続三国志演義─通俗續三國志─

河東竹緒

 そもそも小説とは世間通俗に説かれるものであって、正統の歴史ではもとよりなく、長夜閑暇ちょうやかんかの暇つぶし、あるいは、世事多忙せじたぼうの煩悶を忘れて広い歴史に心を一時ひととき遊ばせるに過ぎません。

 今の世に出版される通俗の歴史小説もすべて一時いちじに耳目のかいをとるのみ、『通俗三國志つうぞくさんごくし』を読んだところで、蜀漢しょくかん衰微すいび曹魏そうぎ僭上奢侈せんじょうしゃしを目にする後半に至れば読者は喜ばず、往々にかんを捨てて顧みないものです。

 関羽かんう張飛ちょうひ諸葛亮しょかつりょう趙雲ちょううんなど忠良の世傑が蜀の一隅に逼塞して漢王朝の覇業を恢復かいふくできない有様を見れば、切歯扼腕せっしやくわんしない者はおりますまい。

 蜀漢の後主こうしゅこと劉禅りゅうぜん司馬氏しばしに併呑され、英傑の子孫は姿を消して名を聞くこともなくなります。それを見れば千年の後にあっても恨みを残さざるを得ません。

 しかしてその後、劉淵りゅうえん父子が漢を懐かしむ人心に拠り、中国の西北に頭角を表して兵民は雲のように集い、ついに簒奪さんだつされた漢を名乗って都邑とゆうを建て、滅んだ蜀漢しょくかんの血統を継いだことを思えば、その国運が短かったとはいえ、また読者の心を喜ばせるものです。

 この書を編纂へんさんするのも、憤懣ふんまんを晴らして一時の快を得て、千年の後まで関羽、趙雲の忠良を顕彰せんとするに過ぎません。それゆえ、読者はあくまで小説として読み、正史せいしと引き比べてはなりません。

 遺漏のなかろうはずもありませんが、あきらかに前書を完結させて首尾を揃え、『三國志さんごくし』を補って旧伝とともに世の義士仁者ぎしじんじゃを快く感奮かんふんさせることを目的としています。

 この物語は司馬相如しばしょうじょの「子虚賦しきょふ」に現れる烏有先生うゆうせんせいと同じもの、すなわち虚構に他ならないのです。

▼「烏有」は「いずくんぞらん」、つまり、「どうして(そんなものが)あろうか」の意、虚構であることを示す。

時に元禄げんろく十六癸未みずのとひつじの年(一七〇三)、三月吉旦きったん


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 これは、明治四十四年(一九一一)に早稲田大学出版部より発刊された全十二冊の『通俗二十一史つうぞくにじゅういっし』の第六巻、中村昂然なかむらこうぜん通俗つうぞく續三國志ぞくさんごくし』の改訳を試みたものです。前段の序もそれによります。

 原書は二〇〇七年に上海古籍出版社より孔祥義こうしょうぎさんの校点こうてんによる『三國志後傳さんごくしこうでん』が出版されており、現在でも手に入ります。

 その内容は『通俗續三國志』三十七巻に加え、『通俗二十一史つうぞくにじゅういっし』第七巻の尾田玄古おだげんこ通俗つうぞく續後三國志前編ぞくこうさんごくしぜんぺん』三十二巻、『通俗つうぞく續後三國志後編ぞくこうさんごくしこうへん』二十五巻を合わせたものに相当します。


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 『三國志後傳』は、魏の元帝げんてい曹奐そうかん景元けいげん四年(二六三)の蜀漢の滅亡から説き起こし、蘇峻そしゅんの乱が平定されるしん成帝せいてい司馬衍しばえん咸和かんわ四年(三二九)まで、約六十年間の変転を記しています。

 『三國志演義さんごくしえんぎ』は黄巾こうきんの乱が起こった後漢ごかん中平ちゅうへい元年(一八九)からが滅亡する晋の太康たいこう元年(二八〇)の約九十年間ですから、三分の二ほどの期間です。


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 孔祥義さんの前言によると、『三國志後傳』の原題は『新刻續編三國志しんこくぞくへんさんごくし』といい、羅貫中らかんちゅう『三國志演義』の影響で生まれた歴史小説の一群に含まれ、みん神宗しんそう萬暦ばんれき三十七乙酉きのととりの年の嘉平かへいの月、つまり一六〇九年陰暦いんれき十二月付けの序が最古だそうです。

 ちなみに、「嘉平」は陰暦十二月の異称、そもそもは年末の祭りを言い、それが転じて十二月を指すようになりました。古くは臘祭ろうさいとも呼ばれ、竈の神を祀る日でもありました。


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 編者の酉陽野史ゆうようやしの本名は分かっていません。『三國志後傳さんごくしこうでん』前言によれば、酉陽ゆうようは現在の四川省の地名だそうで、その地に所縁ゆかりがある人かと推測されています。

 なお、秦の始皇帝の焚書ふんしょが行われた際、朝廷の博士だった伏勝ふくしょうの手で小酉山しょうゆうざんに千巻の書籍が隠されたという伝承があり、そこから転じて「酉陽」は「蔵書家」「博覧」の意味を持つようです。

 「野史」は「稗史はいし」と同じく「非公式の歴史書」と解釈できます。

 そう考えると、「酉陽野史」は「さまざまな書籍を博覧して著した非公式の歴史書」と解されます。ただ、これでは完全に著書そのままの筆名であり、著者の実像はまったく不明となります。

 なお、『晋書しんじょ地理志ちりしには荊州けいしゅう武陵郡ぶりょうぐん酉陽縣ゆうようけんが記されており、楊守敬ようしゅけい水経注圖すいけいちゅうず』では洞庭湖どうていこに注ぐ沅水げんすいを西にさかのぼり、武陵ぶりょうを越えた先の沅陵げんりょうから酉水ゆうすいを上ったところにあたります。その位置は現在の湖南省こなんしょうに含まれるようです。


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 『新刻續編三國志』の序が書かれた一六〇九年から百年ほど後、日本で訓読くんどくされたのが中村昂然『通俗續三國志』と尾田玄古『通俗續後三國志』です。

 『通俗續三國志』は元禄十六年(一七〇三)、『通俗續後三國志』はその九年後にあたる正徳しょうとく二年(一七一二)の序が付されています。

 当然、これらの初出しょしゅつ木版もくはん刷りだったわけですが、さらに二百年ほど後の明治四十四年(一九一一)に早稲田大学出版部がそれを印刷、出版したことになります。

 早稲田大学から出版されるくらいですから、当時は知られていたようです。


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 原書である『三国志後伝』については、本作にも多数のコメントを頂いているまめ@mamesiba195さんが調査し、Wikipediaの『三国志後伝』項を作成されています。


Wikipedia「三国志後伝」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E5%BE%8C%E4%BC%9D


ツイートまとめサイトのtogetterにはさらに詳しい調査に関する情報もあります。


【三国志後伝】 三国志演義の続編として刊行され、日本で翻案されて独自に発展しつつ、各国を渡り続け生き残り、中国で復活を遂げた数奇な書物の話

https://togetter.com/li/1247279


中国本土ではほぼ忘れられていた本作が復活するまでを綿密に調査されていますので、より詳しく知りたい方はこちらをご参照頂ければ幸いです。


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 本作の内容を言えば、史実しじつに忠実ではありませんし、質も『三國志演義』に遠く及びません。しかし、三国志以降の中国史に興味がある方には一読の価値があるかと思います。

 ただ、中村昂然さんと尾田玄古さんは江戸時代の人ですから当然ながら文体が古く、今では読むのに忍耐が必要です。そこで、なるべく平易に、流し読める程度まで書き改めました。

 登場人物の官職かんしょく明代みんだいの読者に分かりやすく言い換えられているようです。よほどの誤りに限って改め、意味を取りにくい箇所は推定される職務の説明を加えました。

 また、正史の地理志ちりしやその他の地理書を参照し、移動や戦場の位置関係に手を加えた箇所もわずかにあります。その場合も『三國志後傳』の筋に影響する訂正は避けました。

 ルビは固有名詞を中心に各回初出の際のみ付して後は省略します。また、古文風の言い回しや一般的な使用が想定されない用語も同様にルビを振っていますが、あくまで訳者の主観に基づいている点はご了承下さい。

 解説や追記には文頭に▼を残していますが、読み飛ばして頂いても物語への影響はありません。


平成二十九年(二〇一七)、九月二十四日

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