第四十回 梁王司馬肜は傅仁を遣りて漢と和す

 孟観もうかんが軍営に還って兵馬を点呼してみれば、その半数ほどを喪っていた。もはや賊との対峙は難しく、悶々として悩みは深まる一方であった。

「今や羌賊きょうぞくは志を得て跋扈ばっこし、吾らは平定できずにいる。どのように対処すべきか」

 梁王りょうおう司馬肜しばゆうの問いに孟観が応じる。

「そもそも、氐羌ていきょう夷狄いてきは久しく中国の患いでありました。これは吾らが対峙している羌賊どもに限ったことではありません。古来、辺境の夷狄を安んじた良将は、天子の命令を受けたその日から便宜に従って事をおこない、恩沢を敷いて反感を和らげ、時には威力をもってその叛乱を制圧し、みだりに夷狄を追い詰めず時宜じぎを見て事をおこなったのです。そのため、趙充國ちょうじゅうこく傅介子ふかいしたちは異域に功名を建て、強盛を誇る夷狄を長く屈服させて芳名を後世に伝えたのです。吾らが対峙する叛賊は、兵威を誇って非道を行い、兵力で制圧しがたいものがあります。遠来の軍勢を率いる吾らは、山野を跋渉ばっしょうして河川を渡った客も同然、叛賊は安逸にあって遠来の吾らを待ち受け、この地の主として堅守しています。吾らの率いる軍勢は数に限りがあり、日が経てば軍勢は老い疲れます。その軍勢で賊と力を比べても原野に白骨を晒すに終わるでしょう。吾らは積極的に戦ってはならぬのです」

▼趙充國は漢の頃に匈奴きょうどの侵入を防いだ将軍、「百聞は一見にしかず」の故事で知られる。傅介子も漢の人、西域の楼蘭ろうらん亀茲きじに使いして服属せしめた。

 梁王の長史ちょうしを務める傅仁ふじんが孟観の意見に和して言う。

「昔、漢の高祖こうそ劉邦りゅうほうの治世、張良ちょうりょう陳平ちんぺいがその軍師を務め、軍勢には英布えいふ彭越ほうえつ曹参そうしん周勃しゅうぼつ王陵おうりょう樊噲はんかいといった希代の勇将が居並んでおりました。それでも、匈奴と和親の約を結んだのです。それより以降、帝王であって高祖のひそみに習わなかった者はおりません。張騫ちょうけん蘇武そぶたちが匈奴やその他の蠻夷への使者となったのはこのためです。愚見によりますと、征伐の労をとるほかにも民を安んじる方法があろうかと存じます」

▼張騫は前漢武帝の命を受けて大宛への使者となった。蘇武は匈奴への使者となり、二十年に渡って抑留されても節を曲げず、後に帰国した。

「その方法とは、つまりどのようにすればよいのか」

 梁王の問いに傅仁が語を継ぐ。

「漢の高祖に倣い、両国の和により民の患を除くのがよろしいでしょう」

 梁王とてまったくの愚物ではない、賊軍との講和は幾度か脳裏に浮かばないでもなかった。さらにつづけて問う。

「卿はどのような手段でもって羌賊との和を整えるつもりか」

「夷狄の類は羊犬と変わりありません。恩を与えて養えば伏し従い、招き呼ばれれば寄って参ります。棒で殴って言うことを聞かせようとすれば逃げ走り、追い詰められれば噛みつくものです。羌賊とて平定しようと兵を出せば、抗って従いはしません。古人の言によれば『力によって人を屈服させては心服を得られず、徳によれば衷心ちゅうしんより悦服する』と申します。愚見によれば、まず臣が羌賊の本拠地の涇陽けいように赴き、その動静を探って参るのがよろしいでしょう。羌賊も齊萬年せいばんねんを喪い、士気はかつてほど奮いません。それを逆手にとって利害を説きます。応じるようであれば招安し、応じないようであれば先の慕容廆ぼようかい郝元度かくげんどのように官職を与えて慰撫し、大晋の藩屏はんぺいとするのがよいでしょう。これは魏絳ぎこうが戎狄と和した策であり、一時の利を得るに十分なものです。しかし、聖上せいじょうや皇后、宰相の心は常に同じではありません。楊氏と賈氏が政事を専らにしており、朝廷の内でも議論は分かれましょう。それを懼れて勅命に従い、あくまで平定するにしても、成功は容易ではありません」

▼慕容廆は鮮卑族せんぴぞく慕容部ぼようぶの首領、『通俗續後三國志』に詳しい。

▼魏絳は春秋時代の晋の大夫、悼公とうこうの頃に山戎さんじゅうが和を求めた際にそれを容れるよう勧め、これにより晋は覇者となる国力を培った。

 梁王は傅仁の言葉を聞いて言う。

「卿の言はまさにその通りであろう。ただ、羌賊は狡猾で招安に応じまい。その上、卿は吾が腹心であり、涇陽に行けば不測の事態も起こりえる。自ら行くことはあるまい」

「臣が行くのでなければ、吾らが畏れ疑っていると思われ、意図を看破されるおそれがあります。羌賊の遣り様を観るところ、必ずや内に知恵者が潜んでおりましょう。そうであるなら、和親を結ぶにせよ、結ばぬにせよ、必ず礼を以って臣を遇するはずです。是非とも涇陽に遣わして頂き、この目で羌賊の虚実を探ってきたいと存じます」

 ついに梁王も傅仁の議論に従い、涇陽への出使を命じた。それより傅仁は旅装を調えて涇陽への途につき、梁王は数人の従者を選んで同行させた。


 ※


 傅仁は涇陽の城下に到ると、城に先触れを遣わす。

「梁王の長史の傅仁が面会を求めております」

 軍士の報告を受けると、劉淵りゅうえん諸葛宣于しょかつせんう張賓ちょうひんに諮る。

「吾らと対峙する晋の梁王が、理由もなく使者を遣わすことはあるまい。目的は何であろう」

 諸葛宣于が答える。

「いわゆる説客せつきゃくです。この地に来たのであれば、礼をもって遇さねばなりません。主公はまだお出ましになってはなりません。それがしどもが応対して意図を探り出しましょう」

 張賓は諸将に命じて戎装じゅうそうさせ、一列三十四人の座を定める。その後に城門を開いて傅仁の一行を迎え入れた。


 ※


 相見そうけんの礼を互いに終えると、それぞれが次序に従って主客の座に着く。

「大夫がこの地に脚を運ばれた理由はどのようなものでしょうか。吾らを害せんと来られたのか、または、利を運んで来られたのか」

 開口一番に張賓が問い、傅仁が答える。

「仁義のためにまかしました。その点では、あなた方に利を運んで来たと言えましょう。決して害をなすつもりはありません」

「お話を伺いましょう」

「将軍は時勢を知悉ちしつしておられましょうが、戦をなす利と戦を止める利のいずれが大きいでしょうか」

 傅仁の問いに諸葛宣于が答える。

「兵は凶器、戦は危事、人が好むものではありません。ただ、戦がまったく絶えることもまたありません。感情がある以上、戦は起こるべくして起こるもの、無理に止めようとすれば心に抱えた憤懣を晴らすこともできません。戦うことで憤懣を晴らす利を得るのです。これは時勢がしからしめるに過ぎません。国都の洛陽らくようからこの地までは数千里も離れておりましょう。その煩労を厭わず吾らを欺きに参られたのですか。この戦はやむを得ないものなのです」

「お言葉ですが、そのお考えは誤っておりましょう。吾が大晋の聖上は、近頃将軍たちが吾が秦涇しんけいの地を乱すのをお知りになったがゆえ、恢復を図って将兵を遣わし、将軍たちと戦を交えたのです。戦はあくまで、決断を迫られた大晋にとってやむを得ないものであり、事を起こした将軍がやむを得ないという筋ではございますまい。今、万民が塗炭の苦しみに喘ぎ、三軍は兵刃により野に屍を積んで道に哭声こくせいが途切れない有様、吾が梁王はそれを心に忍びず、将軍に挙兵の由来を尋ねさせるべく下官げかんを遣わされたのです。憤懣ですか、不平ですか、報復ですか、排斥されて志を得ないことですか、何が挙兵の動機となったのかを教えて頂きたい。朝廷が正せるものであれば、下官が入朝してその旨を上奏し、その動機を解消したいと考えております」

 それを聞いて張賓が口を開く。

「あなたに欺くつもりがないのであれば、申し上げよう。吾らはともに蜀漢の臣である。吾が後主こうしゅ劉禅りゅうぜん)は西蜀に漢の宗祀を守って血統を保ち、決して過失を犯さなかった。しかし、晋公しんこう司馬昭しばしょう)は魏の実権を奪って蜀に侵攻し、吾が蜀漢の領地人民を奪い取った。このことを吾らは忍びえず、挙兵して歴代漢帝の霊を奉じると決めたのだ」

「古より滅びなかった国はありません。禹王うおう湯王とうおういんはすでに過去の闇に消え去り、周は失われて戦国の世を統一した秦も漢に滅ぼされました。今やその漢の国運も衰えるに至り、桓帝かんてい霊帝れいていは政事を捨てて顧みず、ついに魏が漢の禅譲ぜんじょうを受けることとなったのです。それがどうして司馬氏のとがでありましょう」

 諸葛宣于がそれに応じる。

「魏が漢を簒奪さんだつしたとはいえ、吾が先主せんしゅ劉備りゅうび)は蜀に都を置いて漢の血統を保ち、東呉は江南に拠って魏といえども侵攻できませんでした。司馬懿しばい司馬師しばしの父子は魏帝を輔佐すると偽って実権を奪い、西蜀と東呉がその罪を問わなかっただけでも幸いとすべきところ、徒に兵を興して陰平いんぺいの険を越え、ついに吾が国家を滅ぼしたのです。司馬氏により引き起こされた怨みはまだ雪がれていません。幸いに天は漢の血統を断絶せず、吾らは漢の幼い太子を伴って難を逃れ、氐羌が治める北地に蜀漢を再興し、大義を掲げて故国の地を回復し、漢帝二十四代の霊を祀り、吾が蜀漢の先主、後主に血食けっしょくの祭祀を奉げようとしているのです」

▼魏の侵攻に際して蜀漢が剣閣けんかくを堅守したため、鄧艾とうがいは陰平から成都盆地に侵攻した。「陰平の険を越え」はそのことを指す。

「蜀漢の後主は安楽公あんらくこうに封じられ、父子ともに爵位を受けて蜀漢の祭祀を洛陽に保っておられます。どうして漢の祭祀が絶えたなどということがありましょうか」

 傅仁の論に楊龍ようりゅうばくする。

「後主は昏庸こんようにして黄皓こうこうという奸物を信任し、譙周しょうしゅう佞言ねいげんを納れて国を失うに至った。晋の諸侯として生き残ったとしても、臣下であるに過ぎない。実に吾ら蜀漢の遺臣の恥じるところである。今や吾らが擁する小主は仁明じんめい英武えいぶにして蜀漢の業を再興せんと誓い、高祖劉邦の廟を奉じておられる。吾らは反叛の賊徒などではない。秦州しんしゅう、涇陽を奪ったなどとは、非礼千万である」

 傅仁が話柄を変えようと図る。

「小主とは、どのような御仁でありましょうか」

「後主の嫡子、姓名は劉淵、字を元海げんかいと申される」

「今はどこにおられるのでしょうか」

 その問いに張賓が答える。

「今は秦州におられる」

 ここに至って傅仁も問うべきことが尽き、それでもしばらく間を置いて語を継いだ。

「そうであるとして、つまり、将軍たちの求めるものは何なのですか」

 黄臣が応じる。

「それぞれが心を尽くして漢に尽くす以外のことは、吾らの与り知るところではない」

 傅仁が見回すと、一座に居並ぶ面々はいずれも宰相将帥の面構え、その言葉は漢への忠誠に溢れて英勇の風格があり、生半なまなかの人物ではない。ただ和親を結んで戦を交えてはならないと思い、重ねて問う。

「つまり、将軍たちのお言葉によれば、漢の業を恢復すべく東の洛陽に向かって軍を進め、大晋と天下を争われる、と仰るのですか」

 趙染ちょうせんが進み出て答える。

「それこそ吾らの本懐である」

 その言葉を聞き、傅仁が語を継ぐ。

「愚見では、それは時機尚早かと存じます。天の時と地の利、それに人の和が満ちた後に大事ははじめて成し遂げられるものです。しかし、伺ったところより考えれば、気数はいまだ満ちておらず、天の時が来ておりません。また、僅か二郡を奪ったところで吾らと苦闘しており、さらに地を広げることも容易ではありますまい。これは地の利が固まっていないことを示します。さらに、吾らは氐羌の地に入るまであなた方が漢人であるとは知りませんでした。郝元度を喪っては与する羌族も多くはありますまい。これでは、支配している地域の者しか従わず、その他にあなた方を慕って従う者はおりません。つまり、人の和がまだ広がっていないのです。この三つのうち、一つも得ずに力を恃んで強弱を争っては、天地に逆らって人心を失うだけのことです。諸君の論もその理は同じです。臨機に事に処する分には、権謀を専らにするのもよいでしょう。ただ大事を成し遂げるおつもりであるなら、天の時、地の利、人の和が整う後日を待って事をおこない、功名を立てられるのがよろしいでしょう」

 傅仁がそう言うと、後は飲宴となって歓を尽くし、その日は散会となった。


 ※


 翌早朝、傅仁は城に入ると張賓に謝して言う。

「下官はここに将軍たちと和議を論じに参ったのです。みなさんより伺うところ、漢の祭祀を奉じる地を得ることが望みとあれば、下官は軍営に還って梁王に申し上げ、かくの三部の土地を割いて劉元海を漢公に封じ、代々漢の祭祀を守って互いに侵攻しないよう朝廷に上奏することを願い出ようと思います。それが許されたとして卿はどうされますか」

「廃家を興して絶統を継がせることは、古来より盛徳のおこないとされています。大夫にそのように取り計らって頂けるのであれば、吾らはそれに遵いましょう」

 劉霊りゅうれいが進み出てその語を継ぐ。

「郝、馬、盧の三部の地はすでに吾らが占めており、晋の所有ではない。この二郡の地だけで満足するのは、あくまで晋との間に和をなさんがためのこと、これまで将士を労して切り取った秦涇の地を捨てるに等しい。このことをよくよくお伝え願いたい」

 その言葉に頷くと傅仁は踵を返す。諸葛宣于がそのたもとをとり、顔を近づけて言う。

「昔、齊の桓公かんこうけいの国とえいの国を復興させるのにその末裔を立て、千年の後に至るまで功績を称揚されました。また、楚の平王へいおうちんの国君を復位させ、さい後嗣こうしを立てました。その恩徳は万古の末までうたわれています。事の成否は大夫次第、よく吾らと晋がともに恩恵に浴せるよう善言を尽くして頂きたい」

▼齊の桓公はてきに破られた邢と衛の国を再興させるにあたり、それぞれの国君の血筋の者に継がせた。また、楚の霊王れいおうは陳と蔡を滅ぼしたが、霊王が国外に出ている間に国を奪った平王はそれぞれの国を復興させた。ここではそれらを美談とし、蜀漢の後嗣を立ててその後につづくよう求めている。

 傅仁はついに涇陽を発って梁王に復命ふくめいした。

「臣が涇陽の城に入って観るところ、首謀者は張賓と諸葛宣于の二人です。彼らは人中の龍、力を争って勝ちを拾える相手ではございません。その上、齊萬年が戦死したとはいえ、劉霊、胡延晏こえんあん楊興寶ようこうほう張敬ちょうけいの勇猛はおさおさ劣らず、さらに張實ちょうじつ黄臣こうしん胡延攸こえんゆう、趙染など二十数人はいずれも練達の将帥、五虎大将の末裔として父祖の代より戦場での生死を共にしており、いずれも凡庸の将ではありません。その上、副将たちも勇猛にして勇士に事欠かず、にわかに鎮圧することは難しいかと存じます」

「それなら、どのように羌賊を制するつもりか」

「軍勢を退く代わり、彼らに爵位を与えて二郡の地を割き、代々辺塞を守って天子の藩屏となることを約させました。殿下はどのようにお考えですか」

「土地と人民はすべて聖上のものである。孤が余人に与えることなど許されぬ」

「彼らが拠る地は中華の域外、大晋の土地ではなく、郝元度が占めておりました。幸い、郝元度は趙王ちょうおうに戮されましたが、その一族は劉淵に従って故地に拠っています。さらに、その土地は荒涼たる原野であり、王化に遵わない氐羌ていきょう戎狄じゅうてきの地です。戎狄は朝に服して夕に叛くもの、この地を得ても利はございません。劉淵に与えないとして、何かの役に立ちましょうか」

「二郡の地だけであるならよかろう。他の地を与えることは罷りならぬ」

「臣もそのように考えております。吾が中国の内地を彼らに与えることは許されません。朝廷も到底許さないでしょう。しかし、雁門がんもん以北、定襄ていじょう以西であれば、すべて羌族の地ですから、一まとめに与えてやり、恩恵とするのがよろしいでしょう。いわゆる、無益な物を捨てて有益な物に代えるというものです。彼らには軍を退く代わりに土地の支配を認め、秦涇の地を返還させます。そうすれば、大王はその地を取り戻した功績を認められましょう。万一、さらに土地を要求してくるようであれば、先に左國城さこくじょう一帯の地を手に入れましたが、左賢王さけんおうが亡くなったために右部ゆうぶ劉豹りゅうひょうという者が治めて実質は無主の地となっております。この地を与えてやればよいでしょう。劉淵がこの地に都を置いて大晋はそれを封じて漢公とし、漢の祭祀を保たせれば、大晋は亡国を保ち絶家を継がせる仁徳を全うし、僻遠へきえんの地を和して民を安んじられます。劉淵たちが代々大王の恩に感じ、永らく辺境の藩屏となれば、また美事となります」

▼「雁門以北、定襄以西」というが、定襄郡(晋代は新興郡しんこうぐん定襄縣ていじょうけん)は雁門の北にあるため、あまり意味がある語ではない。実際には長城の外と同義と考えるのがよい。

 梁王は羌族の地と涇秦の地を取り替えて功績とできることを喜び、ついに和議を決めた。


 ※


 梁王は翌日ふたたび傅仁を涇陽に遣わし、張賓たちと和議の内容を定めさせることとした。

「下官は還って梁王に見え、つぶさに事情を申し上げたところ、梁王はお信じにならず、『賊将たちは先に晋の将帥を斬って城を奪い、官兵を戦場に殺した罪はすでに深く重い。今や大軍が雲集し、幽州ゆうしゅう燕州えんしゅう冀州きしゅう代北だいほく河間かかん長安ちょうあんの六路の兵がこちらに向かっており、日ならず到着するであろう。まして、趙王は一戦して郝元度、馬蘭ばらん盧水ろすいを滅ぼしたにも関わらず、には尺寸しゃくすんの功績もなく、賊と和を結んでは内外に大晋の弱を示すこととなろう。朝廷に咎められることは必定である』と仰るところ、将軍たちの挙兵の動機を再三再四ご説明し、ついに梁王もまた忠臣義士であると感じ入られ、『土地を惜しむものではない。卿の意見に従って朝廷に上奏し、劉元海りゅうげんかいを漢公に封じて郝元度の故地を尽く許し、永く漢の祭祀を奉じさせよ』との仰せです。下官は梁王の命を奉じて詳しいところをご相談に参った次第です。将軍たちはどのようにお考えですか」

 傅仁がそう問うと、張賓が答えないうちに劉霊が進み出る。

「郝元度の故地は久しく吾らに属し、州民たちは吾が弟の元海を主として受け容れている。今更吾らに与えると言われたところで嬉しくもない。これは虚飾の恩を与えて吾らを愚弄するものであろう。先に大夫に面と向かって言ったであろうに、吾らが切り取った秦州、涇州を与えないのか」

「下官もよくよく考えました。今、吾らが争うところは秦州、涇州です。これより和をなそうとするのであれば、互いに譲るところがなくてはなりません。吾が晋兵は数十の戦いにて落命する者は十万を越えており、和議にあたってお望みのとおりに秦州、涇州まで許しては、梁王も罪を負うこととなりましょう。それでは、梁王は将軍たちに陥れられたも同然となります」

 胡延晏がそれを聞いて言う。

「秦州、涇州、雍州は早晩に吾らの有に帰する。晋朝が軍勢を遣わしてこの地を争おうとしたところで、勝敗はまだ分かるまい。和議を結ぶのであれば、涇陽の一郡は返還するとしても秦州を吾らの都とすべきであろう。漢人を羌族の地に置いて華を夷と同じく扱うとは、道義においていかがなものか」

 将帥たちが秦州と涇州の返還をがえんじないと観ると、傅仁は実情を語り始める。

「下官も努めてこの点は申し上げ、雁門以北、定襄以西の五百里(約280km)に左賢王の故地があり、現在は晋陽しんようの隷下に置かれています。この地を割いて都として漢の血統を保てば、土地は中国のうちにあって将軍たちと朝廷のいずれも受け容れられるものと考えます。それで諒解頂きたい」

「大夫は好意により晋朝と吾らの和議を結ぼうとされている。滅多なことは仰るまい」

 諸葛宣于がそう言うも、胡延攸が反対する。

「吾らが百戦して得た秦州、涇州の地を返還するのであれば、誓書を出して永く互いに侵攻せぬと誓い、違約できぬようにしておくべきであろう」

 それより異議百出して紛々たる議論が起こった。張賓と諸葛宣于は諸将とともに席を外し、二人の所見を次のように言う。

「秦州、涇州の地は苦戦して得た土地だが、関中かんちゅうに隣接して晋の大州である雍州ようしゅう梁州りょうしゅうに近い。晋朝の人材はなお多く、秦州と涇州の割譲を求めてもそう簡単には応じるまい。さらに、周囲には大軍が駐屯する重鎮があり、その地を得たとしても安寧を得ることは難しい。一朝に関係が崩れて晋に襲われる虞もあり、上策とは言い難い。今はひとまず提案に乗るのが、当座の策であろう」

 諸将はそれでも不満が拭いきれず、張賓に問う。

「二兄の高見は何によって得られたのか」

「卿らは仔細に考えておるまい。これはまさしく張子房ちょうしぼう(張良、子房は字)が高祖劉邦に項羽こううより命じられた褒中ほうちゅうへの封王を受けるよう勧めた策と等しいものだ。左國城に拠点を置いて山西の王となり、人材を集めて兵馬を整え、一朝に挙兵してむしろを巻くように中原を定めればよい。山西の兵は強く、馬にも恵まれており、準備を整えるに足りる。たとえ中原が乱れてもその影響を受けることは少ないだろう」

 張賓がそう言うと、諸将もその意見に服した。



 張賓と諸葛宣于は席に戻って傅仁に言う。

「二度までご足労を頂き、感謝に堪えません。諸将の言葉は忘れて頂ければ幸甚これに過ぎるものはありません。すべて大夫の議論に遵い、兵を収めて梁王からのご連絡をお待ちすることといたします。大夫のお言葉のとおりであれば、吾らはそれに遵いましょう。詐術を弄して闇打ちなどはゆめゆめお考えにならないように願います」

 傅仁もその言葉を肯っていう。

「匹夫すら一諾いちだくを重んじるものです。大晋の親王が闇打ちなど考えもつきません」

「闇打ちなど怖れるにもあたるまい。斬り殺して一人も還らせぬだけのこと、襲いたければやってみればよい」

 張敬がうそぶき、張賓が取り繕う。

「酒に酔った舎弟の戯言に過ぎません。ご放念いただければ幸いです」

 張賓はみずから傅仁を城外に送り、傅仁は辞去して還っていった。

 それより、劉伯根りゅうはくこん趙藩ちょうはんの二将は、秦州の府庫の糧秣、兵甲を尽く運び出して柳林川りゅうりんせんに築造した新城に移し、梁王からの連絡を待つこととなった。


 ※


 傅仁は戻って復命し、張賓たちと交わした会話の首尾一遍を説明すると、長史の一行は数万の軍勢にも勝ると梁王は誉めそやした。

 孟観は難しい表情で言う。

「張賓たちの意図を推測するに、志が小さいわけではなく、おそらくは臨機の権謀に過ぎますまい。他日、羽翼を生じて時機に乗じ、大晋の患となって数十万の兵でも平定できなくなる虞があります。愚見によれば、この機会に賊の警戒が緩んだ隙を突き、諸方より官兵を集めて一鼓の下に打ち果たすのが良策というものです」

 梁王は出征するより戦功がなく、兵事を怖れていたために早く兵を退こうとして言う。

「他日には他日の制度があろう。一度許した者をふたたび襲っては信を欠く。信を欠いては人を心服させられぬ。それに、以前に数戦して敗れておりながら、今になってどうして容易く平らげることができようか」

 さすがの孟観もそれ以上の抗弁は諦めた。

 梁王は傅仁を洛陽に遣わして上奏し、劉淵に左國城を与えて左賢王に封じ、漢の祭祀を奉じる附庸国ふようこくとして晋に臣属させ、三年に一度は朝貢をおこなわせることとし、その代わりに秦州と涇州を返還させる旨を報じた。

 この上奏が伝えられると、朝廷では議論が紛々ふんぷんとして反対する者が多く出た。

「このようなことを認めては、その他の蠻夷もこれに倣い、制しがたくなろう」

 その反論に対し、傅仁は面陳して利害を説き、晋帝の司馬衷しばちゅうは是非を決することができず楊駿ようしゅんに諮る。

 楊駿はそもそも凡庸の才、遠謀を理解できず当座の便に従うよりなく、ついに晋帝も上奏を裁可するに至った。玉帯ぎょくたい璽綬じじゅを調えると詔を下して劉淵を左賢王に封じ、勅使を傅仁に同行させて涇陽の城に遣わしたのであった。



 梁王は詔命に接し、翌日には勅使に添えて諸々の執事の官を涇陽城中に遣わす。涇陽城では張賓たちが出迎えにあたり、寶物を勅使に贈って傅仁と誓約を交わした。

 傅仁と勅使が還った後、劉淵たちは糧秣を収めると左國城を目指して涇陽を発ち、廖全りょうぜん、楊龍の二人は柳林川に向かって劉伯根とともに蓄えた糧秣兵甲を左國城に運び込む。

 柳林川には喬昕きょうきん馬蕙ばけい盧冰ろひょうを留めて守りにあたらせ、劉淵たちは涇陽を発って二十日ほどで左國城に入城した。


 ※


 これより先、匈奴の左賢王の死より左國城は主を欠いていた。

 その頃、蜀漢の陽泉侯ようせんこうの劉豹が姜維きょういの命を受けて募兵に遣わされ、それより程なく蜀が滅んだため、やむなくこの地に留まって右國城ゆうこくじょうに滞在せざるを得なくなった。

 右部の主は匈奴の別部出身であったが、漢の甥を自称して劉姓を冒し、劉宣りゅうせんと名乗っていた。劉宣は劉豹が蜀漢の侯爵であることを歓び、義兄弟の契りを結んで左國城の鎮守を任せた。

 晋朝より文書が送られ、蜀漢の劉淵を封じて左國城の鎮守を命じるとあるのを見ると、劉豹は人を遣わして出迎えさせた。相見の礼を終えると、劉淵は劉豹を拝して「仲父ちゅうほ」と呼び、自ら「子」と称した。

 劉豹は漢の疎族であるためにこの礼を受けず劉淵を推戴して左賢王に戴き、自らは老齢を理由に私邸に還る。翌日、劉豹は人を遣わして劉宣を左國城に迎え、宴会を開いた。

 劉宣は劉淵を一瞥いちべつすると劉豹に言う。

「この子を観るに、必ずやよく吾が五部を盛んにして劉氏の宗族を再興するであろう。そうでなくては、天がこの人を虚しく生じて数千里離れたこの地に到らしめ、左賢王の職に任じることはあるまい」

 ついに劉淵を推戴して君とし、それに従うこととした。

 それより、劉宣も心を傾けて劉淵に仕えるようになったことであった。

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