1966年 6月 16日

エスパー VS ジョン・レノン 1

 ステーキが鉄板の上で焼ける香ばしい匂いから、金城かねしろ なごは昔読んだ国木田独歩の小説のことを連想した。

 飲み屋に集まった男たちがなにやら議論する。そのうちの一人は、ビフテキのプレートを持ち出して牛肉ステーキを現実、そしてつけ合わせの馬鈴薯ポテトを理想と喩える。重んじるべきはどちらか。論争の話だ。


 和は理想ポテトをフォークで突き刺し、デミグラスソースを纏わせてから噛む。皿の上のつけ合わせはもう何もなくなってしまった。彼女は悩む。ステーキにはいまだ、ナイフを立てた跡すらない。

「食っていないじゃないか」

 二人がけの白いテーブルに対面する男は、苛立ちを内包した目つきで和にフォークを向けた。彼の前にあるプレートにはもう料理はなく、手持ち無沙汰になった彼は皿に盛られたライスに備え付けの塩を振っている。

「私、駄目なんですよ、肉類が。後藤さん」

 席に着くや否や、この男はメニューを見る間もなく『この店で最も高額な料理』を注文してしまった。

菜食主義者ベジタリアンなのか」

 フォークの背にライスを乗せて口に運んだ後藤の口調には、侮蔑のニュアンスが内包されている。和は小さく肩をすぼめ、苦笑した。

「主義じゃないけど」

 じゃあなぜ食事に手をつけないのだ、と彼は問うてこなかった。しばらくの沈黙の後、和は小さくつぶやく。

「肉アレルギーなんです」

 肉アレルギー? 後藤は復唱した。あたかも珍妙な病名を耳にしたかのような、訝げな口調である。

「そういうの、あるんだな」

 後藤はあくまで理解をしただけだ。共感や哀れみの感情はない。

「口にしたら最後、もう全身ブツブツですよ」

「それは大変そうだな」

「食べますか? 私の分」

「いらない。悪く思わないから食べないのなら残したまえ」

 あなたではなく、この料理を作ってくれたレストランの方々に悪く思っているのだが……捨て身でステーキを食べる気力にもならない。

 初めて後藤は和に笑みを見せた。

「肉を食えないなんて信じがたいな」

 種類に問わず、牛豚鶏全ての食肉に拒否反応が出てしまう。先天的なものだった。

ちなみに、ふだん動物性タンパク質は鶏卵で摂取している。

「私だって信じたくないです」

「まるで草食獣」

 和は溜息を抑える。こういうやりとりにはゲップが出る。お前にとっては珍しく思えるだろうが、こっちはこれまで何度同じ反応をされたと思ってる。

「草なんて食いませんよ……魚は食べられるし」

「なぁ、金城よ。今はジャングルの時代だ」

 唐突に身を乗り出して後藤は言う。ジャングル? バットにかすっただけの力ないゴロのような、(芯を食っていない)比喩に彼女は鼻白んだ。

「弱肉強食。東京に弱者の逃げ場はない。草食動物は喰われるしかないんだ」

「草食獣が必ずしも逃げ回るだけとは限りませんよ。ゾウとか強いでしょ」

「ほー。ゾウか」

 和は特に意味も込めず、突発的に反論したに過ぎなかった。それでも後藤は感心したように、顎に手を当てて頷いた。ゾウねぇ……

「ゾウはいい。利巧だからな。お前、トンキー知ってるか」

「小学校で見ましたね、紙芝居」

 戦時猛獣処分の話だ。本土空襲に備え、上野動物園の飼育員たちは動物の殺処分を命じられる。インドゾウのトンキーはその分厚い皮膚が注射針を通さず、餌の馬鈴薯ジャガイモに毒を投与する手段を取った。しかしトンキーは毒物を感知し、食べようとしない。やがては餓死してしまうのだ。

「おそらく、大抵の国民が最初に触れる戦争文学がそれでしょうね」

 コップの水で唇を濡らしつつ、和はかつての記憶を回想する。大抵の子供がそうであるように、幼少期の和は今より感受性が豊かだった。心の底からそのゾウを憐れんだのだろう。いや、そもそも、真面目に紙芝居に感情移入するほど立派な児童ではなかったか。

「終戦後、上野動物園で生き残った動物はキリンだけだったそうだ」

「へー」

 後藤が付け加え、和は本心から相槌を打った。彼の本業は教師であるから、そういう知識の収集には余念がないのだろう。

「お前はガキの頃初めてその話を聞いた時、どう思った? 俺は泣いたよ。国を憎み、戦争を憎んだ」

「ほんとに?」

 ジャケットの肩付近にあからさまに旭日旗をあしらったワッペンを縫い付けていることからわかるように、彼は右翼団体の構成員だと名乗っていたのだ。少なくとも、反戦を謳うような柄じゃない。

「金城よ。私はこの世から戦争という概念を無くさねばならないと思っている。そのためには、大日本帝国が世界を掌握するのは必要悪なのだ」

 あくまで真剣な目つきとなった後藤に、和は沈黙する。

 出たよ。こういうの。私は彼の仲間じゃありませんよ、と周囲にメッセージを送りたくなる。


「そこで、だ」

 やっと本題に入った。すっかりステーキは冷めてしまった。和は苦笑する。

ウェイターのアルバイトの少年がやってきて、テーブルにある空き皿を片付け始める。一切手を付けていないステーキのプレートへ怪訝に目をくれたのち、空き皿の上に乗せた。さすがに申し訳なく、和は赤面した。

「あ、待った。アメリカンを二つね」

 厚かましくも後藤はウェイターを呼び止め、ピースサインを突きつけた。少年はかしこまりましたと告げたのち、踵を返して去っていく。


「今月末のザ・ビートルズの来日に多くの右翼が反発しているのは知っているな?」

 和は頷く。後藤はよほどそれが忌々しいのだろう、メンコのようにパシンとそれをテーブルの上に置いた。三十日の武道館公演のチケットである。

 ここで先ほどのウェイターがカップを持ってやってきた。声には出さないが、置かれたそのチケットにぎょっとして目を丸めたのが露骨に分かり、和は少しだけ微笑ましく思った。

「我々『鉄風テップウ』はただの右翼にあらず。そうだな、スーパー右翼とでも言ってもらおうか」

 和はコーヒーをむせ返しそうになった。

「スーパーって英語ですよね」

 大日本帝国的にいえば敵国語。

「そういうくだらない感情論を撤廃し、愛国のために最善とさせる行動のみを遂行する。そういう姿勢が既存の右翼とは異なり、超越的スーパーなんだ。三島由紀夫とかはな、思考に柔軟性がないからダメだ。あんな奴は小説だけ書いてればいいんだ」

「……なるほど」

 さっぱり訳が分からないが、頷いておく。アメリカンコーヒーを啜る。薄い。

「『日本武道館をイギリスのチンドン屋ごときに使わせるなどという、風紀を乱す行為は許さん』……これはノーマル右翼の考えだな。しかし我々スーパー右翼は違う。お前に組織の計画を漏らすわけにはいかないが、とにかく、『日本でビートルズが死んだ』という事実が、大日本帝国の再建にはどうしても必要なのだ」

「はぁ」

「と、いうわけだ。お前を入れて十人の超能力者が武道館に客として潜入し、ビートルズの暗殺を遂行してもらう。とにかく爪痕を残すこと。重要なのは結果ではなく事実だ。最悪、殺すのはジョン・レノンだけでいい」

「わかってます」

「警備が尋常じゃないそうだからな。可能であれば、俺が直接ピストルであのキノコ頭を撃ち抜いてやりたいところなんだが」

 事前に散々説明を受けた。『鉄風』の構成員にも一人能力を持った者がいるらしい。

 なんにせよ、十人のうち一人でも目的を成し遂げれば報酬は(口止め料も兼ねて)全員に支払われるそうである。一人現金百五十万円。それを十人に支払うのだから、家が建ってしまうほどの額だ。ただの政治結社がなぜそれほどの資金を持っているのだろう。

「ぬかりなく完遂しますよ」

 和は手を差し出した。

「くれぐれも寝返ってくれるなよ。念のために言っておくが、我々はお前たちの能力ちからについては熟知しているからな。全員に報酬が支払われるからといって、任務を放棄するような真似は許さん。我々も適切な処置を取る」

 後藤もそれを握り返す。


 店を出て、和は後藤と別れた。決行は二週間後である。

 ユニオンジャックが小さくあしらわれたチケットを眺め、息を呑む。


 他に計画に参加している能力者は九人。……理不尽な数じゃない。この能力を振るうときが来たか。悪いね、後藤さん。私はビートルズのファンなんだ。

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