第六十四回 諸王は趙王司馬倫と孫秀を誅す

 洛陽らくようにある趙王ちょうおう司馬倫しばりん孫秀そんしゅうは、遣わした両軍の勝敗を案じていた。そこに徐健じょけんが馳せ戻って言う。

孫輔そんほ司馬雅しばが駱休らくきゅうの諸将は河間王かかんおう司馬顒しばぎょう)が遣わした張方ちょうほうに斬られました」

 その報告を聞くと、趙王は驚愕して顔色は死人のようになり、半時(一時間)ばかり無言であった。ようやく口を開いて問う。

閭和りょわ路始ろしゅう張泓ちょうおうはいかがした」

「張泓と路始は軍勢とともに伊闕いけつの山中に逃れ、閭和は負傷して陣中に落命しました」

 趙王は嘆く。

「当初から従う旧将がつづけて討たれ、もはや幾人も残っておらぬ。大事はの上を去ってしまった」

 趙王が嘆く最中、孫會そんかい伏胤ふくいん張衡ちょうこうたちが駆け込んできた。地に伏して言う。

成都王せいとおう司馬穎しばえい)の軍勢の一陣を破って公師鎮こうしちんを斬り、三十余里を奔らせて進軍を阻んだものの、上党じょうとう石大夫せきたいふ石莧せきかん)の養子の石勒せきろくなる者が、石桑せきそうという者とともに石崇せきすうの仇を討つと称して攻め寄せ、許超きょちょう士猗しいの二人を討ち取られて大敗を喫しました」

 それを聞いて孫秀も顔色を失い、趙王は涙を流して恐れに体を震わせるのみであった。その時、砲声がつづけて響いた。何事かと騒ぐうちに士卒が駆け込んで言う。

「成都王の兵が到着し、守門五城の兵馬は各々門を閉ざして厳戒を布いております」

 それを聞いて趙王は孫秀と軍議を開いた。

「到着したのは成都王の軍勢だけです。精鋭を選んで野戦を挑み、すみやかに退けねばなりません。この一軍を退ければ、諸王は怖れて洛陽に近寄りますまい。さらに、各地に詔を下して勤皇の兵を召集するのです。兵さえ集まれば諸王の軍勢など容易く破れましょう。すみやかに退けて軍民を安堵させることが肝要です」

 伏胤の言に趙王も同意して詔を下そうとした。そこに兵が駆け込んで言う。

齊王せいおう司馬冏しばけい)、東海王とうかいおう司馬越しばえつ)、長沙王ちょうさおう司馬乂しばがい)、瑯琊王ろうやおう司馬睿しばえい)、新野公しんやこう司馬歆しばきん)の軍勢も到着し、六門を隙なく囲んでおります」

 趙王は前非ぜんぴを悔いて嘆いた。

「孤は執政の身にあって権は人主に等しく、それ以上に求めるものなどなかった。卿らも栄達して及ぶ者はおらなんだ。それにも関わらず、何ゆえに孤を誤らせて聖上を廃し、この危難を呼び寄せたのか。旧将はみな戦没して還らず、誰が孤のために力を尽くして戦うというのか。孤は道を誤ってしまった。これほどの大軍に城を囲まれ、どうするというのだ」

「往時の過ちを悔いても及びません。為すべきことを諮って目下の危難を凌ぎ、その後に正道に立ち返られればよろしいのです。三部の司馬を遣わして民より兵を募り、城壁に上げて守らせましょう。洛陽の城壁は堅固、にわかに落城することはありません。持久して日を送れば敵は糧秣を欠いて飢餓に陥ります。そうなれば、諸王の軍勢など烏合の衆に同じ、心は離れて内より変を生じましょう。その時に謀を用いれば容易く打ち破れるはずです」

▼三部の司馬とは、左衛さえい右衛ゆうえいの禁軍に置かれた前駆ぜんく養由ようゆう強弩きょうどの三司馬を言う。いずれも禁軍の指麾にあたる官と考えればよい。

 趙王の嘆きに孫秀が策を勧めるも、伏胤は呟く。

「この策はあたるまい。諸王はすでに心を合わせて大事を誓っていよう。糧秣を欠くことなどありえぬ」

 孫秀がしたり顔で応じる。

「そうではない。鶏の群を飼っておれば、一日として互いについばみ合わぬ日はない。ましてや諸王の心が一致するなどありえぬこと、少しでも間隙があれば、弁舌の士を遣わして調略し、河間王と通じて大位、重禄を約束してやればよいのです。河間王と齊王は犬猿の仲、軍勢を出した理由は齊王の後塵を拝するを嫌ったことに加え、皇太弟こうたいていを許したにも関わらず入朝させなかったがゆえに疑心を懐いてのことです。河間王の軍勢が離脱すれば諸王の軍勢も懈怠けたいします。隙を突いて打ち破れば、畏れて自ら従いましょう。これは袁紹えんしょうたちを董卓が破った計略と同じことです」

 趙王は孫秀の献策に従い、壮丁そうていの民を徴発して防禦に充てた。日夜警戒にあたる民に休息はなく、人々の怨みの声が聞こえない日がない有様であった。


 ※


 諸王の兵が洛陽を囲んで一月を超え、騒然とした城中には安らぐ日もない。

 叛乱を懼れた孫秀が軍士に手厚く褒賞を与えたため、倉庫の銭穀は失われて糧秣を欠くに至った。そこで、百官の家より穀物を供出させて軍士に給することとした。後日に弁償すると約して帳簿を作り、そこに財帛ざいはくの数を記録していく。拒む家には軍士を遣わし、強制的に供出させた。

 軍士たちはこの機に乗じて民家の米穀は言うに及ばず、鶏犬に至るまでを奪っていった。これより百姓の餓死する者は数え切れず、屍骸が道を塞いだ。財産を奪われた百官も深く怨み、城を抜けて齊王の軍勢に逃げ込もうと時機を窺う者ばかりとなった。

 左衛さえい将軍の王輿おうよは官民の怨みが深いと知り、中軍ちゅうぐん司馬しば 趙泉ちょうせん右司馬ゆうしば王催おうさいと密かに語る。

「思うに、六王の軍勢が洛陽を囲むのは、趙王と孫秀の罪を問うために過ぎぬ。城中の百官も万民もあずかり知らぬことだ。それにも関わらず、彼らと等しく困苦を受け、一日を過ごすにも一年を過ごしたように感じる。戦死や餓死する者が巷に溢れ、この城を永く保つことは難しい。ましてや、齊王をはじめとする諸王の怒りに触れれば、無事ではいられぬ。二公はどのように思っておられるか」

 王催が言う。

「内に糧食を欠き、外に救援はない。失陥は旦夕たんせきにあろう。諸王の軍勢が入城すれば、吾らも孫秀と並んで誅殺ちゅうさつされる。誰がそのようなことを望もうか。ただ打つ手がなく困苦を耐え凌いでいるに過ぎぬ。本意などということがあろうか」

 趙泉も王催に同じて言う。

「事ここに至っては、奸人とともに死する不明を避けるべく図るよりあるまい」

「満城の人々は趙王と孫秀を怨んで人心は離れているが、害を加えられぬかと畏れて従っているに過ぎぬ。一人が首唱すれば、同心しない者はあるまい。今や吾が三部は兵馬の権を握っており、権柄けんぺいの半ばを得たも同じだ。城を破られぬうちに左右衛さゆうえいの将軍とともに城門を開いて諸王の軍勢を招き入れ、孫秀の府に斬り込んで生け捕りにし、一城の生命を救うのが良策であろう。それでこそ禍を転じて福となすことができる。吉凶はこの一挙にあり、事を誤ってはならぬ」

 王催は趙泉につづいて策を述べ、王輿が口を開く。

「公の言は吾が意に等しい。城が破られれば、玉石を選ばず焼かれるであろう」

 三人は意見が定まり、趙泉が提案する。

「事をおこなうにも衛士の心が分からぬ。吾が命を棄てて彼らの心を探ってみよう」

 趙泉が李儀りぎという者とともに衛士を集めて利害を説けば、衛士は声を揃えて言う。

「ただ将帥のご命令に従います。一人として叛く者はおりません」

 衛士たちの声が巷に響くと、趙泉はついに命を下した。

「孫秀の府に向かい、身柄を拘束しろ」

 進むうちに従う者が加わり、到着する頃には数万人に上った。


 ※


 衛士を先頭とする人々は一斉に府門に押し入り、遮る者を斬り殺して父子だけでなく一族郎党から奴僕に至るまですべて捕らえた。

 趙泉は城門を開いて諸王の軍勢を迎え入れ、諸王はたちまち宮城に入って趙王と太子の司馬夸しばかとりことする。石桑は駙馬府ふばふに入って孫會の身柄を拘束し、石勒は城内を捜索して趙王の子の司馬楙しばぼう司馬虔しばけんを生け捕りにした。張方ちょうほうもまた司馬馥しばふく司馬詡しばくを捕らえてきた。趙王の一党はことごとく法をつかさどる官署に集められる。

 孫秀は日ごろの怨みにより刑戮けいりくを受ける前に軍士に八つ裂きにされた。石桑は自ら孫會の体を割いて肝を取り出し、石崇に奉げてその一家を祀った。

 齊王、成都王の命令により、逆党の中心にいた伏胤、孫弼そんひつ謝惔しゃせん殷渾いんこん卞粋べんすい張林ちょうりん張衡ちょうこう徐健じょけん楊珍ようちん胡沃こよく蔡璜さいこう莫願ばくがん高越こうえつを捕らえ、十三名とその一族百七十三人を残らず刑戮した。

▼「蔡璜」は『通俗』『後傳』ともに「蔡墳」であるが、誤りと見て改めた。

 李儀りぎの一族だけは、父の李儼りげんが先に戦死し、その身も改心して正道に帰したがゆえに刑戮を免れた。

 齊王は百官とともに司馬衷しばちゅうを迎えて大位にかえし、高札こうさつを掲げて民を安んじる。

 趙王は王号を奪われて庶人におとされ、金墉城きんようじょうに囚われることとなった。その後、齊王は諸王とともに朝参して煽動の罪を請うた。

「王らにどうして罪があろう。孫秀、趙王が妄りに不道をなしたがゆえのことである。朕が再び天日の光を見て位に復り得たのは、諸王の大功によるものである」

 晋帝は諸王を慰撫してそう言い、齊王を大司馬だいしばに任じ、相國しょうこくとして国政を委ねることとした。また、九錫きゅうしゃくを加え、乗輿じょうよでの入朝と剣をいての上殿を許し、その勲功を顕彰する。

 成都王は大将軍だいしょうぐん都督中外諸軍事ととくちゅうがいしょぐんじ假黄鉞かこうえつに任じられ、録尚書事ろくしょうしょじとして朝政に参与することを命じられた。

 河間王は鎮所に留まっていたが、五千戸の増邑を賜わり、部将の張方は撫軍ぶぐん将軍に任じられた。麾下の副将たちも将軍号を賜り、あわせて采絹いろぎぬ三百疋をそれぞれに賞され、張方は軍勢を率いて長安ちょうあんに戻っていく。

 長沙王は侍中じちゅう太尉たいいに、東海王は中軍都尉ちゅうぐんといに任じられて洛陽の兵権を委ねられた。新野公は王号を許されて新野王となり、瑯琊王は節鉞せつえつを假すされて一千戸の増邑を賜り、それぞれ鎮所に還っていく。


 ※


 成都王は石勒の功績を上表して官職を授けられるよう願ったものの、大臣には反対が多い。

「石勒は上党で成長して胡人の習俗に親しんでおり、その心中は知れたものではない。官職に任じて朝廷に置くのはよろしくない」

 多くの大臣はそう考え、朝議は紛糾して決さない。

 それでも成都王は石勒を登用したく思い、伊闕山いけつさんに逃れた張泓ちょうおう路始ろしの捕縛を命じた。

 石勒は命を受けて孫秀、司馬夸の首級を携えていき、すでに洛陽が陥落したことを示した。張泓と路始はなお投降せず、石桑は十二将を率いて山中を捜索し、営塁を見つけて攻めかかった。

 二戦したところで路始は郭黒略かくこくりゃくに斬り殺され、それを見た張泓は怖れて逃げ出す。石桑は自ら追って生け捕りにした。

 成都王は大いに喜び、張泓を刑戮した功績として金千両(37.3kg)、采絹千疋をわたくしに下賜し、軍士にはそれぞれ布一疋、銀一両(37.3g)を賜った。さらに、石崇の子の石樸せきはくを封じて衛尉えいいの官に任じ、本縣の田千畝を与えて旧居に帰らせた。

 石勒が上書して恩を謝すると、朝廷より勅があって上党の守備の官に任じられた。あわせて張泓が率いていた一万の軍勢と糧秣を与えられ、上党に戻るように命が下る。

 石勒は喜ばなかったが、石桑がそれをたしなめた。

「吾らの意は晋朝にありません。石老爺せきろうやの復仇を果たしたのですから、これでよしとすべきなのです。洛陽に長逗留して本分を見破られれば、かえってよろしくない。その上、洛中らくちゅうでは齊萬年せいばんねん劉淵りゅうえんの叛乱から数年を経て、ついに和睦して戦を止めたと申します。洛陽を出て北に向かい、陥穽かんせいを脱しましょう。ぐずぐず滞留している暇などありません」

 石勒は石桑の言に従い、成都王に辞して上党に還っていった。

 齊王は上奏して王輿、王催、趙泉、李儀の四人が百姓の命を救った功績を賞し、それぞれを護国ごこくへん将軍に任じて洛陽の兵馬を掌らせた。さらに、淮南王におくりなを加えてその後嗣を立て、趙王の府第ふていこぼった。

 これによりまったく時勢は一新されるに至ったことであった。

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