NEW WORLD 3
「いいよ、出原くん。入れてあげよう」
シュリは遊剛の腰を指でつつき、細々と呟く。ぞっとした目つきだった。遊剛はしばらく思案したのち、それに肯定した。さもすればこの男は、応じてくれるまで一日中延々とここに居座り続けるのではないか。彼らはそんな悪寒を感じ取った。仕事熱心とか生真面目とか、この男の行動はそういった範疇をゆうに越えている。強迫観念に駆られているようにも見えた。
シュリはドアを開けた。どうぞ、と小さな声で男を促す。彼はぺこぺこと、心底申し訳なさそうに会釈を続けながら玄関をまたいだ。
その後、キャリーバッグのジッパーを開け、中から、布に包まれたプラスチック製の部品のようなものを取り出した。風呂場にあるシャワーのヘッド部分を連想させる形をしていた。
「……上がっても?」
こくりとシュリは頷く。彼は持参してきた白いスリッパを履いて室内へ入った。遊剛はそれを呆然と見つめる。その小さな『部品』が、どうしても売りつけなければならない品物なのか。用途は分からないが、どうにも高額な商品には思えなかった。
「お姉さん、水道の水ってさぁ、あんまり美味しくないと思いませんか?」
突然男は語り出す。それは芝居じみていて、事前に練習をしていることが伺えた。
「そんなことないですよ。おいしいです」
シュリはつっけんどんに答える。それを聞いて、遊剛は軽く咳払いをかました。絶対嘘だ。飲めなくはないけどおいしくはないよな。
さぁどう答える。遊剛はセールスマンの返す言葉に期待する。
「いーや、それは違うね! あなたが本気でそう思ってるなら、あなたが本当の『水の味』を知らないか、僕をからかってやろうと思ってわざと逆のことを言っているか。そのどっちかです」
「そんなことないですよ」
セールスの彼は用意していた台詞を陽気に発するのだが、シュリは口角を上げることすらしなかった。終始無表情だ。ちょっとは反応してやればいいのにと遊剛は思う。
男はキッチンへつかつかと向かった。ステンレスの蛇口を捻る。水が放出される。
「申し訳ありませんが、コップ、お借りしてもよろしいでしょうか?」
シュリは頷き、戸棚からマグカップを取り出して男へ渡した。シロクマやらペンギンやらセイウチやらイッカクやら、海獣のイラストが水彩画のタッチで描かれた、カワイイけどずいぶん季節外れのデザインだ。実は遊剛はそれと全く同じものを持っていて、なおかつ愛用しているのだが、今はそんなことはあまりにもどうでもいいし、その情報はなんの意味もなさない。口にしたりすることはない。ほんの少し、あっ、と思っただけだ。
「ありがとうございます」
彼はぺこりと頭を下げてそれ受け取る。過剰なほど丁寧な振る舞いで、腰が低い。セールスマンとしての所以だと遊剛は思う。
そして、彼はなにかしら心理的なテクニックを使うことができる。現に彼は今それを駆使して、彼女を唆そうとしている。部屋に入れてからというものの、実はシュリは男の指示に無意識のうちに従っているのだ。
下手に出ているようにみえて、実はこの場のイニシアチブをがっちりと握っている。あわやシュリはこの商品を買ってしまうぞ。好奇心とかすかな不安感、ヘビの補食を観察するかのような心持ちで遊剛はこの顛末を見届けることにした。あわよくば、シュリの内心を暴くきっかけが掴めるかもしれない。
男はマグカップに蛇口の水を注いだ。
「これが普通の水じゃないですか」
手首をクイっと返すジェスチャーで、それを飲むように促す。シュリは彼の指し示す通りにした。
「どうですか」
「うん。まぁ、普通です」
そりゃそうだろうな。
直後、遊剛は彼が蛇口の先端に何かを取り付けはじめたのを見た。先ほどバッグの中から取り出した、シャワーヘッドのような部品だ。それは蛇口にちょうどはまるような形状をしているらしく、彼は慣れた手つきでそれを装着した。その状態で蛇口を捻る。そこから流れてきた水を、再びコップへ注いだ。どうやら、蛇口に装着するタイプの浄水器であるようだ。
「次はこっちを」
言われるがまま、シュリは二杯目の水を飲む。
「どうですか? まったく違うでしょ、味が。何でか分かります? このキャップ……『イオンスターター』って言うんですけど、これがスゴいんですよ」
彼女は小首を傾げた。一杯目と二杯目に、風味の違いなどあったか? いや、あったかもしれない。かすかに後者のほうが、口当たりが良かったような……
「あのね、フツーの水道水っていうのは、実は塩素とか薬品まみれで飲めたものじゃないんです。お姉さん、こどもの頃金魚飼ったことありません? 縁日で掬ってさぁ。あれ、すぐ死んじゃったでしょ? それはねぇ、水道水に入れて飼ってたからなんですよね。生き物にとって毒だよ、毒。こんな水。こんなの日常的に飲んでたらね、頭おかしくなっちゃう」
「それは大変ですね」
「そう。もはや、テロですよテロ。国民にこんな水を飲ませ続けるのはね。……あとね、それだけじゃないんです。東京の下水道は、今スゴいことになってるんですよ。そこらじゅう穴だらけで、ネズミとかゴキブリの巣窟になってるし、ぜんぜん機能してないんです。これはつい先月の出来事なんですけど、渋谷のある一軒家でお皿を洗おうと思って蛇口を捻ったら、ドバドバ茶色い水が出てきたってことがあって。下水管がちゃんとしてないから、汚物とかが混じっちゃってるんです」
「それは危険ですね」
「そう。感染症とか寄生虫とか水銀とか、もうとんでもない。……でもね、この『イオンスターター』ね。これを蛇口にはめると、どんな水でも安全に濾過できちゃうの。有害な薬品とか細菌とかを、このフィルターの部分でカットして、百パーセントまっさらで清潔な水を飲むことができるんです。あと、それに加えてですね、さっき飲んだとき、美味しいって思ったでしょ? ただ水を清潔にするだけじゃなくて、このフィルターを通すと『マイナスイオン』っていうのを水に含ませられるんです。それで、水が何十倍にも美味しく感じられる。そういう成分が入ってるんですよ」
セールスマンはざっと言ってのけた。
遊剛はそれで確信した。彼の姿を始めに見たときから察していたが、やはり彼は健全でない商売の片棒を担がされているのだ。粗悪な商品を、消費者の無知あるいは良心につけ込み無理矢理売りつける。もちろん仕事だから仕方なくやっているだけであって、悪意があるわけではないだろうが、偽りは偽りである。おそらく彼女も、そのことに気づいたはずだ。
言葉をまくし立てることによって相手を圧倒し、何がなんだか分からないまま強引に同意させてしまうテクニックであろうが、彼女に通用しないだろう。何せ、日本最高峰の学び舎に身を置いているのだから……彼はきっと、彼女が東大生であるということなど知らないのだろう。
遊剛はシュリを一瞥した。きっと彼女は男の語った文句の非科学性を指摘し、突っぱねるだろう。そして一つ一つ脆弱性を論破していくのだ。それは爽快だろうな、かすかに期待する。
「うーん。いくらなんですか」
えーっ。おいおい。
そもそも金魚が水道水のカルキのせいで早死にするのはエラ呼吸だからだ。エラから体内に取り込んだ塩素が、身体の細胞を壊してしまうのだ。無論人間にとってはなんともない。そんなこと高校行ってない俺にでも分かる。
「えーっとですねぇ。現在は新規会員登録キャンペーンってのやっててですね。割引がきいて二千円ですね」
「へぇ。思ったより安いですね」
「嘘! 買うの?」
ふと、遊剛は声をあげてしまう。彼女に抱いていた、インテリジェンス的なイメージが揺らぐところなんて見たくなかった。
「あと、維持費もかかってしまうんですが……それはその都度、都合のついた時にまたお話しますね。今お支払い頂ければ取り付け費も
「うーん。でもいいや。やっぱりいらないです」
「えっ」
「実は、もうすぐ引っ越すんです。……ごめんなさい、なかなか言い出せなくて」
シュリはペコりと頭を下げる。セールスの男は自嘲気味に失笑した。
「ああ、そうですか。じゃああれだ。とりあえず、キャップだけでも買っておきませんか。あとでお電話頂ければ、どこでも取り付けに伺えますので」
「いや、いいんですいいんです。申し訳ないです、断るタイミングが掴めなくて……」
「あー、あの」
男は言葉に詰まってしまった。そういえばそうだな。彼女は逃走のためにこの部屋に潜伏していたのだから。想定外の展開に、男は押し黙ってしまう。べつに彼に感情移入しているわけではないのだが、なんとなく気の毒に思ってしまう。遊剛は笑えなかった。もし金銭に余裕があれば、自分が購入してやりたいところだ。
「え、嘘だろ?」
ふと、ぼそっ、と男は呟いた。腕に巻いた時計をじっと見ているようだ。
「あと五分しかないじゃねぇか! いつの間に! ……ああ、なんで、なんでだよ」
ぶつぶつと、それも遊剛たちに聞こえるような声量で続ける。呼吸が早くなっているのが見て取れた。ひどく動揺しているようだ。
「どうしたんですか」
シュリは彼を案じた。男はあからさまに冷や汗をかきはじめた。どうしたんだろう。様子が明らかにおかしい。
「ねぇ。たった二千円なんですよ? 買ってくださいよ。頼みますから。ねぇ!」
「えっ」
セールスマンの態度が途端に一変した。シュリににじり寄り、彼女は後ろへ下がる。
「ちょっと、あんた」
遊剛はすかさず止めに入ろうとする。が、男は彼を容赦なく肘で突き飛ばした。手が喪失しているほうの肩を突かれ、よろけてしまう。
「いや、すみません、今回は遠慮……」
「いいでしょ二千円ぽっち。そんくらいポンと出せますよね? たった二千円で美味い水が飲めるんですよ。いい買い物だろうが!」
ついに男はシュリの手首を掴んだ。彼女は短く悲鳴を上げる。その手を振りほどこうと、腕を振るう。
「いい加減にしろって」
遊剛は後ろから男の背広を掴んで引っ張った。シュリから引き剥がし、片腕で男の首を挟み込んで拘束する。彼はしばらくじたばたともがくも、遊剛の腕は彼の身体をがっちりとホールドし、ふりほどくことを拒む。
男は抵抗を止め、やがてすすり泣いた。
「ああっ……! 頼むよ。お願いします。……買ってください……ここで買ってもらわないと、ノルマが。どうしても……」
追い泣きじゃくる男に、遊剛は鼻白んだ。これじゃまるで、俺が借金の滞納者から金品を無理矢理取り上げるヤクザみたいじゃないか。
「つーかこれ詐欺だろ。この商品だってどうせインチキだろ。……それならあんた、獲物を間違えたよ。彼女はなんと、東大医学部生なんだよ。まぁ、誰かに押し付けられてやってる仕事なんだろうけど」
遊剛は彼の耳で囁くように言った。しかし、その言葉は全く届いていないようだった。ついに、男は幼児のように激しく泣き出した。
「時間が! 時間がぁぁ! 頼む! 本当に、何でもするから……」
「時間がなんだっていうんだ。泣いたりするなよ、たかが仕事じゃないか」
シュリは怯えたように、一歩下がりつつ彼らを見ていた。
ああ。
「やっと……助かると思ったのに。あと一人! たったあと一人で……俺は……自由に……なれたのに」
男の腕時計の長針が、ちょうど12の目盛りを指した。
直後。
まるで地雷を踏んだかのように、彼の身体が弾け飛んだ。音を立てて血液が周囲に飛び散る。顔が、手足が、部屋中に分散していった。
白昼夢的な光景だった。遊剛は身体全体に熱を感じた。何か縄状のものが顔面にべしゃりと貼り付いてきた。男の腸だった。
なんの前触れもなく、セールスマンの男がここで爆発した。事実。
おかしいのは誰?
シュリ? この男? それとも、俺自身?
帰り道なんてないよ。
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