NEW WORLD 2
遊剛は思い出す。
煙草と揚げ物の匂い。暖房代わりの人いきれ。座り心地の悪い硬い椅子に座って、スクリーンをじっと見つめる。とにかく薄汚い映画館だったということは覚えているが、それがどこのなんという劇場だったか、そこまでは思い出せない。なんで思い出せないんだろう。
忘れちゃっていいものじゃないのに。
それでも、当時感じたじれったい喉の渇きなどは鮮明に記憶している。遊剛は映画について想像すると、必ず喉の渇きを連想する。それはいつも、鑑賞中無計画にドリンクを早めに飲み終わってしまうからだ。
「ポップコーンばっか余るから、いっつも喉乾くわけ」
隣の彼女に向けて、自虐的に笑う。
「計画性がねーんだよな。俺ってさぁ、きっといつか、重大な選択ミスを犯すんだろうな。詐欺とかに遭いそうだよね」
彼女は小さく微笑むも、言葉を返したりはしない。
ちょうど彼らの目の前のスクリーンにも、策に嵌められて命を失った男女が映っていた。『俺たちに明日はない』のラストシーン。鳥が飛び立つ。茂みから銃口が覗く。ボニーとクライドは嵐のように銃弾を浴びる。何十発も、ただただひたすらに。撃たれるたびに二人は踊ってるみたいに身体を揺さぶる。
二人の英雄的な銀行強盗は絶命し、銃弾の雨は止んだ。そのまま映画は終わる。黒い背景に浮かぶ『THE END』の文字を見て、あの時の自分は何を思ったのか。
「これで終わり?」
空になったビールのカップを指で弄りつつ、呟く。こんな映画ってありなのか? 何一つ報われないじゃないか。お前もそう思うだろ? 彼女へ向き直る。普段から、彼女は過剰なほど寡黙だった。そのことを遊剛は知っていたし、受け入れていた。
「もう一回見たいな」
消え入りそうな声で、彼女はぼそっと言った。
「マジで?」
小さく彼女は頷く。しかし、遊剛はあくまで形式的に驚くような素振りをみせただけだ。彼女がどういう発言をしても、それに従っただろう。
すべては彼女の思うがまま……
「じゃあ、なんか買ってくるよ。ビール飲む? ハナゾノはなにか、飲みたいものある?」
シュリはあたかも暗記のために参考書を読み上げるみたいに、淡々と述べるのだった。遊剛は焦燥よりも納得を感じた。そういうことだったのね。
彼女は、事件の決定的証拠の置かれた部屋へ誰か、カモを誘導することを目的としていたのだ。手負いの俺は、それに最適だったというわけ。そうだ、と思い出す。俺はさっき、確かにあの紙幣に触ってしまった。確実に指紋は付着したはずだ。
「私の『役割』は、このお金を全部処分すること」
彼女の言葉を反芻する。
鼓動が加速する。彼女は
この時すでに遊剛は、彼女が三億円事件の犯人であると完全に信じ込んでいた。そう考えたほうが辻褄が合うような気がした。
しかし、だからといって逃げ出そうとか、反抗しようとか、そういう気にはならなかった。いまいち本気になれない。
「ごめん……ごめんね。君が、君がちょうどよかったんだ」
シュリは一片の迷いもなさげに、きっぱりと言う。
「あの」
遊剛の声は軽快な音に掻き消された。ドアチャイムの音。誰ががチャイムを鳴らしたのだ。
シュリはそれにはいっさい気を留めていない。
「あの紙幣に俺の指紋をつけて、君はこの部屋から逃げ出すわけなの? で、警察がここを調べたとき、俺の指紋がついた五百円札が見つかって……三億円事件そのものの犯人を俺に仕立て上げるっていう寸法か。なら、それは爪が甘いんじゃないか」
再びチャイムが鳴った。
「呼び鈴鳴ってるよ」
「どうせセールスか何かだよ」
それにしては執拗だ。そう思うつかの間、また鳴る。今度は連続していた。チャイムの鈴音が続く。どうしても反応してほしいのか。居留守であることを知っているのか、ドンドンと激しくドアをノックし始めた。
「……君の仲間?」
シュリは目をしばたたかせて、うつむく。
「違う……」
鳴り続けるチャイムとノックが思考を妨害する。
「私にもわからない。本当だよ。……出てみる」
シュリは溜息を吐いたのち、玄関へ向かった。いったいどうして、陥れた側の彼女が涙目になり、手を震わせているのか。
遊剛は無言で彼女の背中を見つめる。まるで、何かに強いられているかのような、そんな風に思えた。
シュリは恐る恐るドアを開けた。
カギを開けた音を聞くや否や、チャイムを鳴らしていた人物は食いつくように部屋の中を覗き込む。スーツ姿で、エルメスのビジネスバッグを抱えている。
見るからにセールスマンといった風貌だとシュリは思う。ビジネスバッグの他に、キャスターのついたキャリーバッグも持っているようだった。
「結構ですので」
言い放ち、彼を追い返そうとした。瞬時、セールスマンはズイと顔を近づけてその場に留まろうとする。
「お話だけでも」
「いや、ごめんなさい。お金もないんで」
たかが学生相手にそこまで食い下がることもなかろうと、シュリはペコリと頭を下げ、扉を閉めかけた。それでも彼は、扉に手をかけたまま動かない。なんとしてでも商品を売らねばならないという執念なのか。
遊剛はその様子を目を細めて眺めた。ここまで仕事熱心なセールスというのも珍しいな。真面目すぎるがゆえに空回りしてしまう。その気持ち分かるよ、と勝手に同情する。
「いいんだよ相手にしなくて。閉めちゃえよ」
遊剛は言った。案外彼女は、面と向かってNOを突きつけられない質であるのかもしれない。セールスマンに詰め寄られて、ハッキリと断りかねているらしい。
「でも……」
遊剛は玄関側へ向かった。男と目が合う。彼は遊剛を一瞥したとき、嘲るように唇をかすかに震わせた。
「あの、すいません。帰ってもらえます?」
彼は蝿を追っ払うようなジェスチャーを伴って言う。
「いや、あのですね、お時間は取らせませんので……」
遊剛は男の目つきに深刻な、鬼気迫るものを感じた。もしかすると、セールスというより宗教か何かの勧誘であるのかもしれない。
「しつこいな。彼女、迷惑してますよ」
「申し訳ありません。でも……」
「でもじゃなくてさぁ。仕事なのは分かるけど、加減ってものがあるじゃないですか。さもないと警察行きますよ」
あくまで警告のために発した警察という言葉に反応し、びくっと肩を震わせたのは隣にいたシュリだった。ああそうか、と遊剛はふと察する。三億円犯人なら、警察なんか呼べねぇよな。
セールスマンが一瞬言葉を詰まらせた隙に、遊剛は勢いよく扉を閉めてしまった。
が、扉は完全には閉まらなかった。なにかがつっかえている。彼は眉をひそめた。
そこにあったのは革靴の爪先だった。セールスマンの男は足をとっさに挟みこんでドアを閉めるのを防いだのだ。遊剛は生唾を飲み込んだ。
「本当に。お時間は取らせません……!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます