第百四回 李雄は計にて大いに羅尚を破る
楊褒は諸将に任を割り振り、
一箇所ごとにそれぞれ一千の弓兵、一戦の騎兵を置き、
「羅尚の軍勢が谷口に攻め込んだと見れば伏兵を発して帰路を断ち、砲声を合図に攻めかかれ。
それぞれに役割が定まると、いささかの兵糧を携えて埋伏に向かった。李雄は老弱の士卒に荷を担って先発させ、自らは精鋭を率いて
羅尚は李雄が鳴りを潜めているのを疑い、間諜を放って動静を探らせていた。その間諜たちが相継いで報告する。
「李雄は本日夕刻より軍営を引き払って武都山の大路より成都に戻るようです」
報告を受けて羅尚は意を決する。
「賊徒どもは敗戦がつづいて成都に逃げ戻るつもりか。成都に戻れば軍勢を養って鋭気を蓄え、いよいよ平定が難しくなろう。勝勢に乗じて追撃し、擒とするのが上策である。成都の奪回はこの一挙にある」
ついに
※
先鋒は馬を走らせて武都谷口のあたりで李雄の軍勢に追いついた。
張寶は味方の前軍が隘口を出ていないと見ると、谷口のあたりで晋軍と一戦して時間を稼ごうと馬頭を返す。先頭に発って馬を走らせていた羅承は前を塞ぐ張寶に突きかかったものの、五合もせぬうちに生け捕りにされた。
その麾下の軍士が逃げ戻って後につづく張金苟に報せる。
張金苟は羅承を奪い返さんと先を急ぎ、武都東山の麓で逃げる張寶に追いついた。張寶は張金苟を見ると軍勢を返して防ぎ止める。張寶は張金苟と十合ばかり戦ったところで、擒としようと近づいた拍子に張金苟の一刀を受け、馬下に斬り落とされた。
張寶の戦死により軍士たちが逃げ奔ろうとするのを見て、李譲が殿軍となって敗卒を集める。
羅尚と向奮は張金苟が張寶を斬り殺したと聞いて詭計に陥る虞はないと見切り、全軍に命じて逃げる李雄の跡を追う。武都西山に近づいたところでようやく軍勢を停めて休もうとした。
高山上の趙粛は好機と見て一斉に号砲を放たせる。
それを合図に李譲、
弓矢が止んだと思えば騎兵の突撃がつづき、官兵たちは射倒され、馬蹄にかかって櫛の歯を引くように喪われていく。羅尚が留まって食い止めるよう士卒を叱咤する間に、費陀、徐輦、楊珪、麹歆の四将が背後から矢を射かける。
官兵たちはついに算を乱して逃げ奔った。
張金苟は踏み止まって死戦する中、流れ矢を頸に受けて馬から落ちる。楊珪が首級を挙げようと馬を寄せ、張金苟はようやく立ち上がったところを生きながら擒とされた。
羅尚が叫んで言う。
「賊徒の詭計に陥った。それぞれに血路を開いて落ち延びよ」
その言葉を聞く前に文碩は王達の矢を左目に受けて馬から転げ落ち、兵士たちに縛り上げられて生け捕りにされた。官兵たちは総崩れとなって逃げ道を捜すばかり、隘口に押し寄せたばかりに味方に踏み殺される者も多く、屍が道を覆うように打ち並ぶ。
負傷した者たちの
※
羅尚は生き残った将と士卒に向かって言う。
「事はすでに破れた。向将軍は殿軍となり、張興、
先頭に立つ三将は決死の覚悟で一條の血路を拓いて進む。
まだ包囲を抜けぬうちに任回、趙誠、王聖、王懐の四将が谷口から斬りこみ、官兵を包囲して逃さない。官将の李興はこの時に任回と戦って斬り殺された。
向奮が殿軍となったものの、李譲と李雄は十余将を率いて追撃をかけ、向奮の弟の
向奮は弟の戦死を見て忿怒し、仇に報いようとするも身に二十を越える傷を負い、身に纏う
▼纐纈は染料に染まらない箇所を作って斑に染めた布を言う。
張興、費深、賀仁の三将は命を棄てて包囲を突き破り、羅尚を保護して落ち延びていく。山道を駆けて谷中を抜け出ようとしたところ、楊褒の計略により谷口は伐り倒された木々で防がれていた。張興は士卒に命じて木々を取り除き、ようやく谷口を通過する。
そこに任回と趙誠が追いすがり、しばらく戦ったものの官兵たちは支えきれずに逃げ去っていく。賀仁は羅尚を逃がすために踏み止まって戦いつづけ、ついに任回に斬り殺された。
ようやく逃げ切った羅尚はその身に三つの鎗傷と十三の矢を受けていた。弟の
羅尚は武都を離れて宜陽に向かおうとしたが、李雄の追撃が止まず道を阻まれて巴東に落ち延びて行った。
※
李雄は宜陽を攻め落とし、太守の
報告を受けた羅尚は一声叫ぶと倒れ伏した。張興が扶け起こすと羅尚は嘆いて言う。
「天はすでに晋朝の自ら害うを
そう言い終えると自らの胸を叩いて一斗(約10.7ℓ)ばかりも血を吐いた。この衝撃で矢傷がふたたび発して病床に就き、その三日後に世を去った。
張興は
また、蜀の民で李雄の統治を願わない者たちは張興の跡を追って荊州に逃れ、その戸数は数万に及んだ。荊州の官吏たちは流民が蜀を乱したと知るがゆえ、蜀からの流民の受け入れに難色を示す。
劉弘はそれを知って言う。
「古のよく国を守る主は盗賊を良民に化し、盗賊を捕らえることを才能とはしなかった。先に漢中より蜀に流民が入った折、羅益州(羅尚)は流民を撫御するやり方を誤った。蜀の大乱はこれより始まったのだ。昔、梁の恵王は国の民が増えぬと言って孟子に方策を問い、孟子は『仁政をおこなえば普天の民は子を背負って国に到りましょう』と答えた。蜀の民が荊州に来ても追い返すことはない。ただ彼らを慰撫して安んじ、この荊州に住まわせて牛馬、住居、田地、農具と生業を与えてやればよい。そうすれば、数年後には彼らも荊州の良民となるだろう」
蜀の民には人を選んで官司をつけて慰撫したため、民は喜んでその徳に感謝した。それゆえ、荊州では流民たちは乱を起こさず生業に安んじたことであった。
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