通俗續三國志

一章 三国時代終わる

第一回 王渾と王濬の二将は大いに平呉の功を争う

 昔、かん高祖こうそこと劉邦りゅうほうしんに叛いて兵を挙げ、周の徳を受け継いで秦の煩瑣はんさな法を廃し、三章に約して統治に意を用いた。

 それゆえ天下の万民は心を寄せ、ついに項羽こううを滅ぼして国統こくとう後嗣こうしに伝えたのである。

 その劉邦が建てた漢王朝も遂には権臣けんしん専横せんおうし、王莽おうもうのごとき佞人ねいじんやからに国を奪われるに至る。

幸いにも光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅうが起って劉氏りゅうしを再興し、国統を南陽なんよう劉氏に伝えて代々帝位ていいを襲い、前後あわせて四百年の永きにわたり中原ちゅうげんを治めたのであった。


 ※


 栄えたものは枯れ、盛んになったものは衰えるのが万物に通じる自然しぜんことわり三国さんごくの世に入ると漢王朝の上にあった天命はあらたまり、漢の火徳かとくは今にも尽きんとするに至る。その光は消えぬまでもかすかとなり、は漢の国威を奪って国土をき、中原全土は瓜のように分かたれた。

 幸い、天はいまだ漢王朝の徳を見限っていなかったか、劉備りゅうびを世に生んで善徳ぜんとくを与えた。吾が身が窮するも仁に背かず、百敗して志を曲げず、その人徳は誠に万国の宗主そうしゅとするに足る。

 それのみならず、天は賢哲けんてつの人を生んでその羽翼となし、しょくに国を建てて一隅いちぐうの地を占めるに至らしめた。実に君臣が徳を一つにして異族いぞくを融和させたたまものであろう。


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 諸葛亮しょかつりょうは弱を転じて強となし、魏はその北伐ほくばつを虎のようにおそれ、一時代に大なる名声を博した。しかし、五丈原ごじょうげんの陣中に将帥の落命を暗示する流星がちて諸葛亮は世を去り、ついに奸雄かんゆうが志を得る。

 千年の時を過ぎた今に至るも、なお史書を読んだ人の心は痛憤つうふんを感じずにはいられない。

 事ここに至るも天は漢の火徳の衰微すいびを憐れみ、幸いにも救いをその子孫に与えた。兇暴きょうぼうを除き、漢の祭祀と劉氏の宗廟そうびょうは三たび興って子孫の繁栄は続き、礼楽れいがくの伝統を全廃するに至らなかった。

 漢を追慕ついぼする民心が天に通じたのであろう。


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 蜀漢しょくかん滅亡より十七年が過ぎたしん太康たいこう元年(二八〇)春三月、呉主ごしゅ孫皓そんこうが降伏を乞うて晋はついに三国の鼎立ていりつくじき、天下を一家となし終えた。

 呉平定の報を受けると、晋の朝廷では群臣が祝賀の上表文を奉じてこれを祝い、その騒ぎの中にあって晋帝しんてい司馬炎しばえんは酒盃を挙げ、涙を流して嗟嘆さたんした。

「これもひとえに今は亡き羊祜ようこが平定の筋道をつけたおかげである」

▼『晋書しんじょ』羊祜傳によれば、羊祜は泰山郡たいざんぐんの豪族である羊氏の出身、姉が司馬師しばしに嫁いで姻戚いんせきとなり、司馬師の弟である司馬昭しばしょう招聘しょうへいにより仕官して官職をれきした。晩年は長江中流の対呉拠点である襄陽じょうようって呉の陸抗りくこう陸遜りくそんの子)と対峙たいじし、陸抗の死後は呉への出兵を主張するも、果たさず世を去った。

 晋帝をはじめとして朝廷の誰もが呉の平定を祝賀する中、呉から降った驃騎ひょうき将軍の孫秀そんしゅうは独り呉の国都がある南方を向き、涙を流して司馬炎とは異なる慨嘆がいたんを呟いていた。

「その昔、孫伯苻そんはくふ孫策そんさく、伯苻はあざな)は袁術えんじゅつにより懐義校尉かいぎこういに任命され、曹操そうそう上表じょうひょうにより漢の献帝けんていに推薦されて討逆とうぎゃく将軍に任じられた。その後、江南こうなんで数世に渡るいさおを立てたものの、今や弟の孫にあたる孫皓そんこうが江南を挙げて奉献ほうけんするに至った。悠々ゆうゆうたる蒼天そうてんはこの推移をどのように観るのであろうか」


 ※


 孫秀は鬱々うつうつとして朝廷を退き、煩悶はんもんが顔色にまで表れていた。子の孫會そんかいに問われ、つぎのように誓って言う。

「昔、薛公せつこう故国ここくに帰らない信陵君しんりょうくんわらうと、魏に帰って秦軍を破り、千年が過ぎても人々はその芳名ほうめいを慕っている。吾は禍を避けて晋に身を寄せても心に本国を忘れておらぬ。一朝にして呉国が覆敗ふくはいするのを見て、心は裂かれたように痛み、宗族そうぞく倫没りんぼつを悲哀せずにいられぬ。呉国を再興できずとも、隙を窺って必ずや司馬氏に報いるつもりだ」

 この言葉の通り、司馬氏の天下は孫秀により乱されることとなった。

▼「薛公」とは、戦国四君せんごくしくんの一人である孟嘗君もうしょうくんを指す。せいの貴族であったが晩年には湣王びんおううとまれて魏に亡命、その後、湣王はえん樂毅がくき攻伐こうばつにより殺され、田単でんたんが復興した齊に還って世を去った。孟嘗君が秦を破ったのは魏への亡命より十五年ほど前、秦の昭襄王しょうじょうおうに宰相として招かれたが讒言ざんげんにより拘留され、「鶏鳴けいめ狗盗くとう」で有名な食客団しょっきゃくだんの活躍で齊に戻った直後のことである。信陵君しんりょうくんも同じく戦国四君の一人で魏の貴族、秦に首都を包囲されたちょうの救援に独断で向かい、秦を退けた後も趙に留まって魏王の怒りを避けた。孟嘗君の死は紀元前二七九年、信陵君が秦と戦ったのはそれより二十一年後の紀元前二五八年であるため、孟嘗君が魏に帰国しない信陵君を哂った史実はないだろう。文意は「故国のために仇をほうじた者は千年の後にも芳名を慕われた前例があり、それは正義の行いである」と言っているに過ぎない。

▼三国時代の末に孫秀は二人いた。『三國志さんごくし三嗣主傳さんししゅでん建衡けんこう二年(二七〇)九月に「都督ととくの孫秀が晋にはしった」と記し、『晋書しんじょ武帝紀ぶていき泰始たいし六年十二月に「呉の夏口督かこうとく前将軍ぜんしょうぐんの孫秀が降って会稽侯かいけいこうほうじられた」とある。清代しんだいに編纂された『三国志會要さんごくしかいよう』によれば、この孫秀は孫権そんけんの孫、孫泰そんたいの子であるらしい。もう一人の孫秀は、『晋書』趙王倫傳ちょうおうりんでんによると、琅琊ろうや小吏しょうりから身を起こして趙王の許で栄達したという。潘岳傳はんがくでんによると潘岳はんがくの父の潘芘はんひが行政長官である内史ないしとして赴任した際、孫秀は小間使いとして子の潘岳に仕えたとされている。同じく王戎傳おうじゅうでんにも孫秀が琅琊郡の官吏となった際の逸話があり、いずれの記述からも大した家柄ではなかったと分かる。さらに、孫恩傳そんおんでんには「孫恩は琅琊の人、孫秀の同族である」と記されている。著者の酉陽野史ゆうようやしは孫泰の子と琅琊の小吏から身を起こした孫秀の二人を意図的にか混同している。


 ※


 呉の平定に紆余曲折うよきょくせつがなかったわけではない。出兵に先立って晋の百官が是非を論じた際、大勢たいぜいは軽々しい出兵を戒めて反対し、張華ちょうかのみが時勢より見て必勝の機であると唱えた。

 重臣の賈充かじゅうまでも張華を批判して言う。

「呉への出兵は時期尚早じきしょうそうでございます。淮水わいすい南岸から長江までの地は、夏季には酷暑多湿こくしょたしつとなって軍中に疫病が蔓延まんえんいたします。軍を召還して後挙こうきょを図られるべきです。張華の主張は大罪にあたり、誅殺ちゅうさつして天下に謝してもまだ足りませぬ」

 晋帝はその意見をれず、次のように言うのみであった。

「張華の計はちんの意にかなう」

 朝廷の外に目を転じれば、出兵を主張したのは張華に止まらない。対呉戦線にあった杜預どよも賈充の発言を知っておどろいた。即座に上表文をしたためると洛陽らくように早馬を飛ばし、延期してはならぬと固く争う。

▼「杜預」は通常「とよ」と読むべきであるが、『春秋しゅんじゅう』に注釈を加えたことから儒学方面で古くから名を知られ、日本では慣例的に「どよ」と読まれる。ここでは慣例に従う。

 このような経緯から、呉が平定されると賈充は大いにじて罪を請い、晋帝はただ慰撫して不問に付した。


 ※


 ついで、論功ろんこうの際には、出征軍の総帥を務めた王渾おうこん益州えきしゅうから船団を率いて長江を下った王濬おうしゅんの二人が功を争って騒動が持ち上がる。

 呉の丞相じょうしょう張悌ちょうていが力戦の果てに戦死すると、呉兵は痛哭つうこくして軍を解散した。

 これよりしょくから長江を下る王濬おうしゅんの船団の前に敵影てきえいなく、旗幟きしを大いに張って進むを得た。呉の国都の建康けんこうに到るや、王濬の軍勢は長江の川面かわもを覆って金鼓きんこの音が天を震わせ、呉人ごひとを大いに戦慄させた。

 呉主ごしゅの孫皓も張悌戦死の報を受けて内に守兵しゅへいなく外より援軍も到らぬと覚り、進退にきわまって降伏を請うに至る。降伏の使者が王渾、王濬、司馬伷しばちゅうの陣営に遣わされたのは、三月十五日のことであった。

 この時、王濬の船団はすでに三山さんざんを過ぎている。

▼「三山」は先に京口三山けいこうさんざんと解したが、長江の南岸、采石磯の手前に三山と称する山があり、これが正しい。『晋書』王濬傳によると「船団は十四日に牛渚ぎゅうしょに至ってさらに進み、三山で北岸にある王渾の軍勢を見た」と上奏している。孫皓の降伏が十五日であるとすれば、王濬は三山を過ぎた翌日に降伏を受けたことになる。

 王渾は王濬の動向を知ると殊勲を奪われるかとおそれ、船を留めて軍議に参加するよう書簡をおくる。しかし、王濬もその底意ていいは心得ている。帆を揚げて船を進める一方で使者を遣わし、「強風と急流のために進むよりない」と言い逃れをした。

 この日、王濬の軍勢はつづみを打ってときの声を挙げ、石頭城せきとうじょうで呉主の降伏を受けた。石頭城は建康の南門にあたる朱雀航しゅじゃくこうを西に向かった地にあり、ここを押さえれば建康の死命を制したに等しい。

▼「朱雀航」は橋であり、建康の南面には東西に流れる水路があった。その水路を西に下ると石頭城に到る。

 王濬は洛陽に使者を発して捷報しょうほうを献じた。


 ※


 翌十六日、王渾が長江を南に渡ると、すでに王濬が孫皓の降伏を受けており、城に入って民を安撫している。その王濬も軍営に不在であると知ると、憤激して罵った。

「なんとふてぶてしい老賊ろうぞくか。総帥は吾であって王濬は副将に過ぎぬ。ましてや詔勅しょうちょくにより吾が命に従う身でありながら、独断で敵の降伏を受けるとは僭越せんえつにも程がある。しかも、吾らが呉兵をたびたび破ったがゆえに長江に敵なく、王濬は帆を揚げて建康に直行できた。それにも関わらず、勲功をかすめてごう謙退けんたいの色がない。礼にもとることも甚だしい」

▼「老賊」は他人を罵る際に用いられる。

 王濬が殊勲しゅくんとなれば賞賜しょうしが薄くなると考え、将佐しょうさたちも怒りの炎に油を注ぐ。

「吾らが死力を尽くして版橋はんきょうに呉軍を破り、さらに長江を守る呉兵を破って張遵ちょうじゅん張咸ちょうかんを斬ったればこそ、呉軍の勢いを阻み得たのです。吾らの軍功により王濬めは易々やすやすと流れにさおして長駆ちょうくをなし得ました。それにも関わらず、今や先頭に立って呉の降伏を受け、元帥の功績をないがしろにするとは。これでは、吾々が耕した田の米を王濬に喰わせるようなものです。『走狗そうくは兎をうまく捕まえるが、それを食うのは猟師だ』ということわざとおりではありませんか」

▼「版橋」を『通俗』と『後傳』はともに「瀬郷らいきょう」としている。『晋書』王渾傳によれば、瀬郷には参軍さんぐん陳慎ちんしん都尉とい張喬ちょうきょうを遣わして平定しており、その後も丞相の張悌を中心とする呉軍の抵抗はつづく。『三國志』三嗣主傳によれば、晋軍が大勝して張悌を斬ったのは「版橋」とされている。文意より見て改めた。

▼「張咸」は『三國志』陸抗傳に江陵督こうりょうとくとして名が記されている。ただ、呉が平定された際に杜預が破った江陵督は伍延ごえんまたは王延おうえんとされる。

▼「張遵」は不詳。同じく陸抗傳に公安督こうあんとくとして孫遵そんじゅんの名があり、それを誤って引用したと思われる。いずれにせよ、杜預があたった長江中流域での戦いであり、長江下流域で戦った王渾とは関係がない。

 王渾はいよいよ怒りをたぎらせる。

「昨日、水軍が三山を過ぎたと聞いたため、吾は元帥の任として王濬を迎えて協議せんとした。王濬は呉の府蔵ふぞうわたくしせんと企て、風が強いと偽って先に建康に入ったのだ。朝廷に上奏して罪を定め、老賊を罰して恨みを晴らさずにおくものか」

 属将たちがさらに煽りたてる。

「元帥は勅命を奉じて諸軍を統制される身、軍権は元帥にあります。みだりに軍令に違反した者を罰して梟首きょうしゅし、罪を正すにあたって朝廷に上奏なさるにも及びますまい」

 王渾は麾下きかの諸将の意見にどうじ、王濬を攻めんと戦支度を命じた。王濬にくみする者はこの議論を聞いて罪なき者が冤罪えんざいで処断されるかと愕き、急ぎ事情を王濬に告げ報せた。


 ※


 王濬も王渾の罵言ばげんを聞いて黙ってはいない。

「吾が身すらも矢石しせきおかして呉を平定したのだ。その功はすでに朝廷も知るところである。天地に罪なき者を罰しようとは、たとえ元帥であっても筋が通らぬ。王渾が嫉妬を抱いた以上は必ずや攻め寄せてこよう。ただちに兵をもってこれに応じねばならぬ。手をつかねて王渾のとりことなることなどできようか」

 王濬の幕僚である参軍さんぐん何攀かはんはその言葉を聞くと、諌めて言った。

「そうではありません。今、将軍が王侍中おうじちゅう(王渾、侍中は官名)と争われれば、勅命に逆らったと見なされます。これでは、功を誇って自滅した鍾会しょうかいと選ぶところがございません。その上、王侍中は天子の勅命をこうむって諸軍を統制される身であり、将軍とてその命に服さねばならぬお立場、部下もまた同じことです。それにも関わらず、元帥の到着を待たず呉主の降伏を受けたことは、将軍の罪に違いありません。将軍は呉主の降伏を受けたことで誤っておられます。勅命に逆らう誤りを重ね、王侍中の兵を防ぐことなどできましょうか」

 王濬は激しく憤っていたものの、何攀の言を納れて王渾に和を乞うた。王渾もまた兵を収めて攻めなかった。

 それでも、王渾は功を奪われたと心中しんちゅう面白くなく、王濬の落ち度をしきりに上奏する。

「王濬は孫皓のまいないを貪って私せんと図り、勝手に降伏を受け入れました。さらに、軍令を無視して建康に入り、ほしいままに庫蔵こぞうを接収して兵に掠奪を許し、宮女をかくまい、勅命を奉じません」

 王濬もまた上奏して無罪を訴え、晋帝は、王濬が王渾とその党与に讒言を構えられて進退に窮していると察した。ゆえに王濬は罰せられるに至らず、ただ王渾の統制に従わなかった責を問われてその余は不問とされた。

 それでも王渾は度々上表し、功を争って止まない。晋帝はやむを得ず、賈充と王渾にそれぞれ封邑ほうゆう八千戸を与えて王渾の爵を郡公に進め、一方の王濬は輔國ほこく将軍に任じられた。

 ともに江南に出征した杜預、王戎も等しく縣公に封じられ、その他の将士も多くが功を論じて封賞されたことであった。

▼爵位には公侯伯子男の五等があってそれぞれこくぐんけんの三等に分けられ、國公こくこうから縣男けんだんまでの十五等となる。この場合、郡公の王渾に対し、縣公の杜預と王戎は一段低い封爵ほうしゃくを与えられたと解するのがよい。なお、晋の行政区域としては州が最大のものであり、その下に國または郡、郡の下に縣があったと理解すればよい。

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