第五十四回 趙廞は謀叛して姜發を請う
「大事をおこなう時機が来たのではないか」
「まだ時機とは申せません。それでも、すでに朝廷に阻む者なく、問題は外鎮の諸王のみです。調べたところ、
▼大狄長は架空の官職、孟観が前任者であることから西北辺境の警備の任と知れる。
「よかろう。ただ、警戒して洛陽への召還に従わぬこともあろう。
▼汶山は南流する長江の支流沿いに位置する成都より北西、長江本流沿いに位置する。なお、内史は封国の統治にあたる官であり、郡太守に相当すると考えるのがよい。
趙王はそう言い、腹心の
「後任の耿縢を伴っており後事に憂いはない。すみやかに入朝して勅命を受けるように」
※
趙廞は蜀にあって賈后の死を伝え聞いており、自らも賈后の与党と見なされて趙王に誅殺されるかと懼れていたところ、袁寵から入朝を命じる詔を伝えられ、趙王と孫秀の謀と察していた。
「今や賈后の一族は婚家の末に至るまでことごとく罪せられました。賈后の親党にありながら、明公は蜀の僻地にあればこそ幸いにも罪を免れるを得たのです。この度の
「どのように断るべきか」
趙廞の問いに張燦が応じる。
「
詔を拒むよりないと覚った趙廞は、不安を隠さずに言う。
「二公の言はまさしく吾を愛する心情より発したものである。しかし、吾らは智謀の士を欠く。詔を拒んで朝廷に敵する大事をおこなうにあたり、
ふたたび張燦が言う。
「明公は
▼青城山は成都から卑水を遡って長江本流と合流する安都にあり、成都の北西、汶山よりは南に位置する。
「名は聞き及んでいるが、蜀漢への臣節を守っていては招けども応じるまい。助力を得る術はないか」
趙廞が嘆くと、杜淑が言う。
「一計がございます。明公が刺史の身分で青城山の
趙廞はその言葉に従い、翌日には
※
姜發と姜飛は盧を深林の奥に結び、渓水を汲んで枯柴を折り、
この日、兄弟は山麓の家に戻っており、蜀漢の功業は二人では復しがたいと考えていたところ、二羽の
「鵲が騒ぐということは、客人が訪ねてくるのか」
姜發が言うと、
▼「剥啄の響き」は、来客に伴う物音を言う。
「身分のある客が来たらしい。官吏は避けねばならぬゆえ、お前が見てきてくれ」
言われた童子が門に向かい、姜飛は物陰から密かに客の様子を窺う。
門外では
▼方巾と素服は質素な私服の意味、官服ではないことを意味する。
二人とも晋の官吏には見えず、何者とも分からない。姜發は衣服を整えて出迎えることにした。気づいた客はふたたび恭しい礼容を執り、姜發は二人を奥の草堂に招じ入れる。
坐を定めるために身分を問えば、客の一人は刺史の趙廞であった。姜發はしきりに上座を勧めるが、趙廞は固辞して
「明公がわざわざこの
「余事にはあらず、久しくお二人が、南海に沈む真珠のごとく山中に隠棲されていると聞き及んでおりました。いささかの事情があり、お二人を府中にお招きして相談したいと考えておりましたが、ただ使いを出しても応じられまいと思い、自ら伺ってお願いさせて頂こうと来たった次第です。願わくば、
▼老父は年長者が謙遜して遣う一人称。
「吾らは非才の身ではありますが、亡父が国事に殉じた後は老母の厳訓を受け、深山に隠棲して世に出るのを避けております。栄達は吾らの望むところではございません」
姜發がにべもなく拒むも、趙廞は食い下がる。
「宝のような才を懐いた君子が仕官を躊躇して才を発揮せず、父母の名を宣揚しないのは孝とは言えません。また、旧主が国を失ってその子孫を奉じようとしないのであれば、忠とは言えません。お二方が晋に仕える気がないとは承知しております。ただ、今や晋室は内に争って殺し合い、
漢業の復興に心を動かされた姜發が問う。
「明公は国家の西南隅を守り、
「今、晋室は汶山の内史であった耿縢を後任に遣わし、すでに成都の
▼『
姜發と姜飛には趙廞に仕える意思はさらにない。しかし、漢業の復興は平生の悲願であった。
「明公により劉氏の祭祀が保たれるのであれば、実に吾ら兄弟の悲願に他なりません。心に
趙廞は姜發に偽りなきを誓い、ついに姜飛も出て拝礼した。姜飛の身長は八尺五寸(約264cm)、虎のような眼に
「この二君があれば、耿縢ごときは怖れるに足りません。蜀の平定とて容易いことです」
杜淑はそう言って悦んだ。
※
姜發は趙廞の一行に食事を勧め、老母に暇を告げて家人を誡めると、趙廞たちとともに成都を目指して出発した。常俊は百人ほどの兵卒を率いて
趙廞の子の趙瑛、僚属の
「列君に
杜淑が進み出て言う。
「一寸の虫であっても命を惜しむもの、明公が禍に
杜淑に促されて姜發が口を開く。
「耿縢を防ぐことは難しくありません。軍勢を率いて城下に来れば勝負は分かりませんが、明公が官吏を遣わして迎接すれば、耿縢はここに来て相見をおこなうでしょう。それを利用して埋伏のうちに誘い込めばよろしいのです」
そう言うと、居並ぶ諸将に
※
耿縢はこの時、一軍とともに成都の少城に入っていた。
「常例として新任の官員が到着した時は任地の官吏が州境まで出迎える習いであるが、何ゆえに成都の官吏は一人として出迎えに姿を現さぬのか」
耿縢が問い、
「常例では前任者が離任した後に後任者が到着するもの、それゆえに官吏たちが州境にまで出迎えに来るのです。趙公(趙廞)はまだ成都にあって離任しておらず、大人が到着されても出迎える者がいないのでしょう。それに、趙公は久しく成都の刺史を務め、急な転任を心中に悦んではおりますまい。それも理由の一つであるやも知れません」
そこまで言ったとき、にわかに伝令の者が現れて言う。
「趙公の使者があり、大人を迎えに参ったとのことです」
耿縢は起ち上がって装束を改め、馬を引いて出立せんとした。陳恂が諌める。
「趙公は誅殺された賈后の姻戚、晋室を恨む心がありましょう。さらに、大人と趙公はかねて犬猿の仲、趙王と孫秀が趙公の後任に大人を挙げた理由も、お二人が相容れぬ仲であるがゆえです。その言を信じて妄りに出向けば、旧怨を呼び返して大事に至らぬとも限りません。ここは出向くのを控え、趙公が離任した後に入城されるのがよろしいでしょう。この出迎えは人を遣わして
「吾は勅命により後任に挙げられ、趙公の職任を私に奪おうとしているわけではない。疑心を持つには及ばぬ。それに、出迎えを辞すれば、吾が怖れたように思われよう。趙公が疑心を懐いて
「先に
陳恂が重ねて諌めるも耿縢は容れず、陳恂は後軍を率いて少城に残ることになった。
「吾より観れば知勇ともに欠けた趙廞に遅れをとるはずもない。虎のように畏れるには及ばぬ」
立ち上がった耿縢は放言すると、軍勢の先頭に立つと成都を指して出立した。
※
途中、山道にかかってその隘口に至ると、その先には樹木が繁茂して伏兵を置くに絶好の地形をなしている。斥候を遣わして確認させるも、伏兵がある様子はない。
「趙廞が事を果たそうとするならば、ここに伏兵を置く。兵がいないとなれば、異変を懸念するには及ばぬ」
安心した耿縢は軍勢を率いて山道に進み入る。
数里も進んだところ、にわかに山頂より銅鑼の音が鳴り響き、前後より費遠、衛玉、常俊、許弇の四人が軍勢を率いて殺到してきた。
耿縢は隊伍を整えると、鎗を引っ提げ許弇に向かって突きかかる。許弇は耿縢に敵わず、その劣勢を見た常俊が加勢に寄せる。耿縢は怯まず二人を相手に奮戦して譲らない。二人が怯んだと見るや、少城に退くべく馬を返して奔り出す。その時、林中に潜んで成り行きを見ていた姜飛が鎗を引っ提げ馬を馳せ、道を阻んで大喝する。
「財物を差出し命乞いすれば、命ばかりは助けてやる。無駄に抵抗して命を落とすな」
姜飛の雄偉を見た耿縢は、戦を避けて逃げ延びようと馬を拍つ。そうはさせじと姜飛は馬前を阻み、鎗を向けて進ませない。
後ろからは先の四人が鬨の声を挙げて迫り来る。姜飛は初陣ということもあり、武勇を奮って敵味方の肝を破ろうと考え、決死の覚悟で鎗を振るう。その鎗先は雨が地を叩くように耿縢を襲い、支えきれずに
姜飛は馬を進めて間合いを詰め、耿縢の腰帯を掴んで鞍上に生きながら
「兵士に罪はない。すみやかに投降して刀鎗の錆となるを免れよ」
姜飛がふたたび大喝すると、兵士は武器を捨てて降伏を願い出た。
常俊、許弇などの四将は降伏した兵士を一箇所に集めて逃亡を許さず、引き連れて成都に戻っていく。先触れの者に捷報を告げさせ、成都に戻ると趙廞が自ら出迎えた。趙廞はすぐさま耿縢を斬り殺し、酒宴を開いて慶賀すると、三軍に重賞を施す。その後、少城の消息を探るべく密偵を放った。
※
耿縢の功曹参軍を務める陳恂は先に諌めを容れられず、少城に残って軍勢を整え、耿縢が趙廞の策に陥るのを防ぐべく備えていた。
そこに成都の密偵が趙廞の使者と偽って言う。
「昨日、流民の賊徒どもが耿公の財物を狙って人数を集め、ついに山中で襲って戦に至りました。耿公をはじめとする軍勢はその手にかかり、趙公は軍勢を整えて賊の捜索にあたっていますが、賊勢が盛んにしてにわかに平定できそうになく、小人を遣わされました。耿公の後軍もすみやかに成都に向かい、合力をお願いいたします」
「お前の言葉は偽りばかりだ。耿公の軍勢は五千、どうして賊徒ごときに遅れを取ろうか。これは趙廞が詭計を施して襲ったに相違ない。本来ならここで殺すところだが、命ばかりは助けてやろう。帰って趙廞に伝えるがいい。朝廷はかつてお前を陥れようとはしなかった。それにも関わらず、どうして同僚を殺して詔命を拒むか。頭を洗って断頭の戮を待ち、お前の罪が百姓に及ばぬようにするがいい。お前をただ帰すだけでは面白くない。これを吾が趙廞の奸策を見破った証拠に持ち帰るがいい」
陳恂はそう言うと、左右に下知して密偵の両耳を切り落として逐い出した。
すぐさま周囲の郡縣に書簡を送って軍勢を召集し、洛陽にも急使を遣わす。さらに各地に出向いて郷兵の豪傑に説いて復仇の軍勢を促し、旬日の間に一万の兵を得たことであった。
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