五章 賈后垂簾

第四十二回 賈后は権を奪う

 晋の梁王りょうおう司馬肜しばゆうは、劉淵りゅうえんとの和議を取りまとめて秦州しんしゅう涇州けいしゅうを取り戻した。

 これにより関中かんちゅうの地は安寧を取り戻し、征西の任を終えた梁王は軍勢を返して洛陽らくように凱旋する。晋帝の司馬衷しばちゅうはその功をよみし、食邑を加増するとともに五百斤(約300kg)の金、彩絹あやぎぬ千疋を下賜した。長史ちょうし傅仁ふじん冠軍かんぐん将軍の号を加えられ、梁王は鎮所の汴梁べんりょうへと還っていった。

 孟観もうかん侍衛じえい虎賁こほん大将軍に号を進め、上谷郡じょうこくぐんに食邑を与えられて職は宮城の管理責任を負うに至った。

 ともに出征した伏胤ふくいん李肇りちょうたちも要職に抜擢されて洛陽で任に着き、戦没した諸将の子弟にも生活に困窮することがないよう恩蔭おんいんが与えられ、恩恵は手厚く敷かれたのであった。

▼侍衛虎賁大将軍は晋代の官職にない。虎賁は禁衛兵、侍衛の総指揮官と考えるのがよい。

▼上谷郡は現在の北京にあたるけいのさらに北にある。

▼恩蔭は父の勲功により子が任官されることを意味する。


 ※


 劉淵の子の劉聰りゅうそうは和議により質子しちしとして洛陽に赴き、四夷館しいかんに留め置かれた。ついで、詔によって積弩せきど将軍の号を与えられる。諸王、大臣と交遊して談論に及べば、その議論に瞠目どうもくしない者がない。

 成都王せいとおう司馬穎しばえいは特に劉聡を重んじ、私的な交友を結ぶに至った。

▼成都王の司馬穎は武帝司馬炎の第十六子、晋帝司馬衷の弟にあたる。

▼四夷館は異民族からの使者や人質を留め置いた迎賓館と考えればよい。『洛陽伽藍記らくようがらんき』によれば鮮卑せんぴ拓跋部たくばつぶが建国した北魏の頃に洛陽に置かれたとされるが、後漢から晋代については記録がない。

 諸将の中にあって孟観のみ功に比して賞が軽く、楊駿ようしゅんの不明であると憤っていた。

「吾は元帥の任を受けて出征し、齊萬年せいばんねんを討ち取って勲功で並ぶ者はない。それにも関わらず、公侯の爵にも封じられず、禁軍の指揮を委ねられたのみで他は出征前と変わるところがない。労多くして得る物は少なく、これでは元帥に任じられない方がよかったというものだ」

 親しい者にそう口にすることもあり、楊駿を深く恨んだことであった。


 ※


 その楊駿は武帝ぶてい司馬炎しばえんの皇后であった楊氏の父ゆえに朝政を専らにするものの、人物は凡庸、識見は低く遠謀を欠く。むしろ弟の楊珧ようよう楊濟ようさいが才識に富んでおり、しばしば楊駿の蒙昧を諌め、さらに士大夫の輿論よろんを味方とするよう献策した。

 しかし、楊駿はその言をれず、ついに二人の弟も一族で朝政を専らにしているという非難を畏れ、私邸に退隠してしまった。

 弟の輔佐を欠いた楊駿は、自ら六人の参軍さんぐんを選び置き、三千人の歩兵とそれを率いる三部の司馬、護衛を統べる従事司馬など二十四人の官吏、治安維持にあたる十人の都尉といを置き、自らが宮城を出入りする際には交代で護衛にあたらせた。

▼楊駿が置いた官員のうち、参軍は記録を司る記室参軍、軍装に関わる鎧曹参軍などのようにそれぞれの部署の長に相当し、軍府に属する。司馬は軍事の官に発して晋代には三軍を編成する際に軍ごとに司馬を置いた。三部の司馬は三軍それぞれの責任者と考えればよい。従事司馬は架空の官職、漢代より郡国には従事史という官があり、文書管理や綱紀粛正を担った。従事司馬の言うところは、武猛従事のような護衛隊長を想像していたと考えるのがよい。後漢の都尉は郡国の警察や治安維持に関わる官、ここではその意で用いたのであろう。

 さらに、私的な腹心と近侍を置いて自らの官職を太傅たいふ假黄鉞かこうえつに進め、爵位は臨晋侯りんしんこうにまで至った。太傅は帝の側近の最高位にあたる三公の一であり、假黄鉞とは、天子より黄金のまさかりを授かって征伐の専権を許されたことを意味する。臣下として最大の栄誉である九錫きゅうしゃくの一つであり、その中でも特に権が重い。

 楊駿が臨晋侯に封じられた際、束皙そくせきという朝臣は密かにこう批判した。

「臨とは『上から下を臨む』の意であり、晋は当代の御世である。よって、『臨晋』とは、『上から当代の御世に望む』という意味になる。皇太后の父が外戚として当代を凌ぐことが許されるはずもない。不祥の名であり、禍はこの人から始まることだろう」

 明知とは恐ろしいもので、この批判は後に現実のものとなっていった。


 ※


 楊駿が朝政を握って以来、大臣にもその意に逆らう者はない。ただ、晋帝の皇后である賈氏かしは権力欲が強く、楊駿を失脚させる機会を窺っていた。

 晋帝は賈氏の言葉を疑うことなく、ゆえに楊駿もただ賈氏を畏れ、多くの朝臣を己の私党とするだけでなく、禁衛の兵権を自ら握り、いざとなれば賈氏の身柄を捕らえるつもりであった。

 長安ちょうあんに近い馮翊ひょうよく出身の孫楚そんそは楊駿と親しく、次のような諫言を述べたことがある。

「私党を広げて疑惑を生じれば、由なき批判を招いて輿論の支持は得られますまい」

 それでも、楊駿はその言を納れる器量を欠いた。

 また、楊駿の叔母の子に蒯欽かいきんという者がおり、楊駿の行いの十事が身を誤る原因となる、と直言した。それを聞いても楊駿は不機嫌になるだけで従うことはなかった。

 高所に立てば墜落のおそれがあり、満ちた器に水を注いでも溢れるだけで益はない。その理を知らず、楊駿は朝臣に私党を布いて賈氏を退位に追い込む謀を廻らせていた。


 ※


 その折から、賈后が御簾ぎょれんの内で朝会の場に同席し、朝政への容喙ようかいをはじめる。

 楊駿は甚だ不平に感じ、府に戻って僚属と計議し、賈后を朝会の場から除くよう上奏することとした。楊珧、楊濟は厳しく諌めたが、楊駿は耳を貸さない。

 一日、早朝より宮城に入れば、賈后が御簾の内に坐して政事を執っている。それを見た楊駿は進み出て次のように上奏した。

「天に二日にじつなく、民に二王におうはございません。聖上の春秋はまさに盛りにあり、政事に務めておられます。皇后が御簾を垂れて朝政に加わることは、政事の紊乱びんらんの始まりにほかなりません。すみやかに御簾を去り、牝鶏ひんけいが朝を告げるの禍を防がねばなりません」

 晋帝は黙然として答えない。

 楊駿は晋帝の懦弱を熟知しており、後宮に退くよう重ねて賈后に言上する。賈后に従うつもりはなかったが、楊駿の左右には文武の百官が威風堂々と侍立している。満座の中で引きずり出される恥辱を被れば嗤笑ししょうを買う。やむなく怒りを抑えて後宮に引き下がった。


 ※


 後宮に還った後も鬱々として気が晴れず、それが面に表れた。宦官である黄門常侍こうもんじょうじ董猛とうもうは皇后の意を忖度そんたくして問う。

▼黄門常侍は架空の官職、黄門は宮門または官署を意味し、漢代には侍衛の官であったが、後漢になると宦官を指すようになり、中黄門、黄門侍郎などが置かれた。ここでは側近の官にある宦官の意味で使われていると考えるのがよい。

「皇后陛下は一国の母主ぼしゅでありますのに、何の不満があって煩悶しておられるのですか」

「お前ごときに妾の気持ちが分かろうはずもない。楊駿の老賊めが殿上で妾を辱めたのだ。この恨みにどうにか報いたいが、さしあたっては如何ともしがたい。それでこのように煩悶しておるのだ」

「陛下は後宮の深奥におられる身、御一人で考えられても御心は安んじられますまい。どうしても宰相に報いたいと思し召されるなら、百官より知計ある者を選んでその者に諮られれば、事も成就いたしましょう」

 賈后が董猛の言葉に食いつく。

「妾では思いつかないところであった。お前が妾のために誰か一人を選んでおくれ」

「心当たりが一人おります。禁衛兵を統べる孟観という者です。この者は見識と謀画の才に富み、先に齊萬年という羌賊きょうぞく首魁しゅかいを計略により討ち取っております。多くの勇将を手にかけた賊魁を討ち取ったのですから、功に応じた賞を受けて列侯に封じられるものと本人も周囲も思っておりましたが、楊駿の心に叶わず官職は旧のままに留め置かれ、恨みは骨髄に徹しております。皇后陛下がどうしてもこの一事を成就されたいと思し召されるのであれば、臣がまず孟観の許に行って相談いたしましょう。事が成った暁には孟観を昇進させると約することをお許し頂けますでしょうか」

 賈后に異論はなく、賀礼がれいの具一式と密書を整えると、董猛を孟観の許に遣わした。密書には、齊萬年を誅した功も含めて顕職に抜擢するとの約が認められている。


 ※


 董猛は禁衛兵の省府に赴き、孟観に面会を求めた。

「董大人は皇后の寵遇ちょうぐう比類なき御方にも関わらず、このようなところに来臨頂くとは、どのような御用件でしょうか」

 孟観の様子を見るに、来訪をいとう風ではなくむしろ喜んでいるように見えた。董猛は人払いを願うと、席を近づけ声を低めて囁く。

「ここに参りましたのは、皇后陛下の密命によるものです」

 言うと、密書を呈して孟観が目を通している間もその耳に語を注ぐ。

「将軍に後宮までお運び頂き、一大事を御相談したいとの思し召しにございます」

 密書を読み終わった孟観が問う。

「皇后陛下は後宮の深奥におられる身、どのような一大事があるのでしょうか」

「将軍を陥れようなどとは夢にも思っておりません。朝会の坐に皇后陛下が居られ、それを楊太傅ようたいふ(楊駿)が忌まれたことに始まります。昨日、皇后陛下は太傅の叱責を受けて恥辱を被られました。このようなことが重なれば、いずれは御身を害される虞もございましょう。そのきざしがありましたため、智謀に優れた士より良策を得て禍を未萌みほうに防ぎたい、と皇后陛下は御望みです。将軍は朝廷に並ぶ者なき智謀の士、それゆえ下官げかんより御薦めして陛下も御嘉納ごかのうになり、特に遣わされたのです。お疑いになることなく御同道ごどうどう下さい」

 孟観も楊駿への恨みに報いたいと考えていたところであったが、事を起こすよすががないことを憂えていた。さらに、賈后が権略ある人と聞き知っており、よい機会を得たと内心に喜んだ。さっそく董猛に同行して後宮に向かい、拝謁はいえつの場を持った。

「卿は智謀に優れた士と聞き及ぶ。妾は楊駿に辱められて心に恨みを持っておる。妾がため、恨みを雪ぐ策を廻らせて欲しい。事が成った暁には、重賞をもって報いよう」

 孟観は楊駿が無知で謀りやすいと観ており、一計を献策した。

「今や朝廷にあって楊駿の私党にくみしない者はおりません。つまり、周囲はすべて敵ということです。このことが一滴の水ほども洩れれば、臣の命はすぐさま喪われましょう。引いては、皇后陛下の御為おんためにもなりません。一人だけ事をともにするのであれば、聖上の弟御おとうとごにあたる楚王そおう司馬暐しばい)がよろしいでしょう。軍勢を率いて洛陽に上がるよう促す密書を認め、気の利く者を使者として遣わすのです。楚王は年若く、性格は軽率です。密書を見れば疑うことなく洛陽に向かうでしょう。その上洛を見計らい、臣が出迎えて言い含めれば、疑うことなく皇后陛下に従うはずです」

▼楚王の司馬暐は武帝司馬炎の第五子、晋帝司馬衷の弟にあたる。

「楚王は軍勢を率いた経験がない。楊駿の威権を恐れて拒んだ際はどうするのか」

 皇后が懸念し、孟観が答える。

「臣には別に一計があり、陛下の御懸念には及びません」

 賈后はその言葉を納れて偽詔ぎしょうを認め、董猛を楚王の許に遣わしたことであった。


▼まめ知識:第四十二回終了時点での皇室関係者

帝室

 皇帝:司馬衷

 皇后:賈南風

 太后:楊芷ようし

 太子:司馬遹

 執政:楊駿


八王

 汝南王:司馬亮

 楚 王:司馬瑋

 趙 王:司馬倫

 斉 王:司馬冏

 長沙王:司馬乂

 河間王:司馬顒

 成都王:司馬穎

 東海王:司馬越


その他親王

 瑯琊王:司馬睿

 梁 王:司馬肜

 南陽王:司馬模

 呉 王:司馬晏

 淮南王:司馬允

 范陽王:司馬虓

 東瀛公:司馬騰

 東安王:司馬繇

 新野公:司馬歆

 予章郡王:司馬熾

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る