第百五回 李雄は諸将を昇す

 李雄りゆう羅尚らしょうの死を知り、まだ降伏していない四隣の郡縣に諸将を遣わした。

 晋の官吏たちも朝廷がすでに蜀の地を棄てて救援を遣わす意志がないと察し、郡縣を死守する心を失っていた。それゆえ、李雄に降る者は降り、降らない者は郡縣を棄てて逃げ去った。これによりついに蜀の全土は李雄の有に帰したのであった。

 楊褒ようほう徐輦じょれんは諸々の文武の官を率い、上書して李雄に王号を勧進かんじんする。

 日を選んで祭壇を築き、天に告げる儀礼をおこなって即位し、国号をせいと定めて年号を建興けんこう元年(三〇四)と称した。蜀漢の滅亡より四十一年後のことであった。

▼「天に告げる儀礼」は「燔柴はんさい」と言い、檀上に積み上げた柴を焼いて煙を天に上げ、新王朝の開基を天に知らせた。

 成都を国都として宮室と役所の建設も始められ、范長生はんちょうせい軍師ぐんし左相さしょうに任じて国事の総理を命じたものの、范長生は辞退して言う。

「臣は大王の顧望により光武帝が厳子陵げんしりょう大澤だいたくおとなうたように強いての招聘に応じ、幸いに昆陽こんようの勝を得ただけです。願わくば、臣に骸骨を賜って青城山せいじょうさんに還るを御許し頂き、厳灘げんたんに悠々と過ごした子陵のような余生を送られれば、これに過ぎる恩栄はございません。また、臣の観るところ、これより四十年の間は蜀に戦乱はございますまい。それゆえ、臣が朝廷にあったところで何の役にも立たないのです」

▼「骸骨を賜る」は「辞職を許す」という意に解すればよい。老病により官職を願い出ることを「骸骨を乞う」と言い、それから発した言い回しと考えられる。

▼「厳子陵」は後漢の人、子陵は字、名を光という。光武帝劉秀と洛陽で同学であったが、その即位を知ると姓名を変じて身を隠した。光武帝は使者を三度遣わして洛陽に招聘したと伝わる。最期は職を辞して故郷に悠々と暮らして没した。ここでは、「厳子陵のように強いての招請に応じたのであるから、最期も同じように故郷に暮らさせて欲しい」という意味で援用されている。

▼「昆陽の勝」は光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅうが新の王邑おうゆう王尋おうじんらに率いられた四十万の軍を潁川えいせんに破った戦勝を指す。ここでは羅尚を破って蜀を手に入れたことをなぞらえて言う。

 李雄は敢えて任官を強いず、絹千疋と金千両(約37kg)を下賜し、涪城ふじょうの税収をその俸禄と定めた。范長生はいずれも辞退して受けなかったため、李雄は安車あんしゃを下賜すると、文武の官とともに城を出て青城山に還る范長生を十里(約5.6km)ほども見送り、ついに別れたのであった。

 成都の大官は次のように定められた。


  太尉たいい   李譲りじょう

  左丞相さじょうしょう  楊褒ようほう

  右丞相ゆうじょうしょう  李遠りえん

  中尉ちゅうい   李博りはく

  左侍中さじちゅう  上官晶じょうかんしょう

  右侍中ゆうじちゅう  費陀ひだ

  司徒しと   徐輦じょれん

  左司馬さしば  毛植もうしょく

  右司馬ゆうしば  襄珍じょうちん

  御史大夫ぎょしたいふ 楊珪ようけい王達おうたつ

  輔國ほこく将軍 文斌ぶんぴん麹歆きくきん

  振武しんぶ将軍 厳楡げんゆ李濤りとう

  振威しんい将軍 王博おうはく上官琦じょうかんき


また、別に外郡の太守として十人の部将に鎮守を命じた。


  任道じんどう 車騎しゃき将軍、定西侯ていせいこう、一万の軍勢とともに漢中かんちゅうに鎮守する 

  任臧じんぞう 驃騎ひょうき将軍、寧西侯ねいせいこう、五千の軍勢とともに梓橦しどうに鎮守する

  任回じんかい 驍騎ぎょうき将軍、安西侯あんせいこう、五千の軍勢とともに緜竹めんちくに鎮守する

  趙粛ちょうしゅく 武騎ぶき将軍、平西侯へいせいこう、五千の軍勢とともに涪城ふじょうに鎮守する

  趙説ちょうせつ 都騎とき将軍、鎮西侯ちんせいこう、五千の軍勢とともに少城しょうじょうに鎮守する

  王辛おうしん 開成かいせい将軍、靖西侯せいせいこう、五千の軍勢とともに葭萌かぼうに鎮守する

  王角おうかく 輔成ほせい将軍、巴西侯はせいこう、五千の軍勢とともに巴西はせいに鎮守する

  李棋りき 建成けんせい将軍、隴西侯ろうせいこう、五千の軍勢とともに徳陽とくように鎮守する

  李恭りきょう 大司寇だいしこう西平侯せいへいこう、一万の軍勢とともに廣漢こうかんに鎮守する

  李樊りはん 大司農だいしのう西寧侯せいねいこう、七千の軍勢とともに上邽じょうけいに鎮守する


それ以外の郡縣、陰平いんぺい江油こうゆ文階ぶんかい巴東はとう閬中ろうちゅう洛城らくじょう陽平ようへい宜陽ぎようの地にはそれぞれ三千の軍勢を置いて鎮守を命じる。

 また、とりことされた文碩ぶんせき羅承らしょう張金苟ちょうきんこうを血祭りにして戦死した李攀りはん李超りちょう李蕩りとう閻式えんしき李離りり李國りこく張寶ちょうほうの霊を慰めた後、それぞれに諡号しごうを贈って子孫を封じたのであった。

 境内に大赦をおこない、法律を簡素にしてたがいに侵擾することを禁じ、清廉な官吏を登用して民の疾苦しっくを問い、農桑を勧めて関津を設け、険要の地には軍営を置いて盗賊を防いだ。

 これより、蜀の民は生業を楽しみ、中原であってもその安寧には及ばないと言われるまでになったことであった。

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