第二回 呉将は郴嶺の軍営に方略を諮る

 晋の太康たいこう元年(二八〇)、晋帝しんてい司馬炎しばえんは正月に出兵して四月にを平定し、五月には帰命侯きめいこうほうじられた孫皓そんこう洛陽らくようで引見した。

 その際、張華ちょうか杜預どよは次のように上奏している。

「孫皓は陛下の御命令に従いましたが、なおいくつかの州郡が抵抗しております。すみやかに軍勢を遣わして平定すべきです。招安しょうあんして慰撫いぶするにしても、虎を養って後患こうかんを残してはなりません」

 晋帝はその上奏をれ、各地に将兵を派遣した。冠軍かんぐん将軍の羅尚らしょう将軍の劉弘りゅうこうゆう将軍の山簡さんかん先鋒せんぽう将軍の周旨しゅうし、副将の弓欽きゅうきん兪賛ゆさん皮初ひしょ應詹おうせん護軍ごぐん劉喬りゅうきょう陶鎔とうようたちは十万の軍勢を率いて嶺南れいなんにある廣州こうしゅう交州こうしゅうの平定に向かう。

▼「嶺南」とは、五嶺山脈ごれいさんみゃくの南を指す。五嶺山脈は越城嶺えつじょうれい都龐嶺とほうれい萌渚嶺ほうしょれい騎田嶺きでんれい大庾嶺だいゆれいの五つの嶺からなり、荊州けいしゅうと南の廣州を隔てる。

 また、賈模かぼを総帥とし、平東へいとう将軍の夏侯駿かこうしゅん左軍さぐん副将ふくしょう解系かいけい右軍ゆうぐん副将の皇甫重こうほじゅう破敵はてき将軍の辛冉しんぜん禦敵ぎょてき将軍の李微りびたちとともに、十万の軍勢を率いて湘東しょうとう建平けんぺいの平定に差し向けた。諸軍は早朝に洛陽らくようを発すると、二筋の道に分かれて敵地を目指す。

▼「廣州」は現在の広東かんとん省にあたる。

▼「交州」は現在のベトナム北部にあたる。

▼「湘東」とは、南から長江に注ぐ湘水しょうすいの東岸を指し、荊州けいしゅう長沙ちょうさ郡を指す。

▼「建平」とは、湘水の合流地点から長江を溯上して巴蜀はしょくに入る手前、巫峡ふきょうの北岸にあたる。嶺南を目指す羅尚の軍勢と建平を目指す賈模の軍勢は、江陵こうりょうあたりまで軍勢を並べて進み、そこから羅尚は南に湘水をさかのぼり、賈模は西に長江を遡ったと考えるのがよい。


 ※


 この時、陸晏りくあんが呉の廣州こうしゅう刺史ししを務めていた。

▼「陸晏」は史実では王濬おうしゅんと戦って戦死している。

 その父は晋の羊祜ようこと対峙した陸抗りくこうであり、孫権そんけんに仕えた陸遜りくそんの孫にあたる。六韜りくとう三略さんりゃくの兵学に通じ、天性聡明にして父祖の風を受け継ぐ。晋兵が四道より呉に攻め込んだとの噂を聞き、陸晏は将士を召して対策をはかった。

 その副将に南陽なんよう出身の縢修とうしゅうあざな顕先けんせんという者があり、これまた知識に優れている。その縢修が軍議の席にあって次のような意見を述べた。

「急ぎ蒼梧そうご太守の王毅おうき始興しこう太守の閭曹りょそうを召して兵を会し、ともに国難に赴くべきです」

 陸晏もその意見に同じ、使者を蒼梧と始興に遣わすこととした。

▼「廣州」の州治しゅうち合浦がっぽ、蒼梧郡はその西隣、始興郡は北隣にあたる。

 日ならず王毅と閭曹が軍勢を率いて廣州に到り、陸晏に会する。また、交南こうなん留守りゅうしゅ莞恭かんきょう帛奉はくほうも五万の精兵を率いて廣州に向かったという。

 諸将が相見あいまみえて久闊きゅうかつじょすると、陸晏は酒宴を開いて歓待する。ついで、軍議を始めようとしたまさにその時、姚信ようしん劉學りゅうがく郭連かくれん、縢修が門上に駆け上がり、莞恭と帛奉の到着を報じた。

 陸晏は彼らを招じ入れると、建康けんこうが危急との報の実情を質す。

▼「交南」とは、交州南部と解されるが、交州の州治は交趾こうし、現在のベトナムにあたる。交州より廣州の方が建康に近く、陸晏が莞恭と帛奉に建康の情報をただすとは考えにくい。

 莞恭があわただしく答える。

「建康は晋の王濬が率いる大軍に陥れられ、主上しゅじょうは書を奉じて降伏を乞い、すでに城を出られたとのことです。吾らは事態を挽回するに力及ばず、逃れて此処に参りました。公に従って再び国難に赴かんと願うのみです」

▼「主上」は臣下が主君を指して言う場合に遣う。

 一座の諸将はこの言葉を聞くと顔を覆って大哭だいこくした。縢修がそれを制して言う。

こくしても無益です。先ほどからの軍議を聞く限り、吾らがこの東南辺境を堅守すれば、再び孫氏の一族を推戴すいたいして忠を尽くすことも叶いましょう」

 陸晏がその言葉につづけて言う。

「諸公にその意志があるならば、この廣州を離れてはならぬ。察するに、日ならずして晋兵が到ろう。この地を守り抜くならば吾らは泰山たいざんの如く磐石ばんじゃくでいられるのだ」

 陸晏の言葉に姚信が勇み立って応じた。

「列席の諸公は国家の忠義の臣であり、東南地方の重鎮です。ただ心を一にして助け合い、ともに晋兵を退けるとあれば、何を憂えることがありましょうか。功名を建てることとて甚だやすく、誰がその労を惜しみましょう。この廣州で不倶戴天ふぐたいてんの仇敵に恥をすすぎましょうぞ」

 宴席が果てて諸将は陣営に戻り、翌日ふたたび参会することとした。


 ※


 翌日の軍議の席で陸晏の佐僚さりょうの一人が問うた。

晋主しんしゅが詔を発して吾らを招安した場合、将軍はどのように処されますか」

「吾らは代々呉の俸禄をんできた。たとえ主上がかつて暴虐であられたとしても、歴世にわたり江東の地を護って民を保った功があり、それを覆す大罪を犯してはいない。それにも関わらず、晋は名分めいぶんなく戦を起こし、みだりに隣国を侵奪した。吾はそれを深く恥であると思う。たとえ国が破れたとはいえ、どうして晋主の招安に従えようか」

 陸晏がそう応じると、王毅も賛同する。

「陸廣州(陸晏、廣州は官職名)の忠肝と誠実は白日はくじつをも貫こう。主上が敵に降られたと聞いても、臣子たるものが徒に俸禄を食んだ上、富貴を図って仇敵の栄爵を求められようか」

 それを聞いた陸晏は浮かぬ顔で懸念を口にした。

「晋が強兵きょうへいたのんで兵馬で威圧するならば、ただ戦うだけのこと、対処は容易たやすい。しかし、主上の手書しゅしょを得て単騎で持ち来たったとすると、難しくなる。まずは晋の出方を観るのがよかろう」

 それよりほどなく、早馬が城に駆け込んで報せる。

「羅尚を元帥とする十万の軍勢が長沙の大道よりこちらに向かっております。日ならずして州境に到りましょう。百姓をおどろかさぬよう、すみやかに防備を整えねばなりません」

 陸晏は報告を聞くと、防禦の方策を講じるべく軍議を開いた。


 ※


 軍議の席で諸将の列より一人が進み出て言う。

「今、晋軍は一路によって攻め寄せております。まずは猛将を選んで一万の兵を与え、郴嶺ひんれい狭隘きょうあいな地形に拠って防がせれば、羅尚に百万の軍勢があって漢の高祖こうそに仕えた陳平ちんぺいが計略を立てたとしても、通過できますまい。その上で精兵を率いて周辺の要地を押さえ、いつを以って敵のろうを待てば、十万の晋軍といえども手の打ちようはありません。坐して日を送れば糧秣りょうまつにも事欠き、撤退せざるを得なくなりましょう。その時機を見計らい、奇兵を出して晋軍を襲えば、勝てぬはずがありません。羅尚の軍勢を一蹴すれば、軍の士気も揚がります。それより国土を恢復かいふくする計を立てて国の恥を雪ぐのが良策というものです」

▼「郴嶺」という地名は史書にない。長沙から湘水を南に遡って五嶺を越えれば廣州に到り、五嶺は郴縣の南にあって頂から廣州まではさえぎるものがない。郴縣の南にある五嶺の鞍部あんぶと考えるのがよいだろう。

 この人はすなわち、陸晏の従弟、南蠻なんばん校尉こうい陸玄りくげんであった。

▼「陸玄」は陸抗の子として名のみ伝わり、事跡を欠く。

▼「南蠻校尉」は『晋書』│職官志しょっかんしによると、司馬炎の治世には襄陽じょうように置かれ、おそらく五渓蠻ごけいばんの鎮撫にあたったと考えられる。その後、荊州刺史が兼任することとされている。よって、南蠻校尉が廣州にいる設定は当時の実情とは異なる。

賢弟けんていはかりごとはよいが、誰を選んで郴嶺に遣わすべきだろうか。知勇兼備ちゆうけんびの者でなくてはこの任には当たれぬ。おそらくえる者は少なかろう」

▼「賢弟」は年少の兄弟はまたは親戚を呼ぶ際に遣う二人称。

 陸晏の言葉が終わるより早く、一人の大将が進み出た。生まれつき豹のように締まった顔立ち、虎のように太いうなじ、狼のように鋭い眼光、獅子の如く太い眉、身長九尺(約280cm)の大男、林のような紫の髯を伸ばしてその膂力りょりょくに及ぶ者なく、世にも稀な勇士である。

 これは呉郡ごぐん宜興ぎこうの人にして西陵せいりょう旧都督の周魴しゅうほうの子、姓はしゅう、名はしょあざな子隠しいんという。

▼魏晋の一尺は24.12cm、著述された明代は31.1cmに相当、以降、尺は明代に従って併記する。

 陸晏が郴嶺の守備にえる将がいないと嘆くのを聞くや、その前に進み出て言う。

小将しょうしょうの才では任に堪えぬとお思いかも知れませぬが、願わくば郴嶺に赴き、晋軍を押し止めて御覧に入れましょう。お任せ頂ければ、決してご期待に背きません」

▼「小将」は武人が遣う一人称、へりくだって言う場合に遣われる。

 陸晏は周處の言葉を聞いて言う。

「子隠が郴嶺に行ってくれるのであれば、もはや心配はあるまい」

 周處を先鋒に任じると、冠軍かんぐん将軍の莞恭を左翼、破敵はてき将軍の帛奉を右翼として二万の兵を授け、郴嶺の関塞かんさいに入って晋軍の侵攻を防ぐよう命じる。周處、莞恭、帛奉の三人は即日、馬を駆って郴嶺に向かうこととなった。

 その出発にあたり陸晏は盃を挙げてはなむけとし、訓令して言う。

「郴嶺は廣南こうなん第一の要害、これに比肩する要地はない。諸将はよく方略をめぐらし、晋軍を侮り軽んじて軽率に出戦することのないように」

「ご懸念には及びません」

「周将軍(周處)が出馬するのであれば、東南地方の民も安んじておられよう」

 陸晏と周處の遣り取りを聞き、傍らの陸玄が陸晏に耳打ちして言う。

「すでに決まったこととはいえ、子隠は性剛猛なるがゆえに敵の挑発に激するか、無謀に付け込まれて計略に陥るおそれがあります。子隠だけでは十全ではありません。さらに一人の優れた参謀を得て助け合わせれば、万に一つの誤りもありますまい」

「誰を参謀として遣わすべきだろうか」

中軍ちゅうぐん司馬しばを務める諸葛愼しょかつしんがよろしいでしょう。この人は謀に秀でてその知識は深く広く、諸葛しょかつ子瑜しゆ(諸葛瑾、子瑜は字)の孫だけあって祖父の風格を受け継いだ長者であると誰もが認めております。彼を参謀に任じれば、子隠の欠点を補えましょう」

▼諸葛瑾の子は諸葛恪しょかつかく諸葛融しょかつゆうの名が知られ、「諸葛愼」の名は伝わらない。

▼「司馬」は刺史に属して軍事を総括する官だが、ここでは軍参謀の意と考えられる。

 陸晏はその言をれて人を遣わし、諸葛愼を召し出した。郴嶺への出兵を命じると、諸葛愼は欣然きんぜんとしてうべない、周處、莞恭、帛奉とともに郴嶺に向かったことであった。

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