第二十四回 汲桑は神霊の不思議に遇う

 柳林川りゅうりんせんに蜀漢の遺臣が集う一方、黒莽坂こくもうはん張賓ちょうひん一行と逸れた汲桑きゅうそうは、趙勒ちょうろくを奪い返したものの行くあてもなく、前日に宿を借りた郭胡かくこの家に戻って事の始終を語った。

 郭胡は同情して二人を匿い、外の者たちの目に触れないようにする。しかし、王衍おうえんが刺史に着任するより蜀漢の遺臣の追求は厳しくなり、匿い抜くことが難しくなった。

「いつまでも匿って差し上げたいが、官府からの詮索が厳しくなってこのままでは吾らだけでなくあなたがたにも累が及びそうです。すみやかにこの地を逃れて頂くよりありません」

 郭胡は汲桑にそう言い、子の郭敬かくけいは銭二千文を差し出して路銀とする。汲桑は涙を流して拝謝し、北に旅立った。


 ※


 北に進むにつれて食糧の値が騰貴して百文でも一食にならず、十日後には路銀も使い果たした。日が傾いたにも関わらず周囲に人家すら見えず、日が暮れると狗の遠吠えが聞こえてくる。

「行先から狗の吠え声が聞こえるのは、人家があるからだよ。幾日か何も口にしていないから、少しの餅でも分けてもらえば、また道を進む気力も湧いてくるよ」

 背中に負われた趙勒がそう言い、汲桑は狗の声を目指して進んだが、そこは人家ではなく古廟こびょうであった。二人は廟に入ると、汲桑は拝礼して祈る。

それがしは亡蜀の忠良、難を逃れてここに到るも道を失い、身を休める場所もありません。たまたま神廟に到って一夜の宿をお借りします。願わくは、陰中より佑助を頂いて明朝には旧主(趙概ちょうがい)とお会いできますように。それも叶わず、わが身に助けなくして小主(趙勒)が飢え苦しむことがあれば、それはこの汲桑の罪です」

 幸い廟堂の後ろに身を隠せる場所があり、門扉を倒すとその上で趙勒を抱いて世を明かした。


 ※


 一夜が明け、村里に入って食物を分けてもらおうとすると、趙勒が腹痛に苦しみはじめた。汲桑が看病しても治まらず、冷や汗が満身を濡らして顔色は青い。汲桑が神像に拝礼して加護を祈っても治まる気配はなく、膝の上に抱き上げて体を揉んでも、楽になった風ではない。

 汲桑が途方に暮れた時、朝日が廟に差し込んだ。趙勒を抱いて日向に出ると、しばらく汗が止まらなかったものの、痛みは徐々に治まっていく。

 さては幽陰の気に当たったかと思うところ、趙勒が空腹を訴える。

 汲桑が人家で食物を手に入れようと百歩ばかり行ったところ、数百の晋兵が棍棒、弓矢、矛を提げて向かってくる。廟に駆け戻ると、趙勒を抱き抱えて裏に身を隠した。

 晋兵は汲桑たちを見つけており、何か財産でも持っているかと疑って探しはじめる。その時、裏山から四、五十の鹿が東南を指して走り出た。晋兵は鹿の群れに気を取られ、捕らえようと弓を引きつつ、汲桑たちを捨てて鹿を追う。


 ※


 汲桑は晋軍が遠くに去ると、趙勒を抱えて人家を探しに出ようとした。そこに老夫が一人、はこを抱えて廟に向かってくる。筐の中には神に手向ける香と米肉べいにく酒菜しゅさいの類が入っているらしい。

 廟の前で汲桑と行き会った老夫が言う。

「壮士よ、しばしここで待ちなさい。吾が神に供えた後にこれらの酒飯を召し上がるがよい。この縁起物は、食した者に福運をもたらす。神への供物であるとて遠慮には及ばぬ」

 汲桑と趙勒はただ廟に座して待つ。しばらくすると、老夫は酒飯を持って廟を出て、二人に薦めて食べさせた。

 汲桑は再拝して感謝し、趙勒に先に食べさせた後、自分はその残りを食べた。酒飯を食べ終わる頃、老夫が汲桑に言う。

「吾はお前さんがこの子を抱いているのを見て難を逃れてここに来たのであろうと察し、呼び止めて粗餐そさんを差し上げただけのこと、気になさる必要もない」

 老夫の容貌を見るに、青白い顔に総白髪、高齢であるにも関わらずその仙気はいかにも凡庸ではない。出身と姓名を問うたが、笑って言う。

「吾は真道を修行する者、通元子つうげんしと号しておる。姓名は長らく口にしていないので忘れた。占術にてお前たちが難儀にあると知り、ここに来たのだ。先ほど鹿の群を呼んで晋軍を遠くに去らせたが、この厄難より後に大きな難儀はない。この子を観るに、魚龍ぎょりゅうが髪際より起こり、犀貫さいかん顖門しんもんを貫いている。上四九じょうよんきゅう、つまり大貴にあたる。今、お前は陽九ようきゅうの数にあるゆえ、西北に向かって進むがよい。そうすれば、おうに逢えよう」

▼「魚龍が髪際より起こり」以下の人相見についての詳細は不詳、趙勒が高貴の相であり、汲桑は西北に向かえば困難を抜けられると言っているに過ぎない。

 それを聞いた汲桑と趙勒は拝謝して礼を言う。

「お言葉のとおりであれば、徳として決して忘れません。厚くお礼をさせて頂きます。尊老そんろうのお住まいをお教え下さい」

 趙勒と汲桑がそう言うと老人が答える。

「謝礼など求めてはおらんが、問うならば答えよう。吾が家堂の柱上には、漢の頃に書された一聯いちれんの句、『護国の功勲は大いに、齊民せいみんの徳澤は深し』と記されている。これが記されていれば、そこが吾の居所である。お前たちに一数いちすうを示しておこう。『壬申の年、苟道将こうどうしょうは避けるべし、甲戌の歳、王彭祖おうほうそは図るべし』、よくよくこのことを憶えておくがよい」

 その言葉が予言であると覚った汲桑が仔細を問おうとすると、老夫の姿は忽然と掻き消えていた。

 廟内の神霊の仕業と思い至って内に入れば、柱に一聯の句を掘り込んだ板がある。ずいぶんと古いものらしく、塵埃じんあいが積もってはっきりしない文字を読めば、先ほどの老夫が告げた句と同じであった。

 神霊の威に感銘した二人は土をつまんで香の代わりとし、拝礼した後に廟を出ると、一貫文の銅銭がその先に落ちている。汲桑はそれを見ると、神霊が路銀を賜ったのであろうと、再び拝謝して廟を出て、老夫の教えのとおり西北を指して歩きはじめた。


 ※


 これより以後、汲桑と趙勒が歩いていると、空から鼓角こかくの楽の音が聞こえることがあり、まるで貴人を送迎しているようであった。

 老人の予言したとおり、これ以降は難儀も飢えもなく、雁門がんもんより山西さんせいに入って上黨じょうとうに向かい、武郷ぶきょうの地に到った。

▼雁門郡、上黨郡はともに并州に属するが、それぞれ南北の端にあたる。武郷は上黨郡の属縣である。張賓たちとはぐれた黒莽坂が河西にあるとすれば、汲桑の行程は河西から黄河を流れ下ったような形になると考えられる。

 そこでちょうど日が暮れて手元の食料も尽き、進退に窮することとなった。

「このように困窮するもの天命、嘆いたところで何もはじまらない。もう少し先に進めば、人家に辿りつけるさ」

 趙勒は汲桑にそう言い、時を追って暗くなっていく山道を進む。百歩ほど行ったところで山稜の下に到った。先を見れば、林木は森々として鳥が騒ぎ、いかにも人家がありそうに見える。

 汲桑が駆け上ってみれば、はたして大きな邸宅があった。その周囲は数百歩、高い楼と大きな堂の垣根が幾重にも重なり、それぞれに門が設けられている。

 門の扁額へんがくには、「中朝ちゅうちょう閥閲ばつえつ」の四字が記され、曰くありげな家柄が細字で書き込まれている。そのような家が軒を連ね、両隣からは番犬らしき吠え声まで聞こえる。

▼「閥閲」は家柄を記して門上に掛ける札をいう。

 汲桑はしばらく門前に佇んでいたが、日が暮れかかっても人の出入りがない。急いで趙勒を連れに戻ると、門前の階に座って体を休めた。


 ※


 しばらくすると、門内から一人が出てきて門を閉ざそうとし、階に座る二人を見咎みとがめた。

「ここで何をしている。泥棒でもしようってのか」

「何を見ているんだ。こんな子供を連れて泥棒なぞできるもんか。吾らは行き暮れた旅人、一晩の宿を借りて体を休めたいだけだ」

 汲桑がそう言うと、見咎めた者は無言で内に引き返し、しばらくすると手に燭を持った二人が出てくる。年嵩としかさの方は白髪まじりの髪に素服そふくを着て、頭上には大帽だいぼうを戴いている。

「漢人がどこから来たのか。どうしてこの日暮れにこんなところにいる」

 先ほど見た扁額には、出自は晋朝の人と記されていた。そうであるなら、氐羌ていきょうの多いこの地では晋人であると言えば、懐かしく思って宿を貸してもらえるだろうと考え、汲桑が言う。

「吾は魏人ぎひと、姓は汲、名は桑、字は民徳みんとくといい、漢の汲長孺きゅうちょうじゅの末裔です。商売で辺境に来ましたが戦乱に遭って財を失い、ここまで来て日が暮れてしまいました。途中に宿もないので門前で一夜を過ごそうとしております。夜明けには早々に立ち去りますのでご容赦下さい」

▼汲長孺の姓名は汲黯きゅうあん、前漢武帝の頃の宰相であった。

 それを聞き、老人の従者が言う。

「この者の体は大きくて気性は虎狼ころうのよう、善人ではありますまい。罪を犯して官より逃れる者ではありますまいか。無闇に言葉を信じてはなりませんぞ」

「大人は見誤られますまい。吾は不逞ふていではありません。この子の父と交友がありましたが、難に遭って世を去りました。そのため、吾はこの子に何とかその跡を継がせようとし、辛苦を嘗めてこのような旅の身を過ごしているのです。どうして泥棒などでありましょう」

 汲桑が抗弁すると、老人は従者の言葉を無視して問うた。

「吾が家は貧しく差し上げられそうな物もない。途中で食事は召し上がられたかな」

「今朝早くに食事をとりましたが、それから二百里(約112km)を旅してきました。途中に食物を買える店もなく、まだ夕食はっておりません。宿さえお貸し頂ければ、明日には食物を買うこともできましょう。何卒一晩の宿をお貸し下さい」

 汲桑の言葉を聞くと、老人ははしために食事を運ばせて二人に振舞った。

「この氐族と羌族の地に住まっておりますが、吾も中国の出自、あなたが魏人であれば同郷ということになります。あなたの容貌を見るに、落魄らくはくされる相ではない。このように辛苦されているとは、誠に惜しいことです。また、この子の相も飢えに遭うようなものではない。ここからどこに行こうとしているのです。 何か伝手つてでもあるのですか」

 食事を終えると、老人は汲桑にそう問い、汲桑が答える。

「吾らは故郷を遠く離れ、すでに家業を失っております。この先に望むものなどありません。また、ここに到って路銀も尽き、挽回する計も思いつきません。ただ運を天に任せるのみです」

 そう答えた汲桑と趙勒はその夜をこの家で明かしたことであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る