第十二回 劉璩は劉淵と名を改め郝元度に投ず

 馬邑ばゆう孔萇こうちょうが捜索を命じた劉璩りゅうきょの一行は、山西に向かった王彌おうびたちとは異なり、漢中かんちゅうから陝西せんせいに向かって涇水けいすい沿いの安定あんていという地に到った。た。

 いまだに落ち着きどころはなく、心中の不安は拭えない。そこで齊萬年せいばんねんに相談して言った。

「吾らが家を捨てて仇を避け、復仇ふっきゅうを図る以上、まずは落ち着き先を定めて身を安め、志をばす必要がある。あてどなく四方を奔走したところで、なすこともなく終わるだろう」

「しかも、吾らは異郷の客、流落の身です。誰も吾らを知る者はありません。たとえよい落ち着き先があったとしても、そこで主客を転じる方法も案じねばなりますまい」

 劉璩の言葉に劉霊りゅうれいが付け加える。羌族きょうぞくに詳しい齊萬年は考えつつ意見を述べはじめた。

「はっきり断言はできませんが、先主の御世には羌族を慰撫すること厚く、それより羌族は漢の徳を慕っていると聞きます。馬孟起ばもうき将軍(馬超ばちょう)が羌族を治めた折も、軍事を慎んだことで羌族は生業に安んじ、将軍が任地を離れた後もその祠を建てて毎年祭りを欠かさないとのことです。その後、諸葛しょかつ丞相じょうしょう諸葛亮しょかつりょう)もまた羌族の慰撫いぶをつづけられました。それゆえ、羌族は呉、魏との戦いで常に漢の旗に従ったのです。吾らには居るべき家はなく、守るべき国もありません。しかし、吾らが漢の末裔と知れば、羌族は親しんでくれるかもしれません。そうなれば、挙兵して西北に覇を唱えることも容易です。まずは、羌族に身を投じるのが上策かと存じます」

 劉璩より年長の劉伯根りゅうはくこん、字は立本りっぽんという者がその意見に賛同した。


 ※


 劉璩も異論はないが、懸念があった。

「齊萬年の意見が正しいと思うが、一つ難がある。旅の身にあって吾らの姓名を問う者は多く、答えないわけにもいかぬ。しかし、吾が兄弟の名は先帝(劉禅りゅうぜん)がかつて諸国に公表しており、広く知れ渡っている。姓名をそのままに告げ、魏の報償を求めて吾らを売る者が出ては後悔しても及ぶまい」

 それを聞いた廖全りょうぜんが言う。

「殿下が懸念されるのであれば、改名なさればよろしいでしょう。何かお考えがありますか」

「母が吾を孕んだ時、大魚が腹中に投じる夢を見たと聞く。また、吾の掌には淵の字に似た模様があり、これは正に天意というものであろう。吾はこの字をもって名にしようと思うが、どうだろうか」

 劉伯根が賛成し、ついに劉璩は名を改めてえんとし、字を元海げんかいとした。仇を報じて漢を再興する兆しがここにはじめて表れたのであった。

 劉淵が起ち上がって言う。

「かつて聞くところによれば、魏は羌族と匈奴きょうどの土地を五部に分かち、左部さぶ晋陽しんようにある左國城さこくじょうに拠っているという。左部の主帥しゅすいにあたる左賢王さけんおうは姓をりゅう、名をひょうといい、もともと漢の陽泉侯ようせんこうであったが、姜都督きょうととく姜維きょうい、都督は官名)により羌族を慰撫するために遣わされた。その後、黄皓こうこうが朝権を専らにした際、まいないを求められて断ったことから讒言を受けて成都に還ることを許されず、ついに羌族の地に留まった。羌族は劉豹を立てて主帥とし、ついに匈奴の左賢王を名乗るに至ったのだ。つまり、元来は漢の旧臣だ。理をもって説けば、おそらく吾らに助力してくれるだろう。しかし、惜しむらくはいささか遠い。北部の主帥は涼州りょうしゅうの出身で、姓をかく、名を元度げんどといって文章に才があり、賢士を敬って士大夫を礼遇し、中華の風があると聞く。こちらはそれほど遠くはない。まずは郝元度に身を投じることとしよう」

 劉淵が行先を決めると、一行は旅立ちの準備を始めたことであった。

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