、それと同じ名前のタバコを吸ってる」

テヒの言葉に呼応するように、上着のポケットの中の、ホープの箱にそっと手を当てる。


「協力してあげる。ちょっと待ってな」

 彼女の足音が聞こえた。部屋から出て、父親の眠る居間へと進んでいるらしい。

 しばらくしてから、再びジュングンのもとへ戻ってきた。

「あいつを今日から二日間、目覚めないようにした」

テヒは父親のことをあいつと呼んでいた。それはさておき、、とは何なのか。声に出して尋ねるまでもなく、彼女は答えた。

「もう単なる以心伝心テレパシーじゃなくなった。他人の頭の中に入って、記憶を……ノートの文字を消したり書き加えたりするみたいに、自由自在に操れるんだ」

もう何も言うことはない。どうせ、疑問に思ったその時点で、姉はもうそれを把握しているのだ。

「それなら」

「もちろんできるよ。この『細工ドクター』の能力に限界はないんだ」

父親あいつの中から、重根ジュングンという人間が存在したことそのものを、消してあげることも、できる。


「ちなみにさっきはね、『七時になったら起床する』っていう身体に染み付いた記憶……つまり習慣だね、それを消して書き換えた。仮に今夜家が火事になったとしても、あいつは絶対に二日間寝たきりなんだ」


 でもね、とジュングンの思考を先読みしてテヒは語る。一人でトランプゲームをやってるみたいに、ずっと語り続ける。

「『細工ドクター』の能力にはね……あ、細工ドクターっていうのは私の仕事場での暗号名。べつにお医者さんじゃないけど……この力の名前みたいなものかな。ともかく、この能力には一つだけ弱点がある」


「お前に関する記憶がなくなったあと……たとえば押し入れの中にある、小学校の卒業写真やお前とあいつが一緒に映ってる八ミリなんかを、あいつがたまたま見つけたとしたら、どうなると思う?」

「それは……」

「そう。存在してないはずの息子がそこにいる。どうしようもない矛盾だ。それに気づかれた時点で、『細工』は台無しになる。書き換えた記憶は、全部元に戻る」

「じゃ、」

「大丈夫。本気でそうしたいって言うんなら、私も協力してあげる。もともとお前は写真に映るのなんて好きじゃなかったから、数もたかが知れてるしね」

「わか」

「じゃ、手伝って。今からやろう」

記憶だけじゃなく、ここに存在していたという唯物的な痕跡を、消す必要がある。


 気を失ってぶっ倒れそうだった。

ついに気が狂ってしまったのか、ジュングンは自分に言い聞かせてみる。分かんないや。

 手探りで取っ手を探り、押し入れを開けた。その中から埃を被っていた段ボールを引き寄せる。

「電気つけちゃっても大丈夫。言ったでしょ、あいつは絶対に起きない」

 言われた通りにした。

雨戸を開け放っても、父親はイビキをかいたままだ。身体をピクリとも動かさない。段ボールの中から、朝鮮学校時代の卒業アルバムを取り出した。その他に、クレヨンで描かれた汚い絵とか、ハングルの短い作文とか、マラソン大会の賞状とか、とにかく自分に関係する物をすべてまとめて、真っ暗な庭に運んでいった。思っていたよりずっと少ない。段ボール箱一箱に収まる思い出。それもそのはずだった。ジュングンがそういったものを律儀に家に持ち帰り、親に見せていたのは十歳になるまでのことだった。それ以降のものはみんな、学校から家に帰るまでの道の間で捨ててしまっていた。

「お前の歯ブラシとか、服とか、本とかも全部ね。あと、外の物置に写真とか八ミリがあるよ」

錆び付いた物置を開ける。その中で、側面に『중근ジュングン』と記された八ミリフィルムの束を見つけた。それを回収し、庭の地面に投げる。

「お前のフィルムだけじゃない。全部処分しなきゃ」

「え?」

背後からテヒは呟く。

「私のフィルムにも、旅行の記録とかにも、少なからずお前は映ってるわけだから。アルバムも全部。そんなもの最初からなかったことにしなきゃ」

 そうか。

完全に自分が存在していた痕跡を消すとは、そういうことだ。至る所に、それは残っているのだ。


「後ろめたい?」

もちろん。

親父のことはどうでもいい。それでも、姉貴や母さんの思い出まで、僕の身勝手で消去するなんて、あんまりじゃないか。

「気にすんなよ。細工ドクターは記憶を操る能力。私は一度覚えたことを、絶対に『忘れなくする』ことだってできるんだ。写真や映像がなくったって、一つ残らず私が覚えてるよ」


 やがて、大掃除の後みたいに、庭にどっさりとガラクタの山ができた。今まで使っていた日用品、衣類、あらゆる思い出の記憶媒体。ベンチャーズと笠置シヅ子とチャーリー・パーカーのレコードと、再生機。茶色く汚れたバレーボール。ほつれた学ラン。かつて自分と母親を繋げていたへその緒が入った小さな木箱。

 数日前の嵐で濡れたままのリアカー、その上に乗っていた物干し竿をどかし、ガラクタを乗せていく。姉も手伝ってくれた。

「こんなもんか。往復しないで済むね。何か、とっておきたいものはある?」

首を振る必要はない。

「行こっか。足元に気をつけて……」

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