第九回 陶璜と郭欽は晋帝司馬炎の撤兵を諌む

 諸親王がそれぞれの鎮所ちんしょに赴任した後、晋帝しんていはさらに洛陽らくようの大軍をも解散させた。

 この頃、洛陽は安寧あんねいの内にあり、国内にしょくの憂いなく、国境に蠻狄ばんてき侵擾しんじょうなく、天下泰平にして甲兵こうへいを用いることがない。晋帝の心中に驕慢きょうまん懈怠けたいの芽がきざしていた。

 およそ一切の進献された銭を手車てぐるま後宮こうきゅうに運び入れ、宮人きゅうじん賞賜しょうしとして与えて自由に遣わせたことは、その一例である。

 一日、近臣たちと宴会を開いて歓飲がたけなわとなった頃合い、晋帝は左右を見回して座に劉毅りゅうきを見つけると、次のように問うた。

「卿は直言ちょくげんの臣として知られるが、ちんかんのどの皇帝に比されるだろうか」

桓帝かんてい霊帝れいていに似ておられます」

 劉毅は後漢ごかんを衰退させた二帝を挙げ、晋帝が不興ふきょうげに重ねて問う。

「朕がどうして桓帝や霊帝のような悪をなすに至ろうか」

「桓帝、霊帝は大いに売官ばいかんしたものの、その銭貨せんかをすべて国庫こっこに入れました。今、陛下へいかは官を売った銭を寵臣ちょうしん私門しもんに入れておられます。これより考えますと、陛下は桓帝、霊帝に遠く及びません」

 晋帝は劉毅の言を喜ばなかったが、臣下の言をれることを旨としており、強いて大笑たいしょうすると言った。

「桓帝、霊帝は決してこのような諫言かんげんを聞くことがなかったであろう」

 宴が果てて後宮に帰って思い返すところ、劉毅の言葉は忠心より出たことが明らかである。その賞として金二十斤(約4.5kg)を下賜かしし、直言の臣を称揚しょうようした。

 それより朝臣ちょうしんたちは職務に精励してみな忠諫ちゅうかんに意を用いたため、朝廷の政治はつつがなく執りおこなわれ、民は安寧に教化されていった。


 ※


 このことから、晋帝はつくづくと考える。

「武力を廃して文教を興し、これよりは武器を使わないようにすべきである。しかし、親王しんおう刺史ししは鎮所に大兵たいへいを擁して民を徴兵している。その大兵が悪逆を図る心をそそのかして万一に及べば、強者が弱者をしいたげて近隣を併呑へいどんし、国家の大害に至るであろう」

 時に太康たいこう五年(二八四)の三月、晋帝は朝会に文武百官を集め、休息に使う正殿せいでん脇の別殿べつでんでこのことを議論した。

藩鎮はんちん守兵しゅへい員数いんすうを減らし、徴兵に苦しむ民を蘇らせよ。兵数は大郡だいぐん百人、小郡しょうぐん五十人に限る。それ以外の兵はことごとく解放せよ」

 勅命ちょくめい郡国ぐんこくに通達されると、交州こうしゅう刺史の陶璜とうこうという者が上奏して反対する。

「一方の大臣に任じられて国家の利害に関わる事柄を申し上げぬわけには参りません。そもそも、物事には常態と暫定というものがあり、この両者を便宜に従って使い分けねばなりません。そのことを論じさせて頂きます。現在、交州のように南蠻なんばんと接する地域において兵数を減らせば、蠻人ばんじんは隙を窺って横行おうこうしようと企てるものです。兵数を減らしてどうして州を守り抜くことができましょうか。臣は上奏して兵数を減らす利害を申し上げざるを得ません」

 遼東りょうとうの州刺史である郭欽かくきんもまた、同様に上奏して諫争かんそうした。しかし、両者ともに晋帝の意に叶わず、国境の実情を知らぬ近臣はもっともらしく追従して言う。

夷狄いてき外患がいかんは古来より途絶えた例がありません。夷狄を制するか否かは人君の徳を測るものであり、有徳の君が教化すれば数十年の後には良民りょうみんとなるものです。『論語ろんご』にも『顓臾せんゆにあらずして蕭墻しょうしょくの内にあり』とありますとおり、兵事は必ずしも異民族から起こるとは限りません。君が徳を修めなくては一族さえも敵になるものなのです」

▼「顓臾にあらずして蕭墻の内にあり」とは、春秋時代に季氏きしは隣国の顓臾を敵視したが、その実、季氏にとっての本当の問題は魯の宮廷内にあった、という故事による。ここでは異民族を顓臾に比し、問題とするにあたらないと司馬炎しばえんに追従したのである。

 このため、陶璜と郭欽の諫言が納れられることはなかった。

 後年、五胡ごこが中華を乱して晋の王朝を傾けることになるとは、誰にも想像の外のことであった。


 *


 数十万の守兵を解放して辺防へんぼうの費用を省いたのみならず、連年の豊作により人民も富んで天下は泰平に帰す。

 晋帝はいよいよ政治をおこたり、君臣ともに日がな宴飲えんいんを楽しみ、晋帝に寵用ちょうようされる臣下も、宴飲を好む浮薄ふはくばかりとなった。

 彼らはただの一人も遠謀えんぼうを持たず、大局たいきょくを見定める器量を欠き、ただ酒色しゅしょくふけるばかりで主君をただせようはずもない。

 さらに、晋帝は詔を下して江南こうなん美姫びきを民間から選び、孫皓そんこう宮女きゅうじょ五千人を後宮に納めて歌舞かぶを習わせ、宴席で雅楽ががくかなでさせた。

 後宮は百花ひゃっか繚乱りょうらんの美女に満ち、その数は一万を越えるに至る。晋帝は日々後宮を巡り、その供揃えは歌舞に長けた美女が百人ほど、自らは羊が引く小さな車に乗ってその進むに任せ、羊が停まった宮で宴会して其処に宿った。

 それゆえ、客宮きゃくきゅう妃嬪きひんたちは誰もが帝の寵幸ちょうこうを得るべく来幸らいこうを願い、さまざまな手練てれん手管てくだを尽くす。

 或る者は羊が足を止めるように宮の前に竹の葉を挿し、或る者は同じく塩汁を地面に撒いた。羊は塩気を好み、地面に塩気があると止まってそれを舐める。宮女は羊が足を止めたと見るや、すぐさま晋帝を宮内に導き入れて宴会を開いた。

 日が暮れると妃嬪たちは晋帝を後宮に留めて他所に行かせず、日夜このような有様であったため、政治は日を追って弛緩しかんしていったことであった。

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