第2話 フライング・ティーパーティー

 弓道部の中でも、先輩はちょっと浮いた人だった。少なくとも私はそう思っていた。

 うちの弓道部は弱小だし、皆で一丸となって頑張ろう、なんていう熱い風潮もない。決して適当なわけでもないが、どこか緩い雰囲気は否めなかった。

 先輩は、そんな中途半端に緩んだ空気そのもののような人だった。頑張るところは普通に頑張る。けれど、それ以上でもそれ以下でもないのだった。

 ひとしきり射込んだあとの休憩時間、先輩はいつも弓道場の隅で、道着のまま文庫本片手に足を組んでいた。自主練習の弓音が響く弓道場で、不似合いなはずのその姿は、なぜか自然とその場に溶け込んでいた。

 そのせいか、注意する人は誰もいなかったように思う。



 ぱらり、とページをめくる音がする。

 図書館近くの、控えめなBGMの流れる小さなカフェ。その窓際のテーブルに私たちは座っている。

 先輩は当時と寸分変わらない様子で、アリスを片手に足を組んでいた。

 高校三年生は夏で引退するので、当時一年生だった私と先輩が弓道場の同じ空間にいたのはたった数ヶ月に過ぎない。けれど、テーブルを挟んで明るい陽光の中にある先輩の姿は、私の中にひどく懐かしさを誘う。

 対する私は、肩で切りそろえたミディアムヘアを耳にかけて、まだ温かいコーヒーに口をつける。

「うん、やっぱりいいね、ルイス・キャロルは」

 本をパタリと閉じて、先輩が私の方を見る。にいっと細められた目は、やっぱりチェシャ猫のよう。

「読んだことあるんですか?」

 男性なのに、という言葉を私は飲み込んだ。そんな私の心の声を知ってか、先輩はカラっとした笑い声をたてる。

「あるよ。二つ上に姉がいてね、小さい頃は部屋も本棚も共用だったから、姉の本も勝手に読んでた。色々読んだなあ、赤毛のアンに秘密の花園……はは、今思えば全部女の子の読み物だよね」

 少しの恥ずかしげもなく言ってのける先輩の言葉に、私はすんなり納得していた。

 お姉さんの影響だろうか、この人はどこか男性らしくないところがあって、そして少し女子に対して距離が近い。初対面でいきなり「ちゃん」付けされてドン引きしたことは、本人には内緒である。

「私も、そのあたりの児童文学は大体読みました」

 そんな彼の前で、私と他人との距離感まで徐々に曖昧になっていく。だから口元からこぼれ落ちるように、つい私は言ってしまったのだ。

 その後で先輩が目を丸くするのを見て、しまったと後悔したけれどもう遅い。

「藍ちゃんも? へえー読書家のイメージなかったなあ」

「えっと、そうですかね……」

「うん。だって図書室で会ったの、一回だけじゃん」

 一回だけ。その言葉に、私は思わず目を見開く。

 先輩は図書委員だった。高三だから仕事なんてしなくていいくせに、この人は「受験勉強の休憩時間がわり」とのんきなことを言って、いつまでも当番に参加していた。

 でも私が図書室に行ったのは、偶然友達について行った一回だけ。確かにあの時、カウンターで本を読んでいた先輩と目があって、彼は人懐っこくニコリと笑った。

「そんなこと、よく覚えてますね」

「珍しかったからね。ずっと図書委員やってたけど、きみは一度も来なかったし」

「そうですね……私は、学校の図書室には全然行かなかったです」

 「学校の図書室には」と強調した意味を、先輩はすぐに察したらしかった。

「いつもあの市営図書館に? なんで?」

「あそこなら知り合いが、全然いないので」

 答えになっていない答えだ。案の定先輩はキョトンとして私を見ている。主人公のアリスのように、好奇心いっぱいのきらきらした目で。

 だから私はつられるように、するりと次の言葉を口にしてしまうのだ。

「私……小学校で、図書室が一番好きだったんです」

 ああ、やっぱり今日の私はおかしい。

 私はこんなに簡単に自分のことを人に話さない。私はもっと用心深いはずなのに。私は、「私をお飲み」と書かれた怪しい瓶の中身を、不用心にもゴクゴク飲んでしまうような人間じゃないはずなのに。

「毎日友達と遊びもせずに、図書室に通っていました。だってそこには、色んなものがあったから。空を飛ぶ竜に、しゃべるネズミたち。そして、おかしな生き物たちのいる不思議の国」

 なんでこんな昔話をしているのだろう。そう思いつつも、不思議と口は止まらない。

 現実には起こらない空想の話が、幼い私は大好きだった。中でもお気に入りだったのは、まさに先輩が持っている『不思議の国のアリス』。

「けどある日、担任に呼び出されて聞かれたんです。どうしていつも一人なのかって。別にいじめられてなんかない、本が読みたくて図書室にいるだけだって答えたら、先生はこう言いました。〝そんな空想の世界だけじゃなくて、現実の普通のお友達を作りなさい〟って」

 先輩の目がすっと細くなる。今度は、見透かすようなチェシャ猫の目。

「とってもびっくりしました。そっかあ、一人で図書室にこもってる子は普通じゃないのかーって。それからはみんなに混じって外で遊ぶようになって、小学生の間はあんまり本も読みませんでした」

「でも今は読むんだ、本」

「中学になってまた本を開き始めて……けど、やっぱり学校の図書室には行かなかったし、周りにも本なんて読んでないフリをした。読むのも、現代物やミステリで……」

 そこまで言って、私はふいに黙り込む。

 唐突に、私の中に一つの光景が浮かんでくる。先生に呼び出されて、首を傾げながら職員室に向かう幼い私。その、手元に抱えた物の姿を。

「そうだ、思い出した……。先生に呼び出された時、ちょうど持ってた本がアリスだった」

 「へえ?」と先輩は明らかに面白がっている。

 彼からすれば今までの私は、本なんて開かないイマドキの女の子。その私が本に絡んだおかしな話をするのが、面白くて仕方ない、と。

 そんな先輩は、私にとってなんなんだろう。さっきからこの人はずけずけと私の中に入り込んでくるくせに、くるくる色んな顔をみせるから、掴めない。

「不思議の国のアリスを持ったまま職員室に行って……それからどうしたんだろう、思い出せない」

「図書室に戻ったんじゃない?」

「確か休憩時間が終わりかけてて。だから、そのまま教室に帰ったんだと思うんですけど」

「本は?」

「うーん、次の日に返しに行ったのかな……」

 あの日の、その後の行動が全然思い出せない。ただでさえおぼろげな小学生時代の記憶の中で、いっそうぽっかりと欠落している。

 思い出せ、あの後私は――


「――アリスの丘」


 ぽつり、とそんな言葉がこぼれ出た。先輩の目がますます細くなる。

「え?」

「わかんない、でもそう思いました。あの日、〝アリスの丘〟に私は行ったかもしれない」

 「町外れの?」と先輩が念押ししてくる。

 アリスの丘――それは町外れに位置する、小さな森に囲まれた小高い丘だ。緑化を推奨する市の計画の一環で、人工的に作られたものだった。

 当初は遊具や運動設備の設置など色々な計画があったらしいが、中途半端なところで頓挫して、結局何もない丘と荒れ放題の森だけが残った。

 本当は、東江市立なんとか公園っていう長い名前がついていた気がする。なぜアリスの丘と呼ばれるようになったのかというと、小さなバラ園があること(やはり手入れされていないけど)。そして、誰かが勝手に放したペットの白ウサギが野生化して、そのまま住み着いてしまっているからだ。

 バラとウサギから誰かが連想したのだろう。どこからともなくアリスの丘と呼ばれるようになって、気付けばそのまま定着していた。

「なんで、アリスの丘なんだろう……」

 私はおぼろげな記憶をたどる。

 私は担任に思いもかけないことを言われ、呆然としたまま、学校を抜け出してどこかへ走って行く。

 幼い私が丘の上を駆けていく。その顔は少しだけ泣きそうで、そして、


 ガシャン!


 ふいに店内に異質な音が響き渡った。ドクンと私の心臓が飛び上がる。

 そろそろと後ろを振り返ると、新米らしき店員が床の上で粉々になったティーカップを前に、オロオロと立ち尽くしているところだった。

「びっくりした。高級そうなカップなのに、もったいない」

「……はい」

 まだ速い鼓動をごまかすように、私はコーヒーカップを持ち上げて口をつける。ほろ苦さが、脈打つ全身を沈めていく。

 考えを巡らせても、さっきまで思いだそうとしていたものはすっかり記憶の底に沈んでしまって、幼い私もあの日の丘の光景も、もう見えなかった。

「ともかく……それが藍ちゃんが、アリスを読んだ最後だったんだね」

 先輩の言葉に、私はうなずく。その頃読みあさっていた児童文学を、以来私はぱったり読むのをやめた。不思議の国のアリスもその一つ。

 そして、その後開いたことは一度もない。小さなアリスの奇妙な冒険は、私の幼い記憶の中に埋もれたまま。

「あーお茶忘れてた。すっかり冷めちゃった」

 ふいに先輩が、いかにも残念そうな声をあげる。端正な顔が歪むのを、私はボンヤリと眺めていた。

 記憶をさかのぼりすぎたせいだろうか、夢から目覚めた直後のようなフワフワした印象を受ける。そんな現実味のない視界の中で、先輩は何事もなかったかのような顔で冷めたティーカップを持ち上げる。あくまでも優雅に。

「これだって立派なお茶会だよね。アリスの話にぴったり」

「順番が違いますよ。まだウサギの穴に落ちてもないじゃないですか」

 とっさに反論が出た。お茶会から始まるアリスの物語なんてあるもんか。そんなの、とんだフライング。そもそも私はコーヒーだし。

 けれど、私の冷めた反応を気にもせず、先輩は茶目っ気たっぷりに口元を持ち上げる。

「構わないさ。だってそれこそまさに、まだ〝何でもない日〟のお茶会だろ?」

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