第四回 晋は呉主孫皓の書を促し湘東を平らぐ

 出兵に反対した賈充かじゅうの甥にあたる賈模かぼは、長沙ちょうさから廣州こうしゅうに向かう羅尚らしょうの軍勢と分かれ、麾下きか夏侯駿かこうしゅんたちとともに湘東しょうとうの平定を進めている。

 諸々の州郡に降伏を勧告するも降る者はなく、兵を進めて建平けんぺいの郡境に到ろうとしていた。

 建平の斥候せっこうがすぐさま太守たいしゅに晋兵の侵攻を報じる。

 建平の太守は姓を、名をげんあざな士則しそくといい、呉郡ごぐんの出身、智謀に優れて兵法に通じていた。

 かつてしん益州えきしゅう刺史しし王濬おうしゅんが盛んに船を造っていると知り、長江を流れ下って呉を併呑へいどんするはかりごとの一環と看破かんぱした。

 対策を上奏したものの、孫皓そんこうはその上奏をれなかった。それでも城池じょうちを修理して防備を固め、兵器を増産して甲冑をつくろい、晋兵の来襲に備えてむことがない。そのため、益州から長江を下る王濬の軍勢が城下に到るも、防備を観てその侮り難きを知り、敢えて攻めずに江南を目指したのであった。

 吾彦は建康けんこうが失陥しても建平を晋に明け渡さない。晋帝しんてい易々やすやすとは降らぬと察し、ついに平定すべく軍勢をつかわすこととしたのである。


 ※


 斥候の報に接した吾彦は僚属りょうぞくを召して軍議の席で言う。

「晋は名分めいぶんなく兵威をたのんで吾が呉国を併呑した。社稷しゃしょく傾覆けいふくしたとはいえ、吾らは主上しゅじょう孫皓そんこう)より任を解かれたわけではない。代々呉の禄をんでおりながら、どうして報恩の心がなくていられよう。敵兵が郡を乱そうとしていると知りながら、国家を忘れて職に背いてはならぬ。突き詰めれば、同心して守禦しゅぎょに務め、職分を全うするよりないのだ」

 湘東太守の縢條とうじょうが同じて策を勧める。

▼「湘東郡」は長沙郡東部をいて建てられ、巫峡ふきょうに近い建平郡からは遠く、建平に太守がいることは考えにくい。

「晋兵どもが多勢をたのんで建平に入り、地が狭く城が小さいと見れば、見逃すはずもない。到着した出鼻、兵の心が定まらないうちに攻めかかれば、一勝を得ることは必定ひつじょうである。緒戦しょせん痛撃つうげきしておけば、城も守りやすくなろう。その後、げきを飛ばして江南こうなん各地の兵を糾合きゅうごうし、こぞって近隣の郡縣を維持し、呉国の恢復かいふくを図るのも一代の盛事せいじではないか」

 吾彦もその策に同意し、晋兵を防ぐ計略を定めると、全軍を挙げて出撃した。


 ※


 自ら戎装じゅうそうして馬上に長鎗ながやりを引っ提げ、隊伍を整えて陣頭に立つ。呉軍は軍鼓ぐんこを鳴り響かせつつ、海濤かいとうの如く押し寄せる晋兵の眼前に布陣した。

 それに応じて晋兵が陣営中央を空けると、金兜きんかぶと魚鱗ぎょりんの鎧に身を固め、模様が入った長衣ちょういを羽織った一将が進み出る。矢筒やづつ狼牙箭ろうがせんを指して手に斬馬刀ざんばとうを提げ、龍馬りゅうばかと見紛みまが駿馬しゅんめに打ち跨り、中軍を背にして立つ。これが平東へいとう将軍の夏侯駿である。

 その背後に元帥の賈模も姿を現した。飛魚ひぎょを描いた錦衣きんいを羽織り、束髪そくはつした頭上に金冠きんかんを戴いて腰に花模様の玉帯ぎょくたいを締め、右には禦敵ぎょてき将軍の李微りび、左には破敵はてき将軍の辛冉しんぜんが両翼をなす。

▼「禦敵将軍」、「破敵将軍」の軍号ぐんごう晋代しんだいにはない。それぞれ防禦と攻撃を担当する将帥と考えればよい。

 夏侯駿が鞭を振るい、声高こわだかに吾彦の非を鳴らした。

「吾が大晋だいしん聖上せいじょうは仁義により招安しょうあんをおこなわれて今や天下は一家の如く、降伏した者も器量に応じて任用されておる。吾彦は何を血迷って無益の抵抗をなすか」

「吾が呉国の君臣に罪過ざいかなく、ことにお前たち晋とは仇讐きゅうしゅうも結んでおらぬ。何のために兵威を恃んで征服したか。吾らは代々呉の禄を食み、主命を奉じて城池を守る任に就いておる。主命に背いて職責を放棄し、他人に明け渡す道理はない。多言たごんを費やすにも及ぶまい」

 吾彦はそう言い返すと、馬をって晋の陣中に斬り込んだ。

 晋の左翼から破敵将軍の辛冉が大刀を抜きつれ馬を駆って迎え撃つ。吾彦と辛冉は陣頭に刀鎗を交わして馬を馳せ、往来して戦うこと一時(二時間)を過ぎるも勝敗を決する様子がない。


 ※


 晋の右翼、禦敵将軍の李微はそれを見るや、吾彦を挟み討つべく馬をつ。迎える吾彦は鎗をひねって左右の敵を迎え撃ち、微塵みじんも怖れる色がない。

 戦が佳境かきょうに入ったところ、にわかに晋陣の後方が乱れたつ。何事かと見遣みやれば、一群の人馬が虎豹こひょうの勢いで晋兵の背後をいて斬り乱している。

 その軍旗は湘東太守の縢條とうじょうのものであった。

 晋兵は前後に敵を受けて軍列の乱れが中軍ちゅうぐんにまで及ぶ。元帥の賈模は文官であって戦場を知らず、この様を見るや馬を駆って逃げ奔った。晋兵たちは元帥の逃走を見て浮き足立ち、呉軍に斬り乱されて中軍が総崩れとなる。

 夏侯駿が兵士を留めんと大喝するも、一度崩れた軍勢を立て直す術はない。

 縢條はさらに進んで陣を崩しにかかり、気をらした李微は吾彦の鎗をさばききれず、左肘ひだりひじに鎗先を受けて陣中に逃げ込んだ。辛冉は一人留まって吾彦と戦いつつ兵を叱咤しったするも、浮き足立った軍勢を支えきれない。ついに馬首ばしゅを返して奔走する。

 吾彦はそのあとを追うことなく、馬に鞭をくれるや縢條と兵を合わせ、独り踏み止まる夏侯駿を攻め立てる。

 夏侯駿も縢條と吾彦を支え切れず、ついに賈模の跟を追って逃げ奔る。呉兵は勝勢に乗じて追い討ち、晋兵は必死で逃げるもみちに死傷者が連なり、哭声こくせいが野に満ちて凄惨せいさんな様相を呈した。

 晋軍が三十里(約16.8km)ほど後退して兵を点呼してみれば、この一戦の死傷者は二、三万にも及んだ。

 緒戦しょせんに勝利を収めた吾彦は、深追いを控えて兵を城に返す。

 賈模も平地に柵を設けて軍営を置き、翌日に夏侯駿が兵を出して城攻めにかかったものの、吾彦は奇兵きへいを出して退ける。たびたび挑戦するも、ついに吾彦を降せない。

 賈模と夏侯駿は力攻めでは建平を陥れられぬと悟り、報告をしたためめて洛陽の朝廷に上奏をおこなった。


 ※


 数日後、洛陽にある晋帝が朝会を開いた際、伝奏官でんそうかんが征討軍からの上奏を読み上げた。

「東南方面の主将を務める羅尚、賈模の上奏によりますと、廣州こうしゅう刺史しし陸晏りくあん、建平太守の吾彦は呉主ごしゅへの節を守って兵を構え、征討の軍はかえって破られ、ともに兵をくじき将を損なっております。対策を講じて頂きたい、とのことです」

 晋帝は深く憂い、百官を集めて対策を講じるよう命じる。そこに張華ちょうかが進み出て言う。

「それらの守将で降伏をがえんじない者は、臣下の忠を尽くしているだけであり、義士であるといってよろしいでしょう。兵威でせまってはなりません。呉主の身は洛陽にあります。その手書しゅしょって抗う将士を帰順させるのが上策と存じます。陸晏と吾彦は明哲めいてつ貞良ていりょうの士、呉主の手書に接すれば、必ずや城を開いて帰順いたしましょう」

 晋帝はその策を容れ、帰命侯きめいこうの孫皓を召し出して問うた。

「廣州と建平の守将がちんの命に抗って帰順せぬ。彼らを帰順させられるか」

やすきことです。彼らは忠義の士、しんでさえ帰順したのですから、どうして降らないはずがありましょう。一書を認めて暁諭ぎょうゆいたしましょう。兵を遣わすにも及びません」

▼「臣」は皇帝に対する臣下が遣う一人称。

 晋帝は孫皓の書状を湘東と廣南こうなんの各地に掲示するよう命じた。


 ※


 孫皓の書状をたずさえた使者はすぐさま建平に到り、吾彦は書状に再拝さいはいして礼を尽くした後に開封する。

 その書状には、次のように記されていた。


 先ごろ、寡君かくんの不徳なるがゆえに天は呉をたすけず、時勢を失って兵は尽きた。

▼「寡君」は主君が臣下に対して遣う一人称。

 ゆえに大晋に命を帰したのである。近頃聞くところ、呉の公卿こうけいが城を閉ざして堅守しているという。これは、命懸けの忠節をあらわしているつもりで、国主をとりことされた呉国のはじさらすものである。

 その上、戦により落命する者も多く、民の血で土を紅く染めている。

 それは、将軍個人にあっては国家への尽忠であっても、寡君の身にあっては大晋への罪過を重ねるに過ぎぬ。かつ、寡君は不肖ふしょうにしてすでに国を失った。

 けいらは誰のために城を守るのか。名分めいぶんを争って抗おうとしたところで、蜀も呉も晋に抗し得なかった。区々くくたる廣州、建平の地にって大国の大晋に抗ったところで、無知むち蒙昧もうまいであるに過ぎない。

▼「卿」は主君が臣下に対して遣う二人称。

 この書が到る日、将軍は甲冑を脱いで洛陽に向かい、いよいよその忠心を顕し、願わくは、赤子せきしを保全し、百姓ひゃくせいを蘇生させよ。それもまた将軍の慈恵じけいとなるであろう。

太康たいこう元年(二八〇)八月 もとの呉主、帰命侯の皓、書す


 吾彦は読み終わると涙を流し、僚属を集めて告げた。

「さきほど主上の手書が届いた。主命しゅめいを受けては降らざるを得ぬ。この城を守る名分はもはや失われた」

 使者を遣って孫皓の手書を返却し、さらに次のように告げる。

「廣州の陸晏や王毅おうきにもすみやかにこの書を送って慰諭して頂きたい。主命を受けた上は、吾らも甲冑を脱いで城を開き、大晋に帰順いたそう」

 賈模は約をたがえず早馬を仕立てて郴嶺ひんれいに手書を送った。

 廣州の陸晏も吾彦からの書状を読み、諸葛愼しょかつしん周處しゅうしょたちとともに孫皓の手書をはいすると、涙を流して痛哭つうこくした。

 陸晏を筆頭に、陸玄りくげん縢修とうしゅう王毅おうきたちもみな軍を解いて洛陽に向かい、孫皓を拝してともに晋に帰順した。

 これにてようやく晋の天下は泰平となったことであった。

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