アリスの丘に三日月は笑んで

井槻世菜

第1話 午睡の始まり

 私はいわゆる、〝変な子〟だったらしい。

 小学校に入りたての頃の話だ。学校という新しい世界で、私が一番感動したのは、本が所狭しと積まれた大きな図書室の存在だった。幼い頃から本の虫だった私は、いつでも好きな本を手に取れる環境に夢中になった。

 そして、毎日一人で図書室に入り浸っていた折に、ある日突然担任から呼び出されたのだ。


 ――三枝さえぐささん、どうして友達と遊ばないの? いじめられたりしていない?


 呼ばれる心当たりなんて、もちろんなかった。そんな私を待っていたのは、いかにも人の良さそうな女教師が、心配そうに眉根を寄せた姿だった。

 そして、彼女の少しだけ押しつけがましい同情は、私にかなりのインパクトを残すことになる。

 私自身は、ただ自分の思う通りに好きなことをしていただけ。けれど彼女から見れば、仲間の輪に入れない取り残された少女であったのだ。


 それ以来、学校の図書室はどこか近寄りがたい場所となってしまった。



***



 図書館っていうのは、SF映画のワープゲートみたいなものだと思う。

 行く先は自由で選びたい放題。目的地指定は無制限。時間内に帰ってこい、なんて決まりもなし。

 ただし絶対のルールが一つ。必ず一方通行ってこと。

「うーん、ホームズは全部読んだしなあ……」

 さっきから私は、市営図書館の大きな本棚の前で、手当たり次第に本を出しては戻してを繰り返していた。あちらこちらに目移りして、結論は全然出ない。

 私は本が好きだ。高校二年生になった今でもそれは変わらない。

 最近のマイブームは海外ミステリ。シャーロック・ホームズにエルキュール・ポアロにオーギュスト・デュパン。世界にはこんなにかっこいい探偵たちが数え切れないほどいて、その数だけ事件や謎の溢れる危険で素敵な世界が広がっている。

 本を開けばひとっ飛びでその世界の中に入り込める。本っていうのはさながら一つの異世界で、図書館は行き先自由のワープゲートだ。

「よしっ、『オリエント急行』にしよう」

 そして私はアガサ・クリスティの名作を手に取る。本は大人しく私の手におさまって、当たり前だけど何も言ってはくれない。彼らは、こちらから表紙を開くまでは絶対に顔をのぞかせてくれないのだ。だから、ワープゲートは絶対に一方通行。

 でも、だから図書館の静けさは保たれているのかもしれない。「アガサ・クリスティ」の隣の棚は「アーサー・コナン・ドイル」。世界最高の探偵を自称する灰色の脳細胞の男と、薬物中毒の変人の天才顧問探偵。彼らが自由に本の中と外を行き来できたとして、きっと気は合わないんだろうな。

「あー、そろそろ帰って課題やらなきゃ」

 本を抱えたまま軽いため息。館内の読書家たちの素敵な沈黙を破らないように、もちろんコソっと。

 私は棚を離れて、無数の本たちに囲まれた通路を歩き出す。横目でいろんな棚を見送っていく。日本文学、歴史小説、海外文学――まだまだ、私の知らないゲートは無限に開いたままだ。

「あれ――?」

 ふと立ち止まる。

 まだまだ続く通路の数歩先、青い絨毯の上に、無造作に一冊の本が落ちている。私は誘われるように、何気なくその本を手に取った。


 『不思議の国のアリス』


 簡素な薄手の本に刻まれた題名を読み上げて、私はなぜか足下がぐらつくような感覚を覚えた。その意味もよくわからないまま、次の瞬間にはハッと我に返る。そして、もう一度だけシンプルな字体で書かれた名前をなぞる。

 もちろん私だってこの本は読んだことがある。ルイス・キャロルの有名すぎる小説は、テニエルの美しい挿絵とともに、私の幼い記憶の中に。

 でも、記憶にあるというだけでは説明できない、おかしな違和感。まるで、大切な何かを忘れているような――。


「あれ、藍ちゃん?」


 後ろからいきなり名前を呼ばれ、私はまるでイタズラを見つかった子どものように、びくりと肩を震わせた。わけもなく後ろめたい気持ちになりながら、おそるおそる振り返る。

 そこには、思いもかけない人間の姿があった。

「し、白木せんぱい!?」

「久しぶりだねー藍ちゃん、いつぶりかな」

 白いワイシャツを爽やかに着こなす好青年は、私に向かって気安げに片手を上げた。その親しみやすさに、一時跳ね上がった私の心臓はするすると落ち着きをとりもどしていく。

 今は九月だから半年ぶりですと、そう答えようとした。だが、その前に私の目線は彼の頭上に向く。

「先輩、髪」

「そ、大学生らしく染めてみた。どう?」

「似合いすぎて、なんかチャラいです」

 「それは複雑な心境だなあ」とおどけてみせる仕草は、見慣れない茶髪と相まって優男のそれ。でも彼がやると、違和感も嫌みもないから不思議だ。

 白木誠也。高校で私の所属する弓道部の先輩。自分の世界に生きてる、不思議な空気を持つ人。いや、この三月で彼は高校を卒業してしまったから、先輩だったという方が正しい。

「こんなところで会うなんて思わなかったよ」

「わ、たしもです」

 本当に、こんな中心部から外れた図書館で知り合いに会うなんて思わなかった。わざわざ誰にも会わなさそうな所を選んでいるのに、どうしてこうなってしまうんだろう。

 居心地の悪さに、私の言葉は変なところで途切れる。

 それきり黙ってしまった私の前で、先輩は線の細い首元を綺麗に傾げた。そして、私の抱えた本に視線を向ける。

「あれ、藍ちゃんってそんな本も読むんだ」

「……!」

 私は瞬間的に、さっと血の気が引くのを感じる。アリスの本を拾い上げたままだったことを、今の今まですっかり忘れていたのだ。

「ち、違うんです。借りようと思っていたのはアガサ・クリスティだけで、こっちは別に……」

 言い訳も、慌てて本棚に戻す動作もぎこちない。

 そんな私に先輩はますます不思議そうな顔をして、ふいにくすりと吹き出す。

「そんなに慌てなくていいのに。俺は好きだよ、不思議の国のアリス」

 それから先輩は、何か新しいイタズラを思いついた子どものように、ニッと口元を上げて笑顔を作った。まるで本の中の、三日月の形に笑うチェシャ猫のようだと、思わず私は思ってしまう。

 そして先輩は、私が戻したアリスの本に再び手を伸ばす。綺麗な白い指が、表紙ばかり厚い簡素な本を取り上げる。

「きみが借りないなら、俺が借りるよ。で、こっちが本題なんだけど」

 藍ちゃんはこれから暇なのかな? そんなナンパさながらのセリフが、茶髪の優男から飛び出す。

 図書館でナンパなんてナンセンスだ。そう思いながらも、私は自然な動作でうなずいている。先輩の中で見え隠れするチェシャ猫が、私を見下ろしてニヤリと笑う。

「じゃあ――今からどっかで、お茶でもしようか」



 ――ひょっとして、彼と再会したこの瞬間から、私は夢を見ていたのではないか。ふとそう思う瞬間がある。けれど、決してそうではないことを、私はもう知っている。

 それじゃあ始めよう。

 黄金色の昼下がり。

 彼が私にとって何者なのか――イタズラに惑わすチェシャ猫なのか、ふざけるだけの帽子屋なのか、それすら知らなかったこの日から。

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