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「コーヒー、いっぱいでいいの?何か頼む?」
一杯目のブレンドを飲み終わって一息ついたところで、桐谷さんが気を遣ってくれた。
「あ、はい。じゃあなにか頼もうかな。桐谷さん、まだ時間大丈夫なんですか?」
「うん。今日は旦那さんも出張でいないの。終電に間に合えば全然大丈夫。明日は仕事も休みなの。なんか甘いの飲みたいな。カフェオレのんでいい?」
「あ、はい。私もそれで。」
すみません、カフェオレふたつ、と桐谷さんが注文をした。
カウンター席からすこし離れた四人がけのテーブル席から声をかけているのだが、マスターは聞こえていない様子だった。店内BGMのジャズ音楽を流すスピーカーの音量が、少々大きすぎるのではないか、と私は前から思っている。
「あの、お手洗いいってきますね。ついでに注文してきます。カフェオレふたつ。」
席を立って店内の奥の化粧室に向かう。べつにトイレに行きたかったわけでもないけれど。
「すみません、向こうの奥のテーブルなんですけど、カフェオレふたつ頂けますか?」
「カフェオレふたつ。かしこまりました。あ、お手洗いは左でのドアですよ。」
はあ、どうもありがとうございます、と案内されたドアを開ける。ついでなのはお手洗いのほうなのだが、と心のなかで小さく毒づきつつも、リップを塗り直した。
桐谷さんは先月までアルバイトをしていた喫茶店の先輩で、私は彼女のことを25、6歳くらいだと思っていたのだが、実際は34歳だということを今日知って、ものすごく驚愕した。本当に20代そこそこにしか見えないのだ。体の細い線に、肌つやに、顔の3ぶんの1くらいはありそうな大きなぱっちりとした目。加えて、今年21になる私と一回り以上の年齢差があるのにも関わらず、私が彼氏の話なんかをすると手を叩いてはしゃいでくれたノリのいい素敵な先輩だった。勤務して1ヶ月くらいで知ったのだが、モデルや女優などの芸能活動をしているらしかった。
私は期間限定雇用の派遣アルバイトだったので、半年で退職した。大好きな先輩だったので、もっと仲良くなれたらよかったなぁと思っていたけれど、私以外の全員が最低でも2年以上つとめており、なんとなく自分は部外者だと思っていたし、いくら仲良くしてくれていても、プライベートにはなかなか踏み込むような機会もなかった。縁がなかったと思って、遊びに誘ったりするようなことはしなかった。そもそも私は学生だし、桐谷さんは既婚の主婦だし、誘うのも少し気が引けた。
だから今日、桐谷さんとコーヒーを飲むことになったのは本当に偶然の成り行きだった。
ここ、『Cafe Cattleya』にはときどき訪れる。木製の椅子やテーブル、カウンターも一枚板で、統一感のあるやわらかな雰囲気と、夜になると流れだす、やや大きすぎる音量のジャズミュージック。バルコニー席はこの時期の夕方は使用されず、閉じられた窓からは月明かりが差し込む。控えめな照明と月明かりで、やっと本が読めるくらいの明るさで、間宮あかねの気に入りの場所だった。
今日は、ビルのなかに入りエレベーターを待っていたところで、うしろから、「間宮さん?」と声をかけられ振り向くと、桐谷さんが驚いた顔で立っていたのだった。私も驚いて「え⁉︎桐谷さん、どうしてここに?」と問いかけたのとほぼ同時にエレベーターが到着した。おたがいに驚きがおさまらずに、わたわたしつつも箱に乗り込み、聞くと、私が行こうとしている『Cafe Cattleya』の下の階の雑貨屋さんに行くつもりらしい。だがついてみるとそこはもう閉店していて、せっかく偶然にも再会できたんだし、ということで、一緒にお茶することになったのだった。
桐谷さんは、短い半年間の付き合いのなかでも、とくに私のことを可愛がってくれていたのだが、私と同じように、仕事以上の友人関係に踏み込むには、どうしても付き合いが足りないと感じていたと話してくれた。
永太とのことに心が張りつめていた私は、ここで桐谷さんに再会できたことになにかしらの必然を感じ、席に座って、「最近どうしてた?」という桐谷さんの問いかけに、ほぼ重なるくらいの勢いで、今日、恋人の携帯を見てしまったことを話した。桐谷さんは真剣に聞いてくれたのでいくらか心が楽になり、今度は、桐谷さんは今も務めている、元アルバイト先の喫茶店の同僚のわるくちが始まったところだった。
「おかえり、カフェオレきたよ。ありがとうね。」
「あ、いいえ。ぜんぜん。」
「それで、なんだっけ。ああ、三上さんね。あのひと、特別、間宮さんにあたり強かった気がする。前からそうなんだけど、新人ちゃんにあれこれ言いたいタチなの、あの人。」
「なんとなくわかってました。忙しい時とか、機嫌悪すぎてひどいですよね。すっごい当たり散らしますもんね。」
「そうなの。そのくせ、自分が体調悪いときなんかなよなよなよなよ、申し訳なさそうにしてくるし。あんなに当たり散らされて、間宮さん、嫌じゃなかったの?」
「嫌でしたけど、心の中でものすっごい毒づいてましたもん。このクソデブ、体を健康に保てないからそんなに情緒不安定になるだよ痩せろよ、とか。」
桐谷さんは大きな声で、それでいて不快にならない上品な笑い方で笑って、カフェオレを一口すすった。
「しかもさ、営業中はそうやって当たり散らすのに、退勤時間になって休憩室に戻った途端に、『忙しかったですね〜』って急に態度変わってすり寄ってくるじゃない?」
「あれって、多分、三上さんなりのアフターフォローなんでしょうね。そうやって周囲の人を振り回して生きてきたんだろうなあって思います。嫌われる勇気はないんですよね、きっと。」
「最初っから雰囲気良くやるように努力してほしいわ、それができないんだろうけどね。」
それからまた、混んでる時にいつのまにかどこかに消える山田さんの話や、女にやたら厳しい店長の話で同じようなところをぐるぐると3周くらい話したところで、そろそろ帰ろうか、終電なくなっちゃうね、と桐谷さんが言った。私がカフェオレを飲み終え、手持ち無沙汰でお冷をすすったところだった。
平日の終電はそんなに混んでいなくて、小さな声でぽそぽそと、余韻のように話をした。私が降りる駅の前の駅に着いたときに、桐谷さんは優しい口調でこういった。
「ねえ、永太くんの話だけどね、間宮さん、絶対大丈夫だよ。もし永太くんに下心があったら、可愛い彼女と半同棲だなんて話、自分からは絶対にしないよ。絶対にぜったいに大丈夫。でもね、不安になるでしょ、そしたら、我慢しないで永太くんに言うの。そしたら、永太くんはきっと『大丈夫だよ』っていうから、そうしたら、その言葉をひたすらに信じるの。根拠がなくても、信じるの。もし、もしも裏切られたらね、信じた自分はばかだったなぁって、でも相手はもっとバカなんだなって、多分思えるよ。でも、大丈夫だけどね、永太くんは。」
根拠のない「大丈夫」という言葉が、こんなにも救いになると初めて知った。私はいつも、根拠のないことを信頼することができないから、何事もピースが揃わないと、悪い可能性を際限なく考えてしまっていたから、そういうやりかたもあるのだな、と妙に感心した。
帰宅してシャワーを浴び、明かりを落とす。
軽くなった心を感じて、眠りについた。
分かり合えないすべてのひとたち @rei0094
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