第四十一回 関防と王彌は左國城に到る

 関防かんぼう関謹かんきん王彌おうび王如おうじょ李珪りけい李瓚りさん樊榮はんえいの七人は、この時まで孔萇こうちょうの家にあって日々狩猟とかこつけ、劉璩りゅうきょ張賓ちょうひん趙染ちょうせんたちの消息を探っていた。

 齊萬年せいばんねん羌族きょうぞくを率いて挙兵し、涇陽けいように駐屯していると聞くに及び、孔萇、桃豹とうひょうの兄弟あわせて五人と語らい、一同して涇陽の境まで辿りついた。そこで旅人より聞くところ、漢軍は晋の梁王りょうおう司馬肜しばゆうと和議を結んで旅人たちも安心して道に上ることができるようになったと言う。

 それを聞いた李珪はさらに仔細を問うた。

「和議の後、羌兵はどこに向かったのか」

「みな山西の境界の外、左國城さこくじょうにあって馬邑ばゆう定襄ていじょう以西、氐羌ていきょうの北部の地はみな漢の邑と定められたらしい」

 旅人はそう言って道を急ぎ、一行は馬を廻らせて北の馬邑を目指し、ついに左國城に到った。

 その日はすでに日も落ち、旅籠に泊まろうとしたものの、家はあっても宿を貸そうという者がない。仕方なく先に進んだところ、公館らしき建物が並ぶ一角に到る。そこに貧相な店があり、ようやくそこに落ち着くことができた。

靳準きんじゅんの店が馬邑にあり、孔萇もその付近に住んでいたなら、この描写はおかしい。「馬邑を目指し」ではなく、「馬邑に引き返し」となるはずである。酉陽野史は「河西馬邑」と「馬邑」を別の場所と考えていたゆえの表現であろう。


 ※


「酒はあるか」

 孔萇が問うと、店の老人が答える。

「窮して元手を失い、一甕ひとかめの酒を売った金でまた酒を造っています。ですから、幾ばくかの酒ならございます。お客様は幾人おられますので」

「吾らは十二人、一人当たり酒は一斗(約11ℓ)、肉麺もまた人ごとに五斤(約3kg)ほど欲しい」

▼一斗は十升、明代の一升は約1.07ℓに相当し、一斗は約10.7ℓとなる。

 店の者は愕いて言う。

「酒は一斗しかございません。一人分で終わってしまいます。どういたしましょう」

「それなら、この辺りに酒家はないか」

「隣には酒も肉も置いてありますが、お客様の面体は人並み外れておりますれば、泊めることはないかと思います。吾らは悪意のある方々ではないと見てお泊めいたしましたが、お出しする酒肉がなく、誠に申し訳ありません。しばらくお待ちいただければ、何とか酒肉を整えて参ります」

「それには及ばぬ。ここに銀子がある。吾らのために酒肉を買ってこい」

 孔萇はそう言うと、一包の銀子、およそ五、六両(約200g)を手渡す。老人は酒肉を買いに出かけ、その夜は買い求めた酒肉で宴を開いて翌日を迎えた。老人が銀三両(約100g)を返そうとすると、孔萇が言う。

「この銀はお前に与えたものだ。それより、吾らを左賢王さけんおうのところに連れて行ってくれ。そうすれば、お前にもいささかの財産を与えてやれるだろう」

 老人は孔萇たち十二人を伴って軍営に行き、事情を伝えた。


 ※


 劉淵りゅうえん劉伯根りゅうはくこん劉和りゅうわたちに迎え入れるよう命じる。相見そうけんの礼を終えると、互いに悲喜の思いが交々こもごも思い返され、関防は成都から逃れた事情と以降の仔細を述べ、孔萇を指して紹介した。

「この人は孔北海こうほっかい孔融こうゆう、北海は官名)の孫にあたり、勇気は千軍に冠たり、志は世に屹立しております。その隣は桃豹と申し、孔萇とは生死を共にする友、兄弟同然の英勇の士です」

 劉淵はそれを聞いて孔萇、桃豹を冠軍かんぐん将軍に任じる。また、使者を各地に遣わして陳元達ちんげんたつ王伏都おうふくと支雄しゆう夔安きあん曹嶷そうぎょく刁膺ちょうよう、靳準たちを招き、行方不明となった汲桑きゅうそう趙勒ちょうろくの消息を尋ねさせた。

 さらに、関氏の関河かんか関山かんざん関心かんしん、王彌の一族の王邇おうじならびに諸家の眷属をも捜索させ、数ヶ月を経ずに大半の者が左國城に会するに至る。ただ、陳元達と徐光じょこうの二人は招きに応じなかった。これより五部の兵威は大いに振るい、みな劉淵の麾下に入った。

▼『後傳』「第二十三回 梁王は傅仁を遣して漢と和す」には「並びに關河、關山、關心、王通及び諸家眷を取る」となっているが、「王通」は「王邇おうじ」の誤り、また、関心は「第八十七回 姜發兄弟は関心と蜀を避く」で蜀から劉淵の許に向かうため、ここでは左國城に到っていない。よって、文意を改めた。


 ※


 この年、左賢王の劉豹りゅうひょうが世を去り、右部ゆうぶの長である劉宣りゅうせんは劉淵を推戴してやまず、北虜の地では天子を意味する大単于だいぜんう、左賢王の尊号を奉じて言った。

後主こうしゅ劉禅りゅうぜん)は蜀漢を失って漢の子孫はその家を継ぐ者もなく、泰始たいし七年(二七一年)に洛陽でこうじられました。子として父の業を継ぐことは当然の理、すみやかに即位されるべきです」

▼劉禅の子孫で侯に封じられたものは五十人余人いたと伝わる。

「叔父上のご好意は漢を思ってのことと承知しておりますが、陽泉侯ようせんこう(劉豹)が亡くなって日が経っておらず、まだ時機尚早というものです。しばらくはこの五部の地を安寧にし、便宜に従って事を行なうのがよろしいでしょう」

 劉淵がそう言うと、劉宣もそれに納得して右部へと還っていった。

これより、氐羌の異民族たちはすべて劉淵を推戴するようになる。左國城には将士が雲集して糧秣は積みあがっていた。

 漢の再興の兆しはすでに明らかとなり、ついに中国の恢復を始める時勢に至りつつあったことであった。

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