1966年 7月1日

怪物姉弟(グエムルナンメ) 2

 午前三時、ジュングンは布団を剥ぎ、音を立てないように起き上がる。

 彼は眠りについてなどいなかった。

 隣の部屋で寝ている姉を起こさないように、そっと廊下を歩む。居間を覗くと、父親の小汚いイビキが断続的に聞こえてくる。

 ジュングンはゆっくりと、そのまま玄関まで進む。下駄箱から自分の靴を手探りで見つけ、音を立てないように気を配りつつ両足に穿く。あとは引き戸。これを開けて外へ出れば、もう二度とここへは戻れない。


 彼は決断していた。

一度拳銃を使ってしまったからには──結果はどうであれ、犯罪者になってしまったのだ──もうこの家にいることはできない。ヤクザになろうと思った。知恵も良心もない己にとって、なれるものはそれくらいだ。父のようにパチンコ屋を経営したり、姉のように夜通し遊び回ったり。

 そんな器用な生き方は、僕にはできない。国籍も故郷も自我もない自分は、血と暴力の国でしか生きられない。革命なんてできない。チンピラになってゴロツキに殴られたい。アスファルトで脳天をかち割られたい。早く死んで、ホープに謝りたい。


 扉の取っ手に手をかけた。錆び付いた金具のせいで、素直に開いてはくれない。数センチの隙間が開いただけで、扉のスライドは止まった。腕に力を込め、足でその隙間をこじ開けるようにして、再び戸を引く。ガタン、と鈍い音が夜中の静寂に響いた。

 ジュングンは即座に振り返り、しばらく背後を睨む。父や姉の反応はない。彼は軽く息を吐き、再び強く扉を引こうとする。

 それでも駄目だった。こんなときに限って、扉が開かない。昨日まではこんなことはなかった。もとよりいつガタが来てもおかしくない、古ぼけた家屋だった。そのタイミングがたまたま今だっただけだ。

 とくに苛立ちはしなかった。ジュングンは落ち着いて、力加減を調節しながら扉を開けようと試み続ける。ガタン、と鳴らしてしまうたびに、後ろを伺う。彼は落ち着いていた。ただ、涙が出るほど惨めになっているだけだ。

 一度閉め、ゆっくりと開く。それでも結果は同じだった。開くのはせいぜいつま先の直径くらいで、そこからはなにかにつっかえたようにびくともしない。

 そこでジュングンは踏ん切りをつけた。自分の体温の残る布団が敷かれたままの部屋まで舞い戻る。計画を練り直すことにしよう、このまま続けていてもどうせ失敗する。


 いかに物音を立てずに、痕跡を残さずに、空き巣みたいにこの家わがやから脱出するか。ジュングンは数秒だけ考え、結論に至る。

 台所の勝手口から出る。それに決めた。

台所へは、父の眠る居間を経由する必要が、父の背中を跨ぐ必要がある。だから何だと思えるかもしれないが、当然部屋に明かりはないし、今日は雨戸も閉め切っている。完全に視界が閉ざされた中でそれを実行しなければならないのだ。されど、酔いの回った父はそう簡単には起きない(少なくとも、ちょっと足が当たったくらいでは)。成功する確率はどちらかといえば高い。


「なぁ、ジュングン」


 居間の方へ歩み出した瞬間に、声が聞こえた。間延びした低い声。姉だ。イム泰希テヒ。廊下をうろうろしているうちに、起こしてしまったのか。

 それでも想定内だった。彼は用意していた言い訳を即座に口にする。見つかってしまったら、決行を明日にすればいいだけだ。

「悪ぃ。起こしちゃった? 喉、渇いてさ」

姉は昔から物音に敏感なほうだった。今までも、何度か夜中に動いて起こしてしまったことがある。考えうる限り最大のさりげなさを、彼は演出する。


 当然部屋は真っ暗で、テヒがどこから話しているのか、ジュングンには分からない。


「私、お前の考えてること全部分かる」

彼女の言葉が誇張ではないことをジュングンは理解している。


 そうだ。

姉貴は、人の心を読める。

だから、誰にも気づかれず、蒸発するみたいに、ここから消える必要があった。


 心理学的なテクニックか、コミュニケーション・スキルの一種か、テヒはそういった類の読心術めいた『手品』が得意だった。

 二人の姉弟ナンメがまだ幼かった──ジュングンが、ようやく流暢な会話をできるようになったころ。姉弟でよくやっていたのが『数字当てゲーム』。まず、ジュングンが頭の中で適当に数字を思い浮かべる。そして、テヒがそれを見事的中させてみせる。

 それだけの、他愛もない子供同士の戯れ合いに過ぎないのだが、明らかに常軌を逸していたのはその的中率。百発百中、ノーヒント。

 なんの法則性もなしに、何桁の数字だろうが、彼女はそれを当ててみせた。気を使ってわざとらしく驚いてみせたわけでは断じてない。その精度は、紛れもなく本物だった。

 どうやってやったんだ、と何回尋ねても、彼女はまともに取り合ってくれはしなかった。

「以心伝心、ってあるでしょ」

「ああ」

「そう以心伝心。それで分かるの」

 素直に感服したジュングンは、親父にもやってみろよと興奮気味に促した。しかし、テヒはこの力は子どもにしか使えないの、と首を振ってうそぶくばかりだった。


 五年前の思い出。

ジュングンが十歳で、テヒは十三歳。

二人ともまだ無垢で純粋で、将軍さまキム・イルソンに忠誠を誓っていたころ。彼女の以心伝心は、より高度になっていった。


──お前の目を見るだけで、頭にね、『文字』が浮かんでくるんだよ。それで考えてることが分かる。


──じゃあ、今僕が何考えてるか、当ててみろよ。


──それは駄目。そういうのは『文字』にできないから……。そうだ、動物! なんでもいいから、好きな動物を一匹、思い浮かべてみて!


──動物か……


──これは、ライオン……? いや、違う。……動物じゃない。動物って言ったじゃん。花……あ、タンポポ。なんでタンポポなの?


──……


 そのときジュングンは、彼女の『手品』の底を暴いてやろうと、をかけたのだ。そして、そのことすらも姉は見通した。この読心術は紛れもなく本物だ! 十歳の彼は、興奮とともに少しゾッとした。


「昔のこと思い出してた?」

 ジュングンには見えなかったが、テヒが立ち上がったことは感覚で分かった。この『以心伝心』については、彼女が高校生になることにはパタリと口にしなくなった。第一、姉弟で会話すること自体めっきり減ったし、その歳までいささか子どもじみた『手品』に熱中するような育ち方はお互いしなかった。


「寝ボケてないから」

ジュングンは息を呑んだ。寝ぼけてんのか、姉貴? そう言葉を発しようと、口を開こうとした寸前だった。


「そう。紛れもなく、これは本物の超能力。読心術とか、勘とかじゃない」

「スポーツや勉強と同じ。超能力は成長する。使えば使うほど、知れば知るほど」

「お前の考えてることは全部分かってた。三日ぐらい前から、ちょっと変だった」

「もちろん、お前がやったことも。全部お見通し」

「心配しないで。私はお前の味方だから」


 まるで超能力みてぇだな?

 読み取れるのは単語だけじゃないのか? 

 僕の心を読んでいたのか? 

 どれくらい僕の本心を知ってるんだ? 

 僕をどうするつもりなんだ?


 脳裏に浮かんだすべての問いに先回りされた。

「やめてくれ」

ジュングンは顔をしかめる。

「やめてくれ」

彼の発声に被せるように、テヒは言う。


「普段、高校にも行かないで遊び呆けてるように見えたでしょ。遊んでたんじゃないよ。この能力を使って、『仕事』をしてたんだ。猿田さるた鳥枝とりえって名前を使って」

じゃあ、今までは……


「それは秘密だよ。口外したら、冗談抜きで私はともかくお前や親父……まぁあいつは死んでもいいけどさ、の命が危ない。これホント。馬鹿みたいだけど。知ってた? 超能力者って、本当はたくさんいんの」

仕事って、一体……


「行きなよ、ジュングン。止めはしないよ。お前ならきっと、いいヤクザになれる。ホープも褒めてくれる。差別も暴力も、全部ぶっ壊せる」

僕をどうするつもりなんだ。


「まさか。建前なんていらないんだよ」

俺はそんなこと思ってない。馬鹿にしてんのかよ。

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