第百二回 羅承たちは閻式を害す

 益州牧えきしゅうぼくを自称した李雄りゆう閻式えんしきの進言により羅特らとくを説き伏せ、刃に血塗ることなく成都せいとを陥れた。これを祝して李雄は酒宴を開き、諸将を集めて慶賀した。

 その後、李譲りじょうを遣わして涪城ふじょうを、李堪りかんには洛城らくじょうを攻略するよう命じた。

 二人はそれぞれに軍勢を率いて成都を発し、李譲は涪城に到って城攻めにかかる。涪城の守将である任明じんめいは出戦して包囲を防ごうとしたが、流れ矢にあたってあえなく絶命した。州丞しゅうじょう葉蓁しょうしんもまたとりことされて軍勢を率いる将を欠き、遂に涪城は落ちて李堪は洛城に向かった。

▼『晋書しんじょ地理志ちりしによると涪城は梓潼郡しどうぐんの属縣、州の高官である州丞がいることは考えにくいが、混乱の中で身を寄せていたと解するのがよいだろう。

 洛城には羅尚らしょうが七千の軍勢を入れて食にありつかせていた。

 李譲たちが涪城に攻めかかったと知り、守将の顔経がんけいは出戦して防がんと図る。両軍が陣形を構えて野戦に入ると、馬を出して叫ぶ。

「流民の賊徒ども、何ゆえに吾が城を侵そうとするか。早く馬を下りて投降すれば、死罪だけは免じてやろう」

 陣頭の李堪はそれを聞いてせせらわらう。

「自ら死を求める豚めが。命乞いをしたところでお前は殺す。しかも妄言を放つとは呆れて言葉もない。誰か出てあの豚を擒とせよ。屍の血糊で軍神の旗を祀るとしよう」

▼『史記しき高祖こうそ本紀ほんぎ「高祖は乃ち立ちて沛公はいこうる。黃帝こうていまつり、蚩尤しゆう沛廷はいていに祭りて鼓旗こきちぬれり」の一文があり、注に「應劭おうしょうわく『きんとは,祭るなり。にえを殺して血を以て鼓に塗るを釁と曰う』」とある。犠牲の血を鼓や軍旗に塗って祀る風習があった。蚩尤は軍神として祀られた。

 その言葉が終わるを待たず、馬につけた鈴を鳴り響かせた厳楡げんゆが燕尾の双鎗を手に馬を馳せる。顔経が馬を飛ばして迎え撃つも、十合を過ぎたところで鎗に貫かれて馬下に果てた。

 顔経の死を見て官兵たちは戦意を失い、李堪は軍勢を率いて攻めかかる。

 官兵たちは我先に逃げ出して陣を棄て、厳楡は勝勢を駆って斬り乱した。大いに慌てて洛城に入ることもできず、官兵たちは涪關ふかんを目指して逃げ去っていった。

 厳楡は敗兵を追わず城に攻め入り、李堪もその後につづいてついに洛城を陥れた。

 城内の民は道に並んで軍勢を迎え、伏して命乞いをするばかり、李堪は高札を掲げて無用の殺生を禁じ、静寧のうちに洛城は李雄の有に帰したのであった。


 ※


 使者が成都に走って捷報しょうほうを伝え、李雄はさらに上官晶じょうかんしょう文斌ぶんぴんを遣わして周囲の属縣を従わせる。十日ばかりの間にことごとく降り、その報告が李雄に届いた。李雄はさらに李國りこく李雲りうんに三万の軍勢で漢中かんちゅうを落とすように命じ、麹歆きくきん趙粛ちょうしゅく趙誠ちょうせいたちを副将に任じた。

 新たに漢中に赴任した太守は姓名を張殷ちょういんといい、李雄の軍勢が向かって来ると知るや、自ら一万の精鋭を率いて定軍山ていぐんざんの東に防塁を設け、到着を待ち受ける。李國たちは厳戒に阻まれて進むに進めず、陣を構えて対峙すること十日に及んだ。

 李國が言う。

「吾らの糧道は長く伸びて断たれやすい。そのうえ、晋兵の守りは堅くにわかに破れぬ。ここで日を送っては糧道を断たれて窮地に陥る懸念がある。どうしたものか」

 諸将の意見は紛々として決着せず、副将たちには李雲に軍を返すよう勧める者もあった。李雲はその意見の一理を汲み取って李國の意見を問うた。李國は言う。

「軍勢を進めて難局に直面すれば成都に引き返すという意見が出るのは当然のこと、しかし、これにも懸念がある。張殷が吾が軍勢に間諜を入れて動静を探っていることは疑いなく、軍を返そうとすれば、必ずや背後より襲ってくる。それに乗じて敵を破るのが上策であろう」

 そう言うと、王角おうかく李棋りきを呼んで命じる。

「お前たちは剛勇の士であるゆえ、特に命じる。八千の精鋭を率いて間道かんどうより定軍山の北に出て、帰路に伏せて城に戻らせるな。上官晶は五千の兵を率いて遊軍となり、二人が張殷と戦に入れば加勢せよ。李雲と趙粛は三千の兵を率いて帰路の右に、上官琦じょうかんきと趙誠は同じく三千を率いて左に伏せよ。毛植もうしょく襄珍じょうちんは麓に伏せて張殷が出戦するのを待て。空営を焼き払ってその意を怯ませるのだ」

 それぞれの伏処を定めると、李國は自ら一万五千の軍勢を率いて軍を退きはじめる。軍勢が減った分は旌旗せいきを持つ者を増やして偽装した。


 ※


 晋将の張殷は李國が軍を返したと聞くと、全軍を率いて跡を追う。張殷が追撃に出たと知り、李國は軍勢の足を速めて先を急ぐ。張殷は疑いを持たず、追い討ちに討つべく軍勢を急がせた。

 李國は張殷が伏処に入ったと見て号砲を放つ。

 砲声の響きを合図に張殷の背後より李雲と上官琦が兵を発し、李國は軍勢を返して挟み撃った。張殷は山道の狭さに動きを阻まれ、平野を目指して軍を返す。この時、遥か先の軍営のあたりから濛々もうもうたる黒煙が立ち上っていた。

 張殷が馬上より叫ぶ。

「吾が軍営が襲われている。引き返して漢中を守り抜くのだ。全軍、力を尽くして帰路を切り拓け。伏兵がまだ潜んでいると思って油断をするな」

 晋兵たちは必死の勇を奮って帰路を奪い、山道より逃れ出た。

 そこに毛植、襄珍の二将が襲いかかり、張殷の軍勢は散り散りに散じて半数を失った。張殷はいよいよ漢中に退くことだけを思い、定軍山を目指して馬を奔らせる。

 二十里(約11.2km)も行かないうちに再び砲声が響くと、山北に伏せた王角と李棋の軍勢が現れ、帰路を阻んで口々に言う。

匹夫ひっぷ張殷、すみやかに下馬して投降し、殺戮を逃れよ」

 李國の裨将ひしょうである羅承らしょう張金苟ちょうきんこうが命賭けで防ぎ、王角と李棋が加勢するも張殷は物ともせず、陣形中央を突き破った。

 その先に一将が現れて抜き身の大刀を手に名乗りを上げる。

「お前は李益州りえきしゅうの麾下に上官晶ありと知っておるか」

 よくよく見れば、その威風はこれまで見た将にも及ぶ者がない。張殷は上官晶と漢中に向かう道を争うのを避け、葭萌関かぼうかんに向かう間道に逃れてそのまま長安ちょうあんに逃げ去った。

 李國は勝勢に乗じて漢中の地に攻め入った。

 梓橦しどうの太守の張演ちょうえんが救援に駆けつけたが、時すでに遅く漢中は李國の拠るところとなり、敵地と化した漢中より軍勢を抜いて梓橦に退こうとする。

 李國はそれを知ると上官晶、羅承、張金苟に追撃を命じ、張演は懸命に戦ったもののついに梓橦を棄てて同じく長安に逃れ去った。李國は漢中の鎮守を上官晶に命じて毛植をその輔佐とし、李棋と襄珍に梓橦の鎮守を命じて成都に軍勢を返した。


 ※


 漢中からの捷報を受けた成都の李雄は閻式に命じ、漢中、梓橦の戦の論功行賞をおこなわせた。この時、閻式は羅承と張金苟の軍功を評価せず、二人は何らの賞も与えられなかった。

 それを不満として訴え出ると、閻式が叱って言う。

「お前たち二人の任は裨将に過ぎず、また挙げるべき軍功もない。張殷の帰路を断ち、張演を追撃するよう命じられても首級を挙げておらんではないか。この期に及んで軍功を言い立てて大臣の前で賞を争うとは無礼であろう。賞を欲するのであれば戦場で尽力して抜群の功績を挙げよ。さすれば吾も喜んでお前たちに賞を授けられる。今は口をつぐんで退くがよい」

 二人は賞に預からないばかりか叱責されて面目を失い、閻式への遺恨を深く残したのであった。

 羅承の妹婿は名を文碩ぶんせきといい、大将軍の官を与えられているものの、元は投降した官将である。挙兵より李特に従ってきた閻式とは平素より不和であった。

 羅承と張金苟の二人はこの文碩に事情を述べて意見を問うた。文碩が言う。

「それなら殺してしまえばいいではないか」

「閻式は参謀の地位にある重臣、それほど容易く殺せようはずもない」

「閻式を殺すなど容易いことよ。出兵の機を見計らって独りになった隙を窺えば一人の壮士で事足りよう。何を畏れることなどあるものか」

 二人は文碩の言に深く頷いて帰っていった。


 ※


 この時、羅尚らしょう夔州きしゅうで軍勢を養っていたものの、涪城が李雄に奪われたと聞くと軍勢を返して奪回に向かった。そこに斥候が帰って告げ報せる。

「李雄は成都を陥れてそこに拠り、漢中を襲って奪い取りました。さらに梓橦をも落としてその軍勢は破竹の勢い、容易く打ち破れそうもありません」

 羅尚はついに上奏文を認めて洛陽らくようの朝廷に奉じ、流民による大逆を告げ報せた。

 朝廷の大臣たちは数日に渡って議論したものの、一人として議論を決する者がない。異論百出する中にあって、ひとり王戎おうじゅうが進み出て言う。

「漢を自称する胡賊の劉淵りゅうえんが中原をみだすことこそ心腹の大患でございます。蜀の李雄は遍隅へんぐうの地にあって中原に向かう志を持ちません。蜀に限るのであれば、洛陽より討伐の軍勢を発せずとも禍はさしたるものではありますまい。ゆえに、ただ勅を発して羅尚に巴東はとう夷陵いりょうの軍勢の指揮を許し、涪関を守って蜀から東の荊州けいしゅう襄陽じょうように通じる道を塞がせればよろしいでしょう。その後、山西さんせいの胡賊を撃ち滅ぼすのを待って軍勢を蜀に向かわせれば、一鼓の下に平定できましょう。しばらく捨て置いたところで蜀は手遅れにはならないのです」

 この時、齊王せいおう司馬冏しばけいが朝政を専らにして成都王せいとおう司馬穎しばえい)、東海王とうかいおう司馬越しばえつ)、河間王かかんおう司馬顒しばぎょう)の諸親王と和せず、それぞれの鎮所に軍勢を擁して齊王の動静を窺っていた。また、齊王もそれを承知しているがゆえに李雄追討の宣旨を発したところで諸親王は動かないと察している。

 王戎の進言は渡りに船であり、即座にその意見が用いられて勅使が夔州に遣わされた。

「その意のままに便宜に従って事をおこなえ」

 要するに、巴東と夷陵の軍勢の指揮を委ねる代わりに万事みずからで対処せよ、ということである。討伐の軍勢が発されることを期待していた羅尚は宣旨を受けて愕然とし、思い悩んでついに病に臥した。


 ※


 羅尚は単独では李雄に敵し得ないと思い知り、救援を乞う書状を認めると、張興ちょうこう荊州けいしゅう刺史の劉弘りゅうこうの許に遣わした。羅尚の書状を受け、劉弘は僚属を集めて事を諮る。

「羅益州より救援の求めがあった。援軍を遣わさなければ必ず敗れるだろう。そうなると蜀の禍はこの荊州にも及ぶおそれがある。どのように処するべきであろうか」

 僚属たちは口を揃えて言う。

「李雄が大望を持っていれば、長江の流れに従って東に下り、荊州を襲うであろうことは使君しくん(劉弘、刺史に対する尊称)の思し召しのとおりでありましょう」

 ついに劉弘の意は決した。部将の向奮しょうふんに一万の軍勢を与えて前駆を命じ、五万石の兵糧を運んで羅尚の軍勢に給するよう張興に命じる。

 劉弘は張興を私室に呼んで言う。

「この兵糧を羅益州に給して軍勢を養わせよ。吾も日ならず大軍とともに加勢に向かう」

 張興は恩を謝したものの、あわせて羅尚の判断が当を失している旨を述べて荊州に残りたいと頼み込んだ。張興さえ永くつづく蜀の戦乱にんでいたのであった。

 劉弘は張興を諭して言う。

「今や羅益州は孤軍となって戮力りくりょくする者とてない。卿は腹心の旧将であり、一時一刻の間であっても傍らを離れてはならない。吾が荊州に留まることを許せば、羅益州は頼むべき者を失う。仕官する身にあっては始終を正しくせねばならん。貧賤の頃に羅益州より抜擢された恩を忘れず、吾が言に従うよう勉めよ」

 張興は正論を聞いて恥じ入り、意を決して向奮とともに軍勢と糧秣を引いて長江の流れに逆らい、蜀に向かった。


 ※


 羅尚が荊州刺史の劉弘の救援を仰いで成都奪回を企図しているとの風説は、すぐさま李雄の耳に伝えられた。李雄は諸将を集めて対策を諮る。

「羅尚は荊州から援軍を得て成都奪回を企て、荊州の軍勢は長江を遡って白帝城はくていじょうを過ぎたと聞く。すみやかに防備を固めて備えねばなるまい」

 徐輦じょれん范長生はんちょうせいが言う。

「荊州の軍勢が蜀に入ろうとするのであれば、精鋭を涪城に遣わして州境で迎え撃つのがよろしいでしょう。州内に敵を入れては民が憂えて騒ぎ出します」

「それならば、誰を遣わすのがよいか」

「涪城は蜀の関門、この任は重責となります。閻司徒えんしと(閻式、司徒は官名)が出馬されねば防ぎきれますまい」

 李雄はその意見に従って李離りりを総帥とする三万の軍勢を整え、閻式を軍師に任じる。漢中に鎮守する部将も呼び返して涪城に向かわせ、羅尚の到来に備えることとした。

 軍令が発せられたと聞き、張金苟は羅承に言う。

「先の漢中攻めにあって吾らは死力を尽くして張殷を阻み、漢中に還らせなかった。これは大功であろうに、閻式は功を録して賞をおこなわず、かえって衆人の前で叱責して吾らは面目を失った。思い出すだに忌々しい。先の文碩の言によれば、今こそ閻式に復讐する好機というものだ。しかし、軍中にあっては李離がつねに閻式とともにある。これをどうすべきであろうか」

「吾ら二人が利刀を帯びて中軍に忍び込み、それぞれ一人を刺し殺せばよいだけのことよ」

 二人は夜半に李離と閻式がともに居する幕舎に忍び込むと、羅承は閻式を、張金苟は李離を刺し殺した。深夜のことでもあり、軍中でそれに気づいた者はない。

 二人は軍を抜け出して首級を手土産として羅尚の軍勢に投降したことであった。

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