二章 流浪する遺臣たち

第十回 関防と王彌は靳準の店に到る

 成都せいとを脱け出した王彌おうび王如おうじょ関防かんぼう関謹かんきんの四人は、追騎ついきを防いだ李珪りけいの叔父、李祐りゆうの家に宿った。その晩は夜を徹して漢の衰運すいうんを嘆き、それでも再興の志を堅く守ると誓い合った。

 李祐は四人の言を謹聴し、翌朝の出発に際して言う。

「みなさんの忠義の肝胆かんたんには天佑てんゆうがありましょう。再興の望みが叶わないことを憂えるには及びません」

 その後、四人を送って道をともにし、手を握って約束した。

「大願を成就されれば、甥の李珪を私のもとに遣わして下さい。私も駆けつけてお助けしましょう。そうすれば、この老いぼれも父祖の報国の志を示すことができるというものです。みなさんのお志が変わらなければ、早いうちに落ち着きどころを定め、書信しょしんをお送り下さい」

 別れを惜しみつつ李祐は引き返し、王彌たちは先を急ぐ。

 李珪、李瓚りさん樊榮はんえいの三人を加えた七人は李祐の家から梓潼しどうを経て、遥か北方の馬邑ばゆうの地に到り、靳準きんじゅんという者が経営する酒店しゅてんに身を投じた。

▼「梓潼」は剣閣けんかくの南の入口にあたる。剣閣は蜀と漢中を往来する道のうち、蜀の桟道さんどうとして知られる。

▼「馬邑」は雁門がんもんの西北、陰山いんざん南麓から山西さんせいへの入口にあたる。『後傳』では「河西馬邑」と記すが、馬邑は黄河の東、山西北部にあるため、「河西」と称されることはない。「河西」の語はいわゆる河西回廊の他に、長安の北で黄河の湾曲に囲まれた河套地方を指す場合もある。しかし、馬邑は河套にない。ここでは山西の馬邑と解した。

 この靳準という人は西域せいいきの胡人であり、胸中に計略多くして専ら英雄豪傑と交際し、客を好んで天下の英儁えいしゅんを目利きしていた。

 その靳準が王彌たち七人を観るに、いかにも風采ふうさいに優れて体躯も大柄、雄偉ゆういな容貌は数多あまたの英雄の中でも傑出しており、尋常じんじょう一様いちようの人ではない。実に頼もしく思って賓客として遇した。しかし、すぐに天下国家を論じるようなことはせず、しばらくはただ黙って酒食を供するのみであった。


 ※


 ある日、暇ができた靳準はささやかな宴を開き、王彌たちを誘った。

「私はみなさんの居住まいや容貌からして凡百ぼんひゃくの徒ではないと思っております。周りにはあなた方の猛気だけを見て、何か罪を犯したのではないかと疑う者もおりますが、そうは思えません。今、本心を申し上げました。あなた方がどのような人であり、何をしてきたのか、お話頂けませんか。私の店に身を寄せられたのも何かのご縁、嘘偽りはご容赦ください」

 靳準は率直にそう言った。

 その言葉を聞いた王彌は靳準に異心がないと感じ、成都から馬邑に到った経緯を語り、旧知の人を頼って来たが、いまだ出会えていないと打ち明ける。さらに、その人の姓名を劉豹りゅうひょうといい、左國城さこくじょうまで行こうと思うが、其処にいるかどうかは分からないと仔細まで話して聞かせた。

 王彌が成都からの脱出を語った際、関氏の兄弟は目に涙を浮かべていた。それを見た靳準は彼らを蜀漢しょくかんの遺臣と察し、いよいよ丁重に遇する。

▼馬邑は同じ山西でも晋陽より北にある。漢中から馬邑に向かう場合、関中に出て潼関・風陵津ふうりょうしん、または、華陰かいん蒲坂津ほはんしんを経て黄河を越えた先にある河東かとうに入り、山西から流れ下る汾水ふんすい沿いに溯上する。これが一般的な行程であろう。ただし、その場合は晋陽を経て馬邑に到るため、左國城(後段には晋陽に近いという記述がある)のあたりを通過することになる。よって、王彌たちの行程は、漢中から関中に入るも北の河套地方に向かい、黄河の最北端に近い五原ごげん付近で黄河を渡り、そこから東の馬邑に到ったと考えられる。ただし、馬邑にいるとすると、後段で別の不可解が生じる。


 ※


 一日いちじつ、二人の客が数人の伴を連れて店内に入り、一番奥の上座かみざに座った。

 同伴の者たちが左右に侍り、酒肴しゅこうを並べた食事が始まる。店の者たちは応接に走り回り、みな恐々きょうきょうとしてお追従ついしょうまで口にする。

 たまたま関防が通りかかって様子を見れば、上座の男は長身に雄偉な体躯、たたずまいは威風いふう堂々どうどうとして容貌は人波にまぎれても目立ちそうである。

「店にいるお客は体躯も容貌も群を抜いていますね。どういう人なのでしょう」

 靳準に問うも答えず紛らわせようとする。関防は食い下がって諦めない。やむなくその人の来歴を語ったところ、おおむね次のような話であった。


 ※


 この二人は尋常の人ではなく、上座の方は北海ほっかいの太守だった孔融こうゆうの孫で姓はこう、名はちょう、字を世魯せいろといいます。

 かつて孔融が曹操そうそうに殺害された時、その下僕の孔忠こうちゅうという者が孔家の幼子を抱えて逃げ延び、この山西に身を隠しました。

 幼子は成長してと名乗り、孔和こうわの子が孔萇です。万夫ばんぷ不当ふとうの勇があり、幼いころから膂力りょりょくも人に優れておりました。

▼孔融の子の名は伝わらない。

 かつて、この近くの野墅山やしょざん深山しんざん幽谷ゆうこくに住まう怪しい獣がおり、その姿は狸や熊に似ておりましたが、赤髪せきはつで人の形をとり、鋭い爪と牙を備えて口は豹のよう、両手は長く垂れてひざを過ぎ、体中に長い毛が生えておりました。

 背丈は七尺(約217cm)ばかり、爪は鉄に劣らず硬く、力は三百斤(約180kg)の獣をも軽々と背負うほどです。断崖だんがいを駆けて木に登り、その速度は飛ぶようにはやくて馬も追いつけず、矢を放ったところで目敏めざとく見つけて打ち落としてしまいます。その咆哮ほうこうは割れ鐘のような大音声だいおんじょう、人々はこの獣を穿山夜叉せんざんやしゃと呼んでおりました。

▼『大清廣輿圖だいしんこうよず』には武威ぶいの北に野猪澤やちょたく、一名休屠澤きゅうとたくが描かれている。編者の酉陽野史ゆうようやしは馬邑を河西と思っている節があり、野墅山もその誤解にもとづいて創作されたのかも知れない。

 この獣は朝から姿を現し、昼前に姿を消して夕刻にまた現れます。姿を現すと山道に座り込んで人を待ち、運悪く通りかかった者を食い殺すのです。

 人々は怖れて昼前から夕刻までの間に限って山中を通り抜けるようになりましたが、きこりまき拾いを生業なりわいとする者たちは生活が立ち行きません。

 縣令けんれい劉殷りゅういんはそれを知ると、猟師を集めて山狩りをしました。しかし、獣はさらに山奥に逃れて姿を隠し、猟師がいなくなるとまた現れて人を襲い、官兵が討伐に来れば十日も二十日も姿を消して現れません。

 ついに昼は隠れて夜に出てくるようになり、人家を襲うまでになりました。さしもの縣令も手の打ちようがなく、役所に高札こうさつを掲げ、この獣を殺せば銀百両(約3.7kg)と月々の食糧を末代まで保証すると賞金をかけました。

 孔萇は高札を見るや縣令に面会し、大見得おおみえを切ったのです。

▼魏晋の一両は13.92g、著述された明代は37.3gに相当、以降、明代に従って併記する。

「怪しい獣が人を喰らってその害が甚だしいとあれば、必ずや除いて民を安んじて御覧に入れます」

「日夜憂え、このことばかり考えている。人民の害を除こうと猟師を集め、官兵を遣わしたものの、この獣は狡猾こうかつで制する術がない。駆除できるなら重賞じゅうしょうとて惜しくはない。壮士そうしがわざわざここまで足を運ばれたということは、あの獣を捕らえる方策あってのことであろう。その方策を是非とも聞かせて欲しい」

「非才の身ではありますが、生命を捨ててかかれば、この獣を斬ることも容易たやすいでしょう」

 劉縣令の問いに、孔萇は仔細を述べずにそう応じるばかり。縣令は決意を知って意に任せ、革を油に浸して切れにくくした軽い鎧と鉄鎖の帷子かたびらを贈りました。

 縣庁を退いた孔萇は家に戻り、鎧を着込んで二本の刀を提げ、遣い慣れた六十斤(約36kg)の長柄ながえ鉄鎚てっついを軽々とにない、多勢では獣が身を隠すと踏んで単身で野墅山に脚を踏み入れました。

 夜叉を探して深い森に分け入り、山中を巡ること数里ばかり、樹木が茂って昼なお暗い深山の中、夜叉が住むと思われる岩穴を見つけます。

 入口に近づいて聞き耳を立てれば、岩穴の奥から骨をかじる音が聞こえ、ここに違いないと中を覗けば、獣は大きな鹿の三分の一をすでに食べ終わった様子。孔萇はまだ踏み込むつもりはありませんでしたが、獣は早くもその姿を見つけ、鹿を捨てて襲いかかってきました。

 迎える孔萇は鉄鎚で頭を狙い撃ちましたが、獣はそれを避けて組みつき、孔萇を組み敷きました。ただ、鹿を食べて満足していたのか、その上に座ってもすぐさま喰おうとはしません。

 組み敷かれた孔萇はその隙に腰間ようかんの刀を抜いて下から突き上げ、刺された穿山夜叉はたまらず叫んで、その声が山林を震わせました。

 さすがの夜叉も所詮は獣、刀を奪って孔萇を刺し返すようなことはできず、ただ鋭い爪で孔萇の鎧を引き裂こうとするばかり。その爪の鋭いこと、鎧の肩や肘が裂き破られてしまいました。

 孔萇はさらに一刀を抜いて夜叉のわきの下を狙いすまし、えいと突き刺せばさしもの夜叉も痛みにえず、ついに孔萇を捨てて断崖を飛ぶように逃げ出します。

 孔萇が鉄鎚を背負ってそれを追えば、獣は大きな洞穴の前で力尽き、二本の刀を突き刺したままで座り込んでいました。鉄鎚を挙げて一撃に撃ち殺すと、首だけを提げて山を下り、縣庁に出頭しました。

 劉縣令は大いに喜んで高札のとおりの賞を与えようとしましたが、孔萇はこう言って辞退します。

「ただ民のために害を除いただけのこと、賞を受けるには当たりません」

 劉縣令は何とか口説くどこうとしましたが、ついに固辞して譲りません。これより、縣の人々は大人も子供もすべて孔萇を敬い、縣庁でも上賓じょうひんとして遇するようになったのです。

 孔萇の右に座る方は、河西の武威の出身で、姓はとう、名はひょう、字を霧化むかといい、孔萇が一代の豪傑と知って腕比べに参じたものの、二人の騎射や膂力は甲乙つけがたく、かえって義兄弟の契りを結んだ人です。

 桃豹もまた弱きを助けて強きを挫く義侠の士、ふたりとも義心の強さは実の兄弟のようによく似ています。

 かつて武威の本郡に豪族があり、庶人の妻を犯そうとしてその妻が従わなかったことを恨み、ついに冤罪えんざいを構えて夫婦ともども殺してしまったことがありました。桃豹は殺された夫婦の親族から訴えを聞いて憤り、たちまち豪族の家に押し入って老幼を問わず皆殺しにしました。

 さすがに武威には身の置きどころがなくなり、幼い弟を伴い出奔して馬邑に身を寄せたわけです。

 弟は二人おり、それぞれの名をひょうといいます。成人すると二人とも兄の桃豹に劣らない義侠の士となり、三人揃って孔萇と同居していると聞きます。

 世の人々は、豺狼さいろう虎豹こひょうが群をなしたようなものだとこの四人を評しています。このような人たちなので、縣内では一人として尊敬しない者がなく、縣令の命令を聞かない者はいても、彼らの命令を聞かない者はおりません。

 私とも昵懇じっこんの仲ですので、彼らはいつもこの店に顔を出し、店の者たちを使う様子も自分の家にいるのと変わらないわけです。ただ、揃って酒癖が悪く、酔った後は天下に畏れる者もなく、親兄弟が相手でも譲りません。

 あなたがたはいずれ彼らに逢うことになるとしても、今日この場で逢ってはなりません。此処を離れ、表の声が聞こえない奥の離れに閑居かんきょしていて下さい。

 万一、彼らの雑言ぞうごんを耳にすれば、聞くに堪えないでしょうから。

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