ダンデライオン 2

 ジュングンは玄関に立っていた。

 そして、いぬい 友康ともやすの母親に銃口を突きつける。

「はじめまして。友康の級友の、はやしです」



 ジュングンは失態を犯していた。

 警官からニューナンブを奪ったはいいが、弾のことを失念していたのだ。銃を強奪するという行為に執念するあまり、弾丸を同時に手に入れることを忘れていた。今撃てるのは、たまたまリボルバーに込められていた一発だけ。

 彼は思案した。

 まったく、なんて詰めの甘さだ。自嘲の念のもと、ホープを殺した四人の人間の顔を思い浮かべる。その中で、に銃を使おうと思っていた。

 それが乾友康だった。単純な腕力の話ではなく――その点において、むしろ彼は四人の中で最弱だった――、彼の父親が暴力団員ヤクザであるから。


 午後六時、銃をメガネ拭きで磨いたあと、ジュングンは乾の家へ向かった。



「林さん……? ああ、あなたって」

 友康の母はさほど動揺していなかった。

 物心ついたときから父親しかいなかったジュングンにとって、初めて間近に置かれた『母親』という立場にある女である。小説や映画に登場するステレオタイプとしての母親像より、彼女はふたまわり程度若いように思える。

 彼女はピストルを本物だと思っていないようだった。ジュングンはリボルバーを開け、中から一弾を取り出し、彼女へ見せつけた。それでもまだ半信半疑だった。

「本物ですよ」

「そう」

 ヤクザの女房ゆえの肝の据わりぶりなのか、それとも実銃を持っていようが十五歳のガキなどたかが知れているという余裕か、とにかく彼女は冷静だった。

「今日中には友康は帰ってこないと思います。ビートルズを見に行くと言っていたので」

 ジュングンは舌打ちした。チケットを手に入れたのか。よかったな。

 別にビートルズなんぞ好きでもなんでもないが、奴がコンサートを心底楽しんでいると思うと反吐が出る。

「人を殺しといて」

 母の顔色が変わった。

「なんのことでしょうか」

「ホープ・アンダーソン」

 ジュングンは発声する。

「彼は自殺だと……」

「友康くんは毎日のようにホープのことを罵り、嘲笑し、差別し、暴力を振るいました。それを苦にして、彼は首を吊った」

 責任を問うかのような口調のジュングンに、彼女は鼻白んだ視線を向けた。

「どうして、あなたが」 

「ホープは僕のただ一人の友でした。かけがえのないものを奪われた人間には、復讐をする権利がある」 

 発しつつ、彼は前進する。土足のまま玄関を上がり、廊下へ立った。

 彼女の鼻先に銃口を向ける。


 ジュングンは回想する。

 朝鮮学校をやめて、日本人の中学へ進みたいと父に打ち上けた時。当然のごとく、父は僕を平手でぶったあげく、本気の頭突きパッチギをぶちかましてきた。僕は額から出血し、それを見て姉貴はゲラゲラ笑ってた。

 僕は父を殴り返し、金日成を罵り、共産主義の脆弱性を指摘――すなわち父のアイデンティティを否定――した。

 フラットな視点で見ても歪んだ親子だったと思う。

 日本人がどうだか知らないが、少なくとも一般的な朝鮮人の親子は、お互いの拳の皮膚が破れて血が出るまで殴り合ったりはしない。……やがて、僕は実力で進路の選択権を得たのだ。あの日以降、僕は左耳が聞こえず、父は右目が見えない。

 こうして僕は十三歳になってから、はやし 重雄しげおという日本名を名乗って通常の中学へ通い始めた。

 まぁ紆余曲折あり、僕は日本人からは朝鮮人野郎チョンと、朝鮮人からは売国奴の日本人野郎チョッパリと呼ばれ、軽蔑と軽蔑の板挟みになることになるのだが、それはさほど重要なことではない。

 いくら差別があるとはいえ、朝鮮学校よりは日本の学校のほうが幾分マシだったと思う。中学生にもなって、金日成の肖像画に頭を下げるなんてゴメンだった。


「あなたのことは、友康から聞いてます」

 ほんのわずかに、声に震えが生じたのをジュングンは聞き逃さない。

 ホープ・アンダーソンはキューバ生まれだ。

 周囲の連中はベトナムから逃げてきた米軍の脱走兵の子供だと勝手に憶測を語り、あたかもそれが事実のように定着してしまっているのだが、実のところ彼の父は単なる看板屋にすぎない。たまたまこのシケた島国に流れ着いただけであって、日本にいることに深い意味などないのだ。


 ジュングンはいったん銃を下ろし、ジャケットで手汗を拭いてから再び構える。

母は唇を噛む。

 なんであいつがいないんだよ。どうすればいいんだ。

 こいつを撃てばいいのか? 今。



 路地裏。友康とその仲間たちと、十メートルほど離れたところでうずくまるホープ。

「てめぇチョン公が調子乗ってんじゃねぇ、殺すぞ!」

 友康は叫び、ジュングンのあばらを踏みつけた。

ジュングンは地面に這いつくばりながら、上を見あげた。オリの中のニワトリのような気分だった。いくらバタついても、ここから動けない。

「何、笑ってんだよ」

 笑ってなんていない。

 友康はジュングンの顔面をサッカーボールの要領で蹴り上げる。対した痛みはなかった。躊躇があるのがわかった。肋を踏みつけることはできても、人の頭を全力で蹴飛ばすほどの度量はない。

 ジュングンはよろけつつ立ち上がる。唇の傷に砂が貼り付いて、煩わしい。

「お前らが出しゃばるから目の敵にされるんだろうが、てめぇが大人しくしてりゃ済む話じゃねぇか」

 『お前ら』とは、なんだ。

 お前の言う『お前ら』の定義ってなんだ。

 国籍? 血統? 人種? 顔つき? 思想? 立場? 家柄? 出自? 経歴?


 は?



 彼は撃鉄を起こした。やっと、友康の母の額に汗が浮かんだ。

 その様を見ていると、この前手慰みに手に取った石原慎太郎の小説を連想した。下品で低俗な最ッ低の小説。

 ここのシチュエーションを舞台に、もし彼のような作家が脚本を描くとしたら、間違いなく彼女はその銃を構えた悪漢により陵辱されるのだろう。もちろん、わざわざそんなことをするメリットなど一つもないのに。

 ジュングンはふと自分の頭に浮かんだ稚拙な想像に苦笑しつつ、動作のぎこちない銃の引き金に力を込めた。

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