死にかけ大食蟻獣 2

 机の上に漠然と置いてあった雑誌を、遊剛は何の気なしに手に取った。『近代映画』とある表紙を眺め、ページを開く。めぼしい情報はない。

 コーヒーを啜る。苦味よりも酸味のほうが強かった。


 「血、止まった?」

 女性の声。遊剛は包帯の巻かれた右腕をちらりと睨む。これは現実?

 傷口にあてがわれたガーゼは赤黒く濡れているが、彼女の止血によって事無きを得ていたようだ。出血は停止している。もちろん、そこにあるべき手はもう存在しない。まるでぬいぐるみの腕。笑えるくらい無様だ。包帯の上から、血管を圧迫するために腕にきつく巻きつけられているのは、バンド状に伸ばして縛ったコンドームだった。

 遊剛は頷く。


 クッキー食べる? 

 彼女が軽妙な音を立ててテーブルに置いた菓子の詰まった缶に左手を入れ、一枚取る。何の変哲もない、ただ甘いだけの焼き菓子だ。蟻よりはマシ。

 猪野いの朱里しゅり

 彼女はそう名乗って、東京大学の学生証をこれ見よがしに見せつけた。

 医学部、と遊剛は呟く。

 医学部、とシュリは念を押すように復唱した。

「でももう辞めちゃった」

「はぁ……」

 今、東大は闘争のまっただ中だ。退学したのはそれに関するイザコザによる理由からだろうか。遊剛はさほど関心も抱かず想像する。大学のことはなにもわからない。

「正直な話、別にそこまで医者になりたかったわけじゃなかったしね」

 遊剛は措置された自身の右腕へ視線を下ろす。

「じゃあ、これは……?」

 今、この瞬間のリアリティが欠乏している。

 まず、ヤクザに腕を切断されたことからはじまる。

 次に、まったく身に覚えのない町で目覚める。

 そして、赤の他人が介抱してくれた。 


「みんな東大で闘ってるのに、私はなんにもできてないから。せめてなにか……って思ってたら。血だらけの君が。なんというか、人助け、とか言ったらちょっと恥ずかしいけど……」

 歯切れが悪い。

「……あ、ありがとう、ございます」

 とにかく、彼女は善意で自分を助けてくれたのだ。そう思うと、なんだか申し訳なくなる。俺を背負って階段を登ったのだろうか。悪いなぁ、本当に……

 股間がむず痒くなってくるようなばつの悪い罪悪感に唆され、遊剛は何の意味もなく狭い部屋を見回した。そこで、タンスのそばの畳の上に白いヘルメットが転がされているのを認める。文字は見えないが、中核派のゲバヘルだろうか。

 遊剛の目線の動きを察し、シュリは短く笑った。腰を上げて、ヘルメットをその場に持ってくる。彼女から手渡されたそれに遊剛は目を見開く。何の変哲もないドカヘルであるのだと思っていたが、中心に金の旭日章が貼り付けられているのが物々しい。警視庁のヘルメットだった。

 数時間前にたまたま見た新聞記事を思い出す。三億円を盗んだ犯人のモンタージュが被っていた、それだ。

「いいでしょ」

「なんで? こんなん持ってんすか」

「本物じゃないけどね。マネて作ったんだ」

 警察マニアなの? 本物のエンブレムまで用意して自作したのは素直に関心するが、こんなものを被ってバイクには乗れないでしょう。


 遊剛はクッキーとコーヒーを味わいつつ、誇らしげにヘルメットを弄る彼女を眺める。猪野朱里さん。朱里シュリ。なんて舌ざわりのいい語感だろう。ボクサーがシャドウボクシングに興じつつ、唇の隙間から鋭く漏らす息。それと同じ音だ。


 シュシュシュッ。

 シュリ。


 まだこれが現実なんだろうか。だって、親切な女性がなぜか献身的に見知らぬ自分のことを助けてくれるなんて、そんな都合のいいこと。情けないじゃないか。


 しばらくしてから、遊剛もまた彼女がそうしたように、口頭で身元を明らかにした。

 出原遊剛。歳は十八で、ハスラー。

「ハスラー?」

 彼はナインボールにおいて無敗だった。たしかに東京でいちばん強かった。賭けビリヤードだけで十二分に稼げるようになってからは、学校にも行っていなかった。

「ビリヤード。ビリヤードが得意だったから、それで金を稼いでたの」

 数十分前に、敬語は必要ないとシュリに言われた。

「ホントなの、それ。ハスラーって映画であったよね。ミネソタ・ファッツだっけ? それみたいだね」

 シュリは失笑ぎみに言う。並外れの集中力による精度、卓越したテクニック。

一度ブレイクショットをしたが最後、他のプレイヤーは彼が机上の全てのボールを淡々と一つずつポケットに落としていくのを、指をくわえて見ているだけだ。

 遊剛のプレイングは『出原劇場』なんて呼ばれていた。


 そう! ロバート・ロッセンの作ったビリヤード映画に出てくるようなクールな玉突き師、それがまさに俺なの! 

 ふと、今まで無意識的に抑圧してきたとめどない怒りが込み上がってくる。


 たとえば、飛べない鳥は鳥として劣っている、なんてことはない。

飛べない鳥には飛べる鳥にはできないことができる。ダチョウは七十キロで大地を疾走し、ペンギンは海中を俊敏に泳ぐ。

 なら、利き手を失った、二度とキューを握れないハスラーには何ができる?


「……これ、聞いていいのかな。どうしちゃったわけ、それ」

 シュリはそっと、包帯で縛られた遊剛の手首へ指を向ける。

「ヤクザだと思う。襲われたんだ。やられたんだ。電ノコでギュィィィン、ブチブチブチって」

「まさか」

「連中、俺みたいな未成年ガキがジャンジャン稼いでるのが気に食わなかったのかな。頭真っ白で……なにがなんだか、わかんなかった」

 いつも通っていた店にこういったヤクザが絡んでいるとはいざ知らず、なにか素知らぬうちにタブーを犯してしまって怒りを買ってしまったのか、まったくわからない。恐怖と怒りが気持ち悪く混ざり合って、吐き気を催す。


 感情を鎮めるため、不味いコーヒーを口に含む。

 ザマないな。ビリヤードしか取り柄のないガキが、ヤクザ怒らせてこんな目に。

 取り返しつかねぇ! あははは。笑えねぇよ。わははははは……


「このコーヒー、酸っぱくない?」

「そう? インスタントだけど、私はこれ好き」

「苦いのならいいんだけどさ。もうこれ酸味九割だもん。蟻ぐらい酸っぱいよ」

「蟻食べたことあんの」

「うん」

「ふーん。すご」


 しょうもない談笑のさなか、シュリはトイレに席を立った。テーブルの上にあるラッキーストライクと猫の顔の形をしたガラスの灰皿を指さし、吸ってていいよとつぶやく。

 遊剛は好意に甘えて一本失敬しつつ、彼女がいたあたりをちらりと見る。

 今まで気に留めていなかったが、襖がほんの少しだけ開いているのが目についた。しばらく思案したのち、遊剛はそっと腰を上げる。

 他人の家の襖を弄るなど非常識だが――こんなときにも、幼少期からの悪癖が出てしまう。完全に閉じられていない戸に対し、遊剛は生理的な嫌悪感を抱いてしまうのだ。理由は分からない。隙間をぴったり閉じるということはもはや強迫観念でもあった。なにかがこっちを覗いてる……

 その病的な繊細さあるからこそお前はビリヤードの才能に恵まれたのだ、なんて言われたことがある。遊剛にとってそんなもの嫌味でしかなかった。ハナゾノの吃音と同じで、それは誰がなんと言おうと枷だった。

 衝動的に、ひと思いに、襖の戸に手をかけた。


「……え?」

 時間が止まった。

 閉めるのではなく、開けた。開けざるを得なかった。

布団とか、家電の類いとともに襖を埋めていたのは、山のように積もった紙幣の束だった。あたかも子供がぐちゃぐちゃに散らかしたかのように詰め込まれている。

 遊剛は自身の血液の温度の低下を感じた。

 大量の紙幣がつっかえて、襖がのだ。

 本物……? そのうちの、一枚の五百円札を抜き取ってみる。外観も手触りも、紛れもない実物にしか思えなかった。


 「出原くん?」

 水洗トイレを流す音と、彼女の声。遊剛は振り向けなかった。

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