第百二十二回 石勒は再び霊昌道に闘う

 平陽へいようを発して魏縣ぎけんの救援に向かう漢軍のうち、南路を進む石勒せきろくは、待ち受ける晋軍を破って霊昌河れいしょうかを渡り、一路魏縣に向かおうとしていた。

 姜發きょうはつも東岸に上がり、行く手の地形を調べさせたところ、軍法にむ地形が多い。石勒には次のように報告した。

「この地は水に近い上に平地が狭くなっています。前進する分にはよいですが、後退には混乱を生じる地形です。晋の軍勢は多く、険要の地に陣を布いて待ち構えているため、魏縣に向かおうにも易々とは許さないでしょう。しばらく西岸に輜重を留め置き、軍営を構えて奇襲に備えるのが妥当です。その間に前方の地形を調べ尽くして方策を定め、兼ねて魏縣の戦況を窺います。それらの準備を終えた後に輜重を擁して全軍を発し、攻め進むのが上策というものです」

 石勒はその言に従って輜重を西岸に戻して軍営を構え、奇襲により焼き払われぬよう厳重な警戒を布いた。また、四方に斥候を放って晋軍の行方を探らせる。

 斥候が戻って言う。

皮初ひしょは魏縣に向かう霊昌道の険要の地に拠り、大木で道を塞いで通過を許さぬ構えです」

「それならば、まずは大木を取り除いて晋軍を打ち破るか」

 石勒はそう言って将兵に大木の撤去を命じた。


 ※


 早朝から休みもとらず作業をつづけ、午の下刻(午後一時)になってわずかに晋の軍営に向かう道が通じる。しかし、晋の軍勢も厳しく守ってそれ以上の作業を許さず、漢兵の疲労は極限に達しようとしていた。

 姜發は作業を切り上げ、軍勢を返して将兵を休ませる。

 翌日、石勒が軍勢を出して戦の準備を進めていたところ、斥候が戻って告げ報せる。

「陸機が救援を遣わし、昨夜のうちに夏雲かうん雷霈らいはいが二万の軍勢とともに着陣した模様です」

「それは都合がよい。救援が来たとあれば、皮初も戦う気になるだろう」

 石勒は軍勢を発すると晋陣に向かい合う位置に軍営を移す。それを見た夏雲と雷霈が言う。

「小賢しい賊めが、吾らと互して戦うつもりか。必ずや石勒めを擒として血祭りに上げ、霊昌河に没した将兵に手向たむけてくれよう。それができねば大国の将帥の名折れというものよ」

 皮初は放言を聞くと首を横に振って言う。

「二公よ、漢賊どもに対しては慎重を期すのが上策、ましてこの地は険要にして守るによく、吾らがここにあれば漢賊は通過できぬ。ただ軍営を守ればよいのだ」

 夏雲はそれを聞くと眉をひそめて言う。

「公のご意見は承った。ただ、吾らには別の了見がある」

 そう言うと、夏雲と雷霈は皮初の幕舎を出ていった。軍勢を発すると漢陣に対して軍列を整える。その陣頭に雷霈が馬を進め、石勒を罵って言う。

「お前は漳水の河辺で漢兵十余万を斬り乱した大将軍の名を聞き及んでおるか。哀れな劉聰と張賓は魏縣の城に籠もって釜の中の魚と同じく、いつ料理されるかは吾らの肚次第よ。お前たちも一つ釜に入りたいか」

 石勒はそれを聞くや物も言わずに馬を拍って晋の軍列に突きかかる。雷霈はげきを引っ提げ立ち向かい、刃を交わすとたちまち三十余合を超えた。夏雲は雷霈の苦戦を知るや、挟撃せんと馬を駆る。

 漢陣の姜飛きょうひはそれを見ると、斬り止めるべく馬を躍らせ馳せ向かう。晋陣より副将の蹇韜けんとうが馬を飛ばして前を阻み、顧みれば夏雲は石勒を挟むように雷霈に加勢していた。

 石勒は左右の晋将を相手に一向怯まず大刀を振るい、三人が一団となって争う姿はともえのよう、馬は龍が絡み合うように体をぶつけ、人は虎が争うように紛々ふんぷんたる殺気を放つ。


 ※


 夏雲は雷霈を助けて石勒を討ち取ろうとするも、思うようにいかぬと見切りをつけたか、馬頭を返して姜飛を押し止める蹇韜の加勢に向かう。雷霈は独り石勒に抗うものの、その一刀を受けて馬下に斬り落とされた。

 石勒はすぐさま馬を拍って夏雲の後を追う。

 その時、晋陣より副将の張皮ちょうひが馬を飛ばして加勢に向かい、夏雲は馬を返して背後に迫る石勒に向き直る。その背後では張皮が行き着くのを待たず、蹇韜は姜飛に生きながら擒とされた。

 張皮が蹇韜を取り返そうと追いすがるも、汲桑きゅうそうが大斧を担いで馳せ到り、大呼して斬りかかる。張皮はこれをかわすと汲桑が尋常の者ではないと思い知り、鎗を捻って突きかかる。汲桑は鎗先を躱して走り寄り、大斧の一撃を張皮の乗馬に振り下ろす。

 張皮はたまらず馬ごと倒れ、汲桑は跳びかかって張皮を生きながら擒とした。

 石勒と戦う夏雲が四方を見れば、雷霈、蹇韜、張皮はいずれも討ち取られ、漢将に取り囲まれつつあった。馬を返すと晋陣を指して逃げ奔る。

 この時、漢陣より桃豹とうひょう郭黒略かくこくりゃくたちも斬り込みをかけ、晋兵はついに総崩れとなる。漢兵は追い討ちに討って晋兵を斬り殺し、屍が道に並んで横たわった。

 石勒は軍勢を差し招いて攻めかかろうとしたが、皮初は弓兵を揃えて漢軍を待ち構え、一斉に弓弩きゅうどを射かけて近づけない。

 漢兵は雨の如き矢箭を受けて次々に倒れ伏し、漢の副将の王楊と冀保はその身に六、七本の箭を立てながらも晋陣目指して突き進む。

 石勒はにわかに打ち破れぬと察し、退がねを鳴らして軍勢を引き上げた。

 夏雲はこの一戦で漢兵の勇猛を骨の髄まで思い知り、心に怯えを生じるに至った。副将の郭芝ともども軍営に引き上げて死者と負傷者を数えたところ、三将を喪ったばかりか兵卒の死者も一万人を超えている。大いに畏れて軍営を守り抜くより策はないと思い定めた。

 以来、晋の軍勢はただ軍営の守りを固めて出戦せず、石勒も打つ手がなく睨み合いとなる。霊昌の晋将たちは使者を本営に遣わして報告し、あわせてさらなる救援を仰ぐこととした。


 ※


 この時、成都王せいとおう司馬穎しばえいは軍議の席にあって魏縣の城を陥れる方策を講じていたが、豫州ようしゅう刺史の劉喬りゅうきょう滎陽けいよう太守の李矩りくが口を揃えて言う。

「魏縣の城を包囲して一月が過ぎております。糧秣は残り少なく柴水も欠いておりましょう。城の陥落は旦夕たんせきのうちにあります。張賓ちょうひんに如何なる知略があっても、行き着くところは城を捨てて逃げ出すだけでしょう。それには一場の激戦を越える必要があります。ただ、漢の援軍を迎え撃った両軍の勝敗が分かりません。苦戦であっても援軍さえ阻んでおれば、十日を過ぎず城は陥落いたします」

 そう言い終わる前に、沙麓山の姫澹からの急使が駆け込んできた。使者はあえぐ息を抑えもせず身を震わせて申し述べる。

「漢賊に馮奕と章龍を斬られ、包廷は背を打たれて血を吐き、十五万の漢兵が日夜軍営に攻め寄せております。兵は夜を徹して防戦に務めておりますが、疲労が極まって危機に瀕しております。すみやかな救援をお願い申し上げます」

 成都王以下一同は一様に顔色を失って水を打ったように静まり返った。李矩が厳しい表情で口を開く。

「救援に向かった馮奕と包廷の二人が漢賊に殺された以上、このままでは沙麓山を守り抜けません。すみやかに援軍を遣わすべきです。怯懦の心を起こしたところで事態は好転いたしません。方策を定めるのが吾らの任なのです」

 諸王侯が口を開く前にふたたび早馬が駆け込んできた。

「雷霈、夏雲の軍勢が霊昌道の軍営に入ったところに石勒が攻め寄せ、防戦に勉めたものの、蹇韜、張皮の二副将と雷霈将軍の三名が陣没されました。皮初と夏雲の二将軍は険要の地を守って漢賊の通過を許しておりませんが、その勇猛は言語に絶し、危機に瀕しております。救援を乞うべく急ぎまかしました」

 成都王が嗟嘆さたんして言う。

「援軍でさえこれほど凶暴であるとは。数多あまたの勇将を喪って二人の若輩を食い止められず、どうして劉聰と張賓の軍勢を降せようか」

 順陽じゅんよう太守の張光ちょうこうが言う。

「劉曜、石勒が勇猛であってもまた人に過ぎず、天下無敵を誇った項羽こううほど勇猛であるはずもございません。戦死した官将たちはみな多勢をたのんで敵を侮り、身を滅ぼしたに過ぎません。臣の麾下に夏庠かしょう周并しゅうへいという者がおります。勇猛にして知略に秀で、尋常の者ではございません。二人を沙麓山に遣わせば、劉曜を打ち破って軍功を挙げられましょう」

 諸王侯はその言に従って二将を召し出し、それぞれに兜甲とうこうを下賜した。

 二人はすぐさま軍勢を発して沙麓山に向かい、昼夜兼行で先を急ぐ。二人が去った軍議の席で成都王はようやく口を開いた。

「北路は張景武ちょうけいぶ(張光、景武は字)の軍勢を遣わしたものの、南路の石勒には誰を当てたものだろうか」

 その声に応じて廣州こうしゅう刺史の陶侃とうかんが進み出る。

「臣が麾下に相応しい者がおります。朱伺しゆし呉寄ごきといい、兵法に精通して戦に練達しております。それゆえ、これまでも度々兇賊を平定しており、臣はその力量を知悉ちしつしております。この二人を遣わしせば、ご心配には及びませぬ」

 成都王はその言を納れて二人にも賞物を与え、激励して送り出した。それより二将は士卒を精選してこれも昼夜兼行で霊昌道に向かったことであった。

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