第八回 晋帝司馬炎は大いに宗室を封ず

 司馬炎しばえん禅譲ぜんじょうを受けて帝位にき、を平定して天下統一を成し遂げた。その心は満ち足り、ついに宗室の諸王を列国に封じて藩屏はんぺいにせんと図り、各々に国を選ばせることとした。

「このはいまだかつて国益となったことがありません」

 百官は反対し、闕下けつか頓首とんしゅして諫言かんげんする。その中にいた劉頌りゅうしょうという官吏は上疏じょうそして議論した。その内容をつまむと次のようになる。

せつに思うところ、陛下の宗室への待遇は寛容であるため、諸親王は心がおごってその性は道より外れております。一朝にして国に封じ、洛陽らくようより遠く離れた鎮所ちんしょ重兵じゅうへいつかさどららせたとすれば、陛下の聖慮せいりょは国家の藩屏とされんと図るものであっても、識者は後代に禍根かこんを残すものと見なしましょう。そもそも、弊害を改めるには害を生じるに先んじることをとうとび、わざわいを防ぐには未然であらねばなりません。遥かに思うところ、陛下は社稷しゃしょくの計をなし、国土をいて列国を建て、それにより晋朝の恩典を諸親王にあつくせんとされています。このことは一代の盛事せいじであると申せましょう。しかしまた、つぶさに時勢を計ってみるに、それは内憂ないゆうを育てもいたします。朝廷は大いに賢人の意見を集めて将来の変化に備えねばなりません。もし臣の言に汲むところありとされるのであれば、賢達けんたつの士とともに是非を論じて頂き、もし臣の言を迷妄めいもうとされるのであれば、斧鉞ふえつちゅうに就いて諸親王に謝罪させて頂きたく存じます。上奏にあたり惶恐こうきょうに堪えず、問罪もんざいの使者の到来を謹んでお待ちいたします」

 この上疏は晋帝しんていの意に叶わないものであった。馮紞ふうたんという臣が劉頌を非難して言う。

「劉頌は司隷しれいの職にありながら、考課こうかの際に法に触れるおこないがあって京兆けいちょうに左遷されようとし、その時は寛恕かんじょを加えられました。それにも関わらず、早くも妄言もうげんをなしております。劉頌の議論など公論こうろんとして扱う必要もありません」

 晋帝は馮紞の進言に意を決し、有司ゆうしに命じて諸親王の封禄ほうろくを定めさせた。親疎により戸邑こゆうを加減して国を建て、それぞれを藩職はんしょくに就かせる。諸親王は職を受けると入朝して厚恩こうおんを謝した。

 さらに詔が下って親王たちに鎮所への赴任を命じ、あわせて洛陽らくようでの常駐を許さないこととした。


 ※


 親王たちは兵馬を整えて任地に向かうこととなり、当時、文武の官吏で洛陽にいる者たちは、残らず洛陽の城外まで出て餞別せんべつをおこなった。上から下まで官人たちが綺羅きらを着飾って装いを尽くし、城内はその車で溢れて道を争う。

 有識者たちは諸親王の兵馬が盛んであるのを見て沈吟ちんぎん嘆息たんそくし、密かに嘆く。

「晋室の乱階らんかいはこれより始まるだろう。枝葉しようを失ってどうして根本こんぽんが立ちつづけられようか。劉頌の諫言が納れられなかったことがつくづく惜しまれる」

 晋帝が諸親王を列国に遣わした後、朝権ちょうけんは専ら皇后の楊氏ようしにより、その父の楊駿ようしゅん縁故えんこにより朝政をほしいままにした。

 楊駿の才知さいちは凡庸の域を出ず、晋帝のなすことに反対どころか異論を述べることもない。それゆえに寵愛はひとかたならず、臨晋侯りんしんこうに爵を進めて中書令ちゅうしょれいを領し、車騎しゃき将軍をも兼ねて文武軍国の大事をつかさどらせるみことのりを下そうとした。

 それを聞いた尚書郎しょうしょろう褚砉ちょけき郭奕かくえきの二人が上疏して言う。

封建ほうけんとは有功者に報い、有徳者を尊ぶものです。今、皇后の父の楊駿は、身は外戚がいせきであってもかつて汗馬かんばろうなく、一朝いっちょうにして封侯ふうこうの栄誉を受けるとは、いにしえより例がありません。よろしく放恣ほうしを慎んで旧例にしたがい、国規こくきを乱されませぬよう」

 晋帝はこの上疏により楊駿を侯に封じる議論を中止し、ただ車騎将軍に任じようとした。

 二人は上疏してそれにも反対した。

「楊駿の器量は小さく、社稷の重任に堪えられません。天下の規範を踏み外すことになりましょう。それでは自らの身を損なってその家に禍を生じることとなり、かえって楊駿のためになりません。漢の梁冀りょうき竇武とうぶ明鑒めいかんとなさるべきです」

▼「梁冀」と「竇武」はともに後漢ごかんの外戚、梁冀は妹が順帝じゅんていの皇后となったことから権を専らにして「跋扈ばっこ将軍」と呼ばれたが、桓帝かんてい誅殺ちゅうさつされた。竇武は娘が桓帝の皇后となり、桓帝が後嗣こうしなくほうじたために霊帝れいていを擁立して権を専らにしたが、陳蕃ちんばんとともに宦官かんがん排斥を企てて果たさず自殺した。なお、『後傳』『通俗』ともに「竇武」を「竇固とうこ」としているが、竇固は河西かせいに独立勢力を保って光武帝こうぶていに降った竇融とうゆうの甥にあたり、外戚ではあるが天寿てんじゅをまっとうした。文脈に相応しくないことから改めた。

 晋帝はその上疏を容れず、いよいよ楊駿を寵愛ちょうあいして国家の大事、軍国の重任を委ね、自らは遊楽ゆうらくを好んでますます政治から心を離した。

 楊駿は弟の楊洮ようとう楊濟ようさいとともに朝権を恣にし、公卿以下の大臣も忌憚きたんせざるを得なくなる。朝野ちょうやは彼らを指して「三楊さんよう」と称した。

 ただ一人、洛陽の警察権を掌る司隷しれい校尉こうい劉毅りゅうきだけは楊駿に直言ちょくげんして功名を抑え、威勢を少しく減じて賢者に親しみ佞者ねいじゃを遠ざけるよう勧めた。しかし、楊駿はその言を納れることができず、ついに劉毅との折り合いまで悪くなったことであった。

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