第四十回 梁王司馬肜は傅仁を遣りて漢と和す
「今や
「そもそも、
▼趙充國は漢の頃に
梁王の
「昔、漢の
▼張騫は前漢武帝の命を受けて大宛への使者となった。蘇武は匈奴への使者となり、二十年に渡って抑留されても節を曲げず、後に帰国した。
「その方法とは、つまりどのようにすればよいのか」
梁王の問いに傅仁が語を継ぐ。
「漢の高祖に倣い、両国の和により民の患を除くのがよろしいでしょう」
梁王とてまったくの愚物ではない、賊軍との講和は幾度か脳裏に浮かばないでもなかった。さらにつづけて問う。
「卿はどのような手段でもって羌賊との和を整えるつもりか」
「夷狄の類は羊犬と変わりありません。恩を与えて養えば伏し従い、招き呼ばれれば寄って参ります。棒で殴って言うことを聞かせようとすれば逃げ走り、追い詰められれば噛みつくものです。羌賊とて平定しようと兵を出せば、抗って従いはしません。古人の言によれば『力によって人を屈服させては心服を得られず、徳によれば
▼慕容廆は
▼魏絳は春秋時代の晋の大夫、
梁王は傅仁の言葉を聞いて言う。
「卿の言はまさにその通りであろう。ただ、羌賊は狡猾で招安に応じまい。その上、卿は吾が腹心であり、涇陽に行けば不測の事態も起こりえる。自ら行くことはあるまい」
「臣が行くのでなければ、吾らが畏れ疑っていると思われ、意図を看破される
ついに梁王も傅仁の議論に従い、涇陽への出使を命じた。それより傅仁は旅装を調えて涇陽への途につき、梁王は数人の従者を選んで同行させた。
※
傅仁は涇陽の城下に到ると、城に先触れを遣わす。
「梁王の長史の傅仁が面会を求めております」
軍士の報告を受けると、
「吾らと対峙する晋の梁王が、理由もなく使者を遣わすことはあるまい。目的は何であろう」
諸葛宣于が答える。
「いわゆる
張賓は諸将に命じて
※
「大夫がこの地に脚を運ばれた理由はどのようなものでしょうか。吾らを害せんと来られたのか、または、利を運んで来られたのか」
開口一番に張賓が問い、傅仁が答える。
「仁義のために
「お話を伺いましょう」
「将軍は時勢を
傅仁の問いに諸葛宣于が答える。
「兵は凶器、戦は危事、人が好むものではありません。ただ、戦がまったく絶えることもまたありません。感情がある以上、戦は起こるべくして起こるもの、無理に止めようとすれば心に抱えた憤懣を晴らすこともできません。戦うことで憤懣を晴らす利を得るのです。これは時勢がしからしめるに過ぎません。国都の
「お言葉ですが、そのお考えは誤っておりましょう。吾が大晋の聖上は、近頃将軍たちが吾が
それを聞いて張賓が口を開く。
「あなたに欺くつもりがないのであれば、申し上げよう。吾らはともに蜀漢の臣である。吾が
「古より滅びなかった国はありません。
諸葛宣于がそれに応じる。
「魏が漢を
▼魏の侵攻に際して蜀漢が
「蜀漢の後主は
傅仁の論に
「後主は
傅仁が話柄を変えようと図る。
「小主とは、どのような御仁でありましょうか」
「後主の嫡子、姓名は劉淵、字を
「今はどこにおられるのでしょうか」
その問いに張賓が答える。
「今は秦州におられる」
ここに至って傅仁も問うべきことが尽き、それでもしばらく間を置いて語を継いだ。
「そうであるとして、つまり、将軍たちの求めるものは何なのですか」
黄臣が応じる。
「それぞれが心を尽くして漢に尽くす以外のことは、吾らの与り知るところではない」
傅仁が見回すと、一座に居並ぶ面々はいずれも宰相将帥の面構え、その言葉は漢への忠誠に溢れて英勇の風格があり、
「つまり、将軍たちのお言葉によれば、漢の業を恢復すべく東の洛陽に向かって軍を進め、大晋と天下を争われる、と仰るのですか」
「それこそ吾らの本懐である」
その言葉を聞き、傅仁が語を継ぐ。
「愚見では、それは時機尚早かと存じます。天の時と地の利、それに人の和が満ちた後に大事ははじめて成し遂げられるものです。しかし、伺ったところより考えれば、気数はいまだ満ちておらず、天の時が来ておりません。また、僅か二郡を奪ったところで吾らと苦闘しており、さらに地を広げることも容易ではありますまい。これは地の利が固まっていないことを示します。さらに、吾らは氐羌の地に入るまであなた方が漢人であるとは知りませんでした。郝元度を喪っては与する羌族も多くはありますまい。これでは、支配している地域の者しか従わず、その他にあなた方を慕って従う者はおりません。つまり、人の和がまだ広がっていないのです。この三つのうち、一つも得ずに力を恃んで強弱を争っては、天地に逆らって人心を失うだけのことです。諸君の論もその理は同じです。臨機に事に処する分には、権謀を専らにするのもよいでしょう。ただ大事を成し遂げるおつもりであるなら、天の時、地の利、人の和が整う後日を待って事をおこない、功名を立てられるのがよろしいでしょう」
傅仁がそう言うと、後は飲宴となって歓を尽くし、その日は散会となった。
※
翌早朝、傅仁は城に入ると張賓に謝して言う。
「下官はここに将軍たちと和議を論じに参ったのです。みなさんより伺うところ、漢の祭祀を奉じる地を得ることが望みとあれば、下官は軍営に還って梁王に申し上げ、
「廃家を興して絶統を継がせることは、古来より盛徳のおこないとされています。大夫にそのように取り計らって頂けるのであれば、吾らはそれに遵いましょう」
「郝、馬、盧の三部の地はすでに吾らが占めており、晋の所有ではない。この二郡の地だけで満足するのは、あくまで晋との間に和をなさんがためのこと、これまで将士を労して切り取った秦涇の地を捨てるに等しい。このことをよくよくお伝え願いたい」
その言葉に頷くと傅仁は踵を返す。諸葛宣于がその
「昔、齊の
▼齊の桓公は
傅仁はついに涇陽を発って梁王に
「臣が涇陽の城に入って観るところ、首謀者は張賓と諸葛宣于の二人です。彼らは人中の龍、力を争って勝ちを拾える相手ではございません。その上、齊萬年が戦死したとはいえ、劉霊、
「それなら、どのように羌賊を制するつもりか」
「軍勢を退く代わり、彼らに爵位を与えて二郡の地を割き、代々辺塞を守って天子の藩屏となることを約させました。殿下はどのようにお考えですか」
「土地と人民はすべて聖上のものである。孤が余人に与えることなど許されぬ」
「彼らが拠る地は中華の域外、大晋の土地ではなく、郝元度が占めておりました。幸い、郝元度は
「二郡の地だけであるならよかろう。他の地を与えることは罷りならぬ」
「臣もそのように考えております。吾が中国の内地を彼らに与えることは許されません。朝廷も到底許さないでしょう。しかし、
▼「雁門以北、定襄以西」というが、定襄郡(晋代は
梁王は羌族の地と涇秦の地を取り替えて功績とできることを喜び、ついに和議を決めた。
※
梁王は翌日ふたたび傅仁を涇陽に遣わし、張賓たちと和議の内容を定めさせることとした。
「下官は還って梁王に見え、
傅仁がそう問うと、張賓が答えないうちに劉霊が進み出る。
「郝元度の故地は久しく吾らに属し、州民たちは吾が弟の元海を主として受け容れている。今更吾らに与えると言われたところで嬉しくもない。これは虚飾の恩を与えて吾らを愚弄するものであろう。先に大夫に面と向かって言ったであろうに、吾らが切り取った秦州、涇州を与えないのか」
「下官もよくよく考えました。今、吾らが争うところは秦州、涇州です。これより和をなそうとするのであれば、互いに譲るところがなくてはなりません。吾が晋兵は数十の戦いにて落命する者は十万を越えており、和議にあたってお望みのとおりに秦州、涇州まで許しては、梁王も罪を負うこととなりましょう。それでは、梁王は将軍たちに陥れられたも同然となります」
胡延晏がそれを聞いて言う。
「秦州、涇州、雍州は早晩に吾らの有に帰する。晋朝が軍勢を遣わしてこの地を争おうとしたところで、勝敗はまだ分かるまい。和議を結ぶのであれば、涇陽の一郡は返還するとしても秦州を吾らの都とすべきであろう。漢人を羌族の地に置いて華を夷と同じく扱うとは、道義においていかがなものか」
将帥たちが秦州と涇州の返還を
「下官も努めてこの点は申し上げ、雁門以北、定襄以西の五百里(約280km)に左賢王の故地があり、現在は
「大夫は好意により晋朝と吾らの和議を結ぼうとされている。滅多なことは仰るまい」
諸葛宣于がそう言うも、胡延攸が反対する。
「吾らが百戦して得た秦州、涇州の地を返還するのであれば、誓書を出して永く互いに侵攻せぬと誓い、違約できぬようにしておくべきであろう」
それより異議百出して紛々たる議論が起こった。張賓と諸葛宣于は諸将とともに席を外し、二人の所見を次のように言う。
「秦州、涇州の地は苦戦して得た土地だが、
諸将はそれでも不満が拭いきれず、張賓に問う。
「二兄の高見は何によって得られたのか」
「卿らは仔細に考えておるまい。これはまさしく
張賓がそう言うと、諸将もその意見に服した。
※
張賓と諸葛宣于は席に戻って傅仁に言う。
「二度までご足労を頂き、感謝に堪えません。諸将の言葉は忘れて頂ければ幸甚これに過ぎるものはありません。すべて大夫の議論に遵い、兵を収めて梁王からのご連絡をお待ちすることといたします。大夫のお言葉のとおりであれば、吾らはそれに遵いましょう。詐術を弄して闇打ちなどはゆめゆめお考えにならないように願います」
傅仁もその言葉を肯っていう。
「匹夫すら
「闇打ちなど怖れるにもあたるまい。斬り殺して一人も還らせぬだけのこと、襲いたければやってみればよい」
張敬が
「酒に酔った舎弟の戯言に過ぎません。ご放念いただければ幸いです」
張賓はみずから傅仁を城外に送り、傅仁は辞去して還っていった。
それより、
※
傅仁は戻って復命し、張賓たちと交わした会話の首尾一遍を説明すると、長史の一行は数万の軍勢にも勝ると梁王は誉めそやした。
孟観は難しい表情で言う。
「張賓たちの意図を推測するに、志が小さいわけではなく、おそらくは臨機の権謀に過ぎますまい。他日、羽翼を生じて時機に乗じ、大晋の患となって数十万の兵でも平定できなくなる虞があります。愚見によれば、この機会に賊の警戒が緩んだ隙を突き、諸方より官兵を集めて一鼓の下に打ち果たすのが良策というものです」
梁王は出征するより戦功がなく、兵事を怖れていたために早く兵を退こうとして言う。
「他日には他日の制度があろう。一度許した者をふたたび襲っては信を欠く。信を欠いては人を心服させられぬ。それに、以前に数戦して敗れておりながら、今になってどうして容易く平らげることができようか」
さすがの孟観もそれ以上の抗弁は諦めた。
梁王は傅仁を洛陽に遣わして上奏し、劉淵に左國城を与えて左賢王に封じ、漢の祭祀を奉じる
この上奏が伝えられると、朝廷では議論が
「このようなことを認めては、その他の蠻夷もこれに倣い、制しがたくなろう」
その反論に対し、傅仁は面陳して利害を説き、晋帝の
楊駿はそもそも凡庸の才、遠謀を理解できず当座の便に従うよりなく、ついに晋帝も上奏を裁可するに至った。
※
梁王は詔命に接し、翌日には勅使に添えて諸々の執事の官を涇陽城中に遣わす。涇陽城では張賓たちが出迎えにあたり、寶物を勅使に贈って傅仁と誓約を交わした。
傅仁と勅使が還った後、劉淵たちは糧秣を収めると左國城を目指して涇陽を発ち、
柳林川には
※
これより先、匈奴の左賢王の死より左國城は主を欠いていた。
その頃、蜀漢の
右部の主は匈奴の別部出身であったが、漢の甥を自称して劉姓を冒し、
晋朝より文書が送られ、蜀漢の劉淵を封じて左國城の鎮守を命じるとあるのを見ると、劉豹は人を遣わして出迎えさせた。相見の礼を終えると、劉淵は劉豹を拝して「
劉豹は漢の疎族であるためにこの礼を受けず劉淵を推戴して左賢王に戴き、自らは老齢を理由に私邸に還る。翌日、劉豹は人を遣わして劉宣を左國城に迎え、宴会を開いた。
劉宣は劉淵を
「この子を観るに、必ずやよく吾が五部を盛んにして劉氏の宗族を再興するであろう。そうでなくては、天がこの人を虚しく生じて数千里離れたこの地に到らしめ、左賢王の職に任じることはあるまい」
ついに劉淵を推戴して君とし、それに従うこととした。
それより、劉宣も心を傾けて劉淵に仕えるようになったことであった。
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