第五回 蜀雄は乱を避け興業を計る

 しんによるの平定に先立つこと十七年、元帝げんてい景元けいげん四年(二六三)の冬、しょくの国都である成都せいとは危機に瀕していた。

 史上に蜀漢しょくかん皇統こうとうを再興して劉氏の火徳かとく中原ちゅうげんに輝かせ、恢復かいふくの大業を成し遂げる、その一族はまさに成都の城中にある。

 蜀の後主こうしゅ劉禅りゅうぜん譙周しょうしゅうの進言により魏への降伏を決めて国を誤った。

 後主の第三子である劉諶りゅうしん万代まんだい虜囚りょしゅうの恥を留めると苦諫くかんしたものの、後主はその諫言をれず、劉諶は幼子を弟の劉璩りゅうきょに託して養育を命じると、先主せんしゅ、つまり祖父の昭烈帝しょうれつてい劉備りゅうびを祀る霊廟れいびょうぬかづいて大哭だいこくした後、妻を殺して自らも命を絶った。


 ※


 幼子を託された劉璩は後主劉禅の末子、諸王の中にあって「智慧袋」と呼ばれるほどに機略きりゃく豊かな人である。この時、劉諶と同じく後主をいさめようとしていたものの、後主の深い迷妄めいもうと苦諫でも覆しえぬ大勢を劉諶の自死じしから悟って悲嘆するところ、劉備の養子であった劉封りゅうほうの次子、劉霊りゅうれいが尋ねてきた。

▼『後傳』では劉璩は梁王りょうおう劉理りゅうりの子とされており、劉禅の子の劉諶とは従兄弟となる。『通俗』では劉禅の末子、劉諶の末弟としており、ここでは『通俗』に従う。

▼劉封の子は劉林りゅうりんの名が伝わる。

 その劉霊に劉璩が問う。

「今や国運は風前の灯火ともしび、どうすべきであろうか」

「突き詰めれば、害を避けて身を全うすることに尽きましょう。手をつかねて魏兵に殺されるようでは、自分の頭で考えられない奴婢ぬひと選ぶところがありません。吾が兄の劉伯根りゅうはくこんと相談なさるのがよろしいでしょう」

▼「劉伯根」は『通俗』『後傳』ともに「劉宣りゅうせん」とするが、この劉宣は途中より現れなくなり、かえって劉伯根が現れるため、同一人物の誤記であると考えられる。以後、劉霊の兄として記述される「劉宣」は「劉伯根」に統一する。

「吾もそのように案じていた。伯根兄をいて他に計をともにすべき人はいない」

 それを聞くや、劉霊は駆け出して兄の劉伯根を連れ戻る。

「崩れようとする屋敷を一本の柱では支えきれません。城が陥れば玉石ぎょくせきを問わず焼き尽くされましょう。尊兄そんけいには何か妙案がおありでしょうか」

▼「尊兄」は兄弟または親戚の年長者への呼びかけに遣う二人称。

 劉璩の問いに劉伯根が意見を開陳する。

賢弟けんていの知略は吾を百倍してなお余る。すでに意見をお持ちだろうが、愚見によれば、主上しゅじょうの御心を変えることは難しく、国はもはや保ち難い。当座の計をなすのであれば、ただ遠方に身を避け、時勢を見極めて再興を図るのが上策です。此処で呻吟しんぎんしたところで敵にとりことされる辱めを受けるだけでしょう」

▼「賢弟」は兄弟または親戚の年少者への呼びかけに使う二人称。

「吾もまったく同じ考えです」

 劉璩の言葉が終わる前に何者かが昭烈廟に入って呼びかける。

劉子通りゅうしつう(劉霊、子通はあざな)はいるか」

 慌てて出迎えると、声の主は楊儀ようぎの子の楊龍ようりゅうであった。

▼楊儀の子の名は伝わらない。

「あなたの家に伺うと、昭烈廟に行かれたとのこと、それならと此処まで来たわけです。皇子がおられるのであれば、鄙見ひけん開陳かいちんさせて頂きたい」

 劉霊とともに廟に入ると次のように言う。

「この楊龍は世事せじに長けてはおりませんが、事ここに至って思い出すに、亡父ぼうふはかつて諸葛しょかつ丞相じょうしょう諸葛亮しょかつりょう)が世を去られる直前の枕頭ちんとうに侍り、遺言を受けております。それは、『劉氏はこれからふたたび衰えるが、三十年の後には英主えいしゅが出て再興し、中原ちゅうげんを平定する』というものでした。臣はこれを深く心に刻みました。国家は危難にひんし、情勢は覆しようもありません。しかし、再興する日は必ず参ります。殿下の容貌を観るに、神霊の恩寵がさまざまに表れており、漢を再興するのは必ずや殿下でありましょう。智者とはきざしの表れないところに将来を予見し、表れを待つことはありません。『春秋しゅんじゅう』によれば、往古おうこ、晋の申生しんせいは乱れた国に留まって死に甘んじ、弟の重耳ちょうじは国を逃れて流浪の後に天下にを唱えました。これこそならうべき故事です。殿下に従って沈み行くこの国より逃れ、天下を放浪した末が死であっても、それは願うところです」

▼「重耳」は後の晋の文公、春秋の五伯ごはの一人に数えられる名君。


 ※


 楊龍がそう言ったとき、昭烈廟に一人の勇士が姿を現した。足音高く廟に踏み込むや、一同を見て大喝する。

「まだこんな所に残っているのか。自らの命を敵に送りつけるようなものだぞ」

 おどろいて見遣みやれば、それは梁王府りょうおうふ護衛ごえい親兵しんぺいの総領、秦州しんしゅう狄道てきどう出身の齊萬年せいばんねんであった。

▼「梁王」は劉禅の異母弟の劉理りゅうりを指すと思われる。劉理は梁王に封じられ、その後、建興八年(二三〇)に梁王から安平王あんぺいおうに改封されている。齊萬年が属する「梁王府」は劉理の王府を意味すると考えるのがよい。

「兄の北地王ほくちおう劉諶は国難にじゅんじ、天地もその忠誠を憐れみ悲しんでいるだろう。遺命は幼子の劉曜りゅうよう撫育ぶいくせよというものであった。劉曜は揺籃ようらんの幼子であり、何とか助けてやるよりない。万一、劉曜が命を落とすようであれば、吾もともに命を落とすよりないのだ。しかし、吾らが置かれた虎口ここうは免れ難く、関門は高く険しい。将軍と同輩の力を借りれば、この幼子の命を救えるやも知れぬ。将軍をいて吾らを救い出せる者はいない。何とか助力を願えないだろうか」

 劉璩が齊萬年の手をって言うと、その目から涙が溢れ出た。齊萬年が言う。

軍監ぐんかんとして城外に出られている御子息を言われず、兄君より託された甥御おいごに死生を賭けられるおつもりか。ならば、公子(劉曜)が後日に万民の主となる器量であるとは、占うまでもなく知れたこと、合力ごうりきせぬわけには参りますまい」

 劉璩の長子の劉聰りゅうそうは生まれつき人に優れて弓馬きゅうばを善くした。この時、後主の命により軍監として姜維きょういの軍に随っており、姜維はその知勇を知って重んじたと言われる。齊萬年が言ったのは、この劉聰を指している。

 齊萬年は語を継ぐ。

「殿下の御志は承知いたしましたが、吾が一身にて北地王の公子までお救いしようとしても、おそらくはいずれもお助けできますまい。臣に刎頚ふんけいの友があり、姓名を廖全りょうぜんと申します。平西へいせい将軍の廖化りょうかの子にして真の勇士であり、義気は人に抜きん出ております。つねに征討に従って国家のために力を尽くさんと願っておりましたが、廖平西(廖化、平西は官職名)はその一粒種ひとつぶだねなるがゆえに惜しんで許しませんでした。臣とは武芸を競って親しく付き合っております。これより、廖全を連れて参りましょう。公子の護衛を廖全に任せられれば、臣が先頭に立って魏兵の中に血路をひらき、誓って死戦して国恩に報じましょう。ただ、脱出の際は迅速に戦場を抜け、遅れてはなりませんぞ」

 その言葉に反対する者はなく、齊萬年は馬を駆って廖全のもとに向かった。

▼廖化の子の名は伝わらない。

 劉璩を含めて昭烈廟に集った者たちは、いずれも劣らぬ義勇の人、すみやかに城を出なくてはと勇むところに、齊萬年が廖全を伴って駆け戻る。劉霊と楊龍は包囲の一方を破るべく手薄な場所を探り出し、一斉に西門を破って城外に出た。


 ※


 齊萬年は大刀を手に先頭に立ってみちを拓く。劉曜を背負った廖全が鎗を振るって後ろに随い、劉伯根が眷族けんぞくを保護してそれにつづく。劉璩、劉霊、劉璩の子の劉和りゅうわ殿しんがりを守って包囲する魏兵の只中を突き進んだ。

 その時、魏将の方來ほうらいという者が行く手をさえぎって呼びかける。

「お前たちはみな官服を着ているが、蜀主しょくしゅが降伏した今、お前たちも魏の民である。聖上せいじょうは才によって登用して下さるであろうに、何のために逃げ隠れするのか」

 齊萬年はその言葉が耳に入らぬごとく、怒りに眼を雷光のように光らせて大刀を車輪に回し、当たるを幸い前を阻む魏兵を斬り散らす。方來もまた鎗をひねって齊萬年に向かい、さらなる説得を試みる。

 方來は齊萬年の敵ではないが、多勢の魏兵を追い払うのが精一杯、重ねて眷族も守り抜かねばならない。齊萬年は前を阻む方來を馬から突き落としただけで通り過ぎた。

 先頭に立つ齊萬年が血路を拓いて魏軍の包囲を抜けると、廖全も勇を奮ってそれにつづき、もはや前を阻む者もない。一同ついに包囲を抜けたが、方來は諦めず兵を差し招いて追いすがる。

「魏兵どもは死命を知らず追ってくる。大将を斬らねば追撃はやむまい」

 齊萬年はそう言うと、馬を返して迎え撃ち、一刀の下に方來を斬り殺した。魏兵はその様に臆して逃げ戻っていく。

 かくして劉曜を含む一同は九死に一生を得たことであった。

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