CHAPTER① 燃える東京
1969年 1月 20日
死にかけ大食蟻獣 1
腕の先にあるべき手が喪失している。手首の煩雑な切断面からの出血はいまだ止まらない。朦朧とする意識のさなか、アスファルトの上をふらつきつつ前に進む。
遊剛は自分の手を切断したヤクザの鬼気迫る表情を回想した。三人がかり。連中は俺を手術するみたいにビリヤード台の上に縛り付けて、米軍払い下げの錆びた電動ノコギリを右腕にめり込ませた……
痛みに耐えかねて無様にも泡を吹いて気を失ったのちに目を覚ますと、ここ、足を踏み入れたこともない町の路地に転がされていた。
歩みを進めると、目の前に、なにか黒々とした陰を発見する。遊剛は風に黒いビニールが揺られているのかと思ったが、違う。それは蠢き、おもむろに形を変えていく。何かしらの生物が群れているのだ。
カラスの群れだった。十数羽が一箇所に固まって、何かをつついている。そのうちの一羽のくちばしからミミズのような赤い筋が垂れるのが見えた。遊剛はそれへ接近した。カラスの群れは焦げたような匂いがする。
そこにあったのは小動物の死体ではなくて、みすぼらしい男だった。若い浮浪者が、アスファルトにへばりつくように死んでいた。
遊剛はその、若くして――少なくともまだ二十代のように思えた――家を無くした挙げ句、屍肉を鳥獣に貪られることとなった男のなれの果てを睥睨する。露出した腹部は薄汚い衣服ごしにハシブトガラスに穴を開けられ、その中をほじくられている。
カラスに食われたのか、左の眼球がえぐれているのが惨たらしい。遊剛はそこからそっと目を逸らす。
ただ、彼にとって気がかりでならなかったのは、その乾いた唇が満足げに吊り上がっていることだった。片目は空洞だが、その表情は安心感を醸している。常に死と隣り合わせである浮浪者らしい顔つきとは一線を課す、あくまでさっぱりとした笑みをその死体は浮かべていた。
おぼつかない足取りでカラスの群れを蹴散らし、遊剛は男の身体を弄った。モモヒキのゴム部分に折りたたまれた新聞が挟み込んであるのを見つける。手間取りつつそれを抜き取り、片手で開き、一面を覗く。
ぼんやりとした、それでいて威圧的な目つきでこちらを睨むヘルメットを被った男の顔写真。毎度おなじみ三億円事件の犯人のモンタージュである。一ヶ月くらい前の記事だっけ……?
偽の白バイと発煙筒を用いて、誰一人傷付けず、颯爽と警官を欺き
彼は新聞を足下に捨てた。風に煽られて三億円犯人が地面を無作為に滑っていく。
浮浪者であるのだから金銭的なものは何一つ身につけていないのが当然であるのだが、彼は駄目もとで男の懐を漁ってみることにした。すると、意外にも何かを指の先で探り出すことができた。
数珠だった。四十センチほどの糸に連なった珠の先に、銀の十字架が揺れる。これまで実物を見たことはなかったが、遊剛はそれがロザリオであることを悟った。
なんとなく、遊剛は殉教という言葉を連想した。
男の亡骸から得たロザリオをポケットへしまうと、再び歩き出す。遊剛がそこから退くと、機をうかがっていたかのように、カラスたちはまた男の身体に飛びつくように集まってくる。
足下がふらついた。
あたかもそこに布団が敷かれているかのように、遊剛はその場に倒れ込んだ。
そこはまだ整備されていない道のようだった。土と、そこに申し訳程度生じた雑草の感触を皮膚に感じる。
暴力的なほどの空腹と貧血。今の彼は動物的欲求以外、何も必要としていない。食欲、睡眠、安息……
走馬灯のようなものだろうか、友人がイギリスから輸入して独自に入手したのだと言って聞かせてくれた、『ピンク・フロイド』なる新鋭バンドのレコードの電子的なサウンドが頭の中に鳴り響く。
ぎゅぃぃぃぃーん。ぴろぴろぴろぴろりりーぃん。
立ち上がれなくなった。セピアのカメラのような、視界に濁ったフィルターがかかる。体内に水分が残っているようには到底思えないのに、発作的な発汗が止まらない。
遊剛は乾いた舌の上に異物感を覚えた。無意識に唇をぼんやりと開けていたらしい。一匹の蟻が顔をつたって、口内へ侵入してきたのだった。
煩わしく思ったが、今の彼にとってはそれを吐き出すことすらままならない。
腕の出血は止まっていない。断面から、肉に挟まれた骨がちらつくのが痛々しい。
彼は唇を閉じ、口の中の蟻を噛み砕いた。ぷちんと軽快に弾けることを想像したが、実際の感触はもっと陰湿で、ぐにゃんというねばっこい有様だった。
蟻の身体が潰れるのに伴って口内に充満した、なんともいえないギ酸の風味に辟易とする。たとえば梅干しやレモンのような健康的な酸味とは根本的に異なる、舌を溶かさんとするかのような攻撃的な酸の刺激。歯の隙間に挟まった脚部と思わしきちいさな片を舌でこそげ落とし、唾液と一緒に飲み込んだ。
俺は
オオアリクイとて蟻しか食わないわけではないが、だいたい一日につき三万匹の蟻および白蟻を腹中に収める。それなりに図体の大きい動物であるのに、ほんの小さな虫で行動のためのエネルギーを補えるのだろうか。
彼らは効率よく蟻を食べるために長い舌を得たんだろうか。あるいは逆か。そのような身体のつくりになってしまったゆえに、やむなく虫を食らうのか。 ……なんで俺こんなこと考えてるの?
遊剛は左手を伸ばし、顔のそばにあった蟻の巣を指で探った。穴に指を押し入れ、引き抜く。一匹の蟻が乗っかった爪を口に含み、噛み砕く。南米原産の珍獣に成り下がりつつ彼は、半年前に別れた彼女のことを思い出していた。
オオアリクイが一日に食べる蟻の量なんかもハナゾノから教わったものだ。彼女は博識だった。二人だけのときは、言葉に詰まりながらも饒舌に話した。
他にも彼女はいろいろ、学のない遊剛に様々な知識――もっとも、あくまで雑学の域を出ないものに過ぎなかったのだが――を授けた。彼は彼女と別れてからも、そのすべてを記憶していた。二次関数とかジャズのコード進行のこととか、小津安二郎の映画のこととか、『ガロ』に乗っている漫画のこととか。ただ、彼女の存在だけが、手帳のページを破るようにすっぱりとなくなった。
手の甲に登ってきた蟻を、舌で捕らえる。
そういえば、アリクイは歯が無いに等しいゆえ、噛まずに飲み込むのが形式としては正しいのかもしれない。
試してみる?
は?
なに考えてんの?
手負いの珍獣は自分自身を嘲るように微笑んだのち、目を閉じた。
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